19日、母の三回忌法要のためお墓のある岡山県へ行って来ました。
母の晩年6・7年間は 『 認知症 』 との闘いでした。
読書や勉強が大好きだった母に訪れた『認知症』という病は、想像を絶するものでした。
一般の家庭での母親の呼称は「お母さん」「母さん」もしくは「お母ちゃん」ですが、
私たち姉弟が物心ついた時には母のことを「マザー」と呼び、それは最後まで続きました。
英語の勉強をしていた母は、自らそう呼ばせたのでしょう。
一事が万事、母はオシャレもし、昔で言う 『 ハイカラ 』 な人でした。
そんなユニークな母の思い出話をすると、今となっては笑えることが多いのですが、
当初は私たち子供から見れば浮世離れしていると思われる程、母親らしくない母でした。
けれど母親としては「らしくない母」も、6人の孫たちのことは本当に平等に心から愛してくれました。
孫たちは皆声を揃えて「おばあちゃんのこと大好きだった!」と言います。
「親ばか」という言葉がありますが、「婆ばか」と思われる程、孫たち皆を褒めてばかり。
孫についていけるようにと英語や源氏物語を勉強したり、時にはマンガを読んだり…。
お酒が大好きだった母は主人とも気が合い、娘が産まれた時には毎晩宴会をしたものです。
そんな母が『認知症』になり、長年に渡りこんなに苦しむなんて誰が思っていたでしょう・・・。
昨年、一周忌法要後の夜、姉弟3組の夫婦でカラオケに行ったのです。
その時、弟が『吾亦紅』を泣きながら歌っている側で、それを聞いている私と妹も泣いていました。
そんな姉弟を見て妹婿が「泣き虫3姉弟やな」と言い、その言葉に皆思わず噴出してしまいましたが…。
『吾亦紅』という歌は本当に胸にグッとくる歌詞で、泣かずにはいられませんでした。
母を思い出す歌と言えば、母の事を「マザー」と呼んでいたことを知った友達が、
長渕剛さんの歌で『MOTHER』というのがあって、
「長渕剛ご自身のお母さんが認知症だったので母を思って曲を作ったらしいよ。」 と聞いて
そのCDを探し聞いてみると、確かに我が母そのものでした。
涙もろい私はまた、その『MOTHER』を聞いても涙が溢れます。
晩年の母の介護は、弟夫婦は転勤で岡山にいることもあり、妹と私2人での介護でした。
介護をしていた平成16年の冬、老いてる母の姿を見て私は
「 たらちねの母の姿 今いずこ 老いたる様はあわれに思いて 」
と、思わずペンを取りました。
今思い出しても母の晩年は年々認知症が酷くなり、次第に私達の事も分からなり、
我が母でありながら、老いた母の姿を見るのは正直とても辛かったです。
私も母が60代の頃に言っていた「老いることは寂しいことよ。」という言葉が解る歳になりました。
自分自身も絶対大丈夫とは言い切れず、目の前の老い先を見る思いで、幾度泣いたかしれません。
そして時間が経つにつれ泣くことも少なくなり昨年の一周忌から1年、19日に三回忌を迎えました。
「マザー!私たち子供3組夫婦、孫達、ひ孫達とも皆元気に仲良く暮らしているから安心してね!」
これからも見守って下さいね お母さん
最後に『吾亦紅』の歌詞を紹介させていただきます。
*** 吾亦紅 歌:すぎもとまさと ***
マッチを擦れば おろしが吹いて
線香がやけに つき難(にく)い
さらさら揺れる 吾亦紅
ふと あなたの 吐息のようで・・・
盆の休みに 帰れなかった
俺の杜撰(ずさん)さ 嘆いているか
あなたに あなたに 謝りたくて
仕事に名を借りた ご無沙汰
あなたに あなたに 謝りたくて
山裾の秋 ひとり会いにきた
ただ あなたに 謝りたくて・・・
小さな町に 嫁いで生きて
ここしか知らない 人だった・・・
それでも母を 生ききった
俺, あなたが 羨ましいよ・・・
今はいとこが 住んでる家に
昔みたいに 灯がともる
あなたは あなたは 家族も遠く
気強く寂しさを 堪(こら)えた
あなたの あなたの 見せない疵(きず)が
身にしみていく やっと手が届く
ばか野郎と なじってくれよ
親のことなど気遣う暇に
後で恥じない 自分を生きろ
あなたの あなたの 形見の言葉
守れた試しさえ ないけど
あなたに あなたに 威張ってみたい
来月で俺 離婚するんだよ
そう, はじめて 自分を生きる
あなたに あなたに 見ていて欲しい
髪に白髪が 混じり始めても
俺, 死ぬまで あなたの子供・・・