Design Manhole Cover

Design manhole cover that gathered throughout Japan

四日市駅

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
日暮れが近付いてきたので、ぶらり旅の御定書その4、「日没前に最寄り駅に着き、夜は走らない」を守るため、取り敢えず四日市駅を目指す。
途中の広重五十三次 桑名(七里渡口)の桑名には寄れないがやむを得ない。

四日市駅に着いたら電車の時間が迫っていた。今日の宿は亀山だ。
これを逃すと一時間以上待たないと次の電車が来ない。
急いで自転車をバッグに仕舞い、階段を駆け上がり、駆け下りて電車に飛び乗った。

ホテルに到着、隣のコンビニで夕食を調達。
風呂で汗を流してから、部屋でテレビを観ながら夕食を取って就寝。

岡崎宿・地鯉鮒宿・鳴海宿・宮宿・桑名宿・四日市宿

東海道自転車ぶらり旅 その1
東海道自転車ぶらり旅 その2
東海道自転車ぶらり旅 その3
東海道自転車ぶらり旅 その4
東海道自転車ぶらり旅 その5
東海道自転車ぶらり旅 その6
東海道自転車ぶらり旅 その7
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木曽川

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
川幅の広い川です。尾張大橋(878m)橋の上での釣り禁止の看板もなんのその、一人で三本も釣り竿を立てていました。
歩道を自転車で走るのが辛いのは前にも書きましたが、ここの歩道もデコボコです。
何とかなりませんか。

長良川河口堰

これが、かの有名な長良川河口堰ですか、変な形ですな。
この橋は伊勢大橋、この長良川と直ぐ先の揖斐川とに架かる全長1105mの橋ですが、ここの歩道も早いとこ直してくれ。

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熱田神宮

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
広重五十三次 宮(熱田神事)

え~、本日はお日柄も良く・・・。
結婚式の記念写真を撮っておいででした。

パレマルシェ神宮

熱田神宮から出て来たら、目の前に有ったので覗いてみた。
確か某n氏のブログに紹介されてた店舗だ。
成る程、クイーンズ伊勢丹っぽい店内でした。
しかし、レジ係の愛想の無いこと、これも私の風体がお店の雰囲気にそぐわないからでしょうか。

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有松

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
広重五十三次 鳴海(名物有松絞)
街道の両側には旧東海道の風情を残すように造られた家々が続き、「ありまつ」と染め抜かれた揃いの暖簾が掛かっている。

有松絞.comより以下引用
有松絞の歴史
絞の起源は古く奈良時代にさかのぼり幾多の変遷を経て今日に及び、慶長以前は、九州の豊後絞、肥後の高瀬絞が一部に知られていたようでありますが、今から約370年前慶長15年(1610年)豊後の大名が名古屋城築城の時連れてきた人から絞の技法を教えられ、この地の人たちがこれを伝承し、工夫を重ねて、東海道を行きかう旅人に売ったのが始まりといわれています。後に尾張藩の保護のもとたゆまぬ努力により、絞独特の優雅で多種多様な技法が考案開発され繁栄をきわめたのです。現在では絵羽織、訪問着等の絹物から木綿浴衣、インテリア製品など幅広く生産され、内外の需要に応えています。
引用ここまで

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桶狭間古戦場跡

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
国道に桶狭間古戦場跡の標識があり、それに従って左の道を少し行くと公園が有った。

桶狭間の戦い
永禄三年五月十九日(1560年6月12日)二万五千の大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名今川義元に対し、尾張の大名織田信長の手勢は三千人。
信長は揺動作戦を用いて今川の軍勢を分散させ、少人数の騎馬隊で義元の本陣を強襲し、今川義元を討ち取った。
今川氏はこの戦いを契機に没落し、勝利した織田氏はこれ以降急成長と遂げた。戦国時代の転換点となる重要な戦だった。(俄歴史研究家)

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知立

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
中町交差点に立派な建物が有ったので思わずパチリ。

広重五十三次 地鯉鮒(首夏馬市)
この辺りは昔、知立と言う地名だったらしい、江戸時代に知立神社の池に鯉や鮒が沢山居たことから池鯉鮒と付けられたとか。明治になり元の知立に戻したそうです。浮世絵は木綿の集散地だった地鯉鮒宿で運搬用に使われていた馬の市を描いたもののようです。(俄東海道歴史研究家)

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夫婦松

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
妙教寺の前に松の木が二本あるのだが、ここに夫婦松の立て札がある。
そして、左の松には「助さん」右の松には「格さん」の札が着いている。
ってことは、「助さん格さん」と云う夫婦がこの辺りに居たのか?
まさか、黄門さまのお供の「助さん格さん」が夫婦だったことが、この辺りで発覚したってことなのか?
う~ん、謎が深まるばかりでござる。

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横綱ラーメン安城店

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
11:00開店だそうだが、5分前なんだよね。
ドアの前で入ろうか先を急ごうか、どうしようかと悩んでいたら、中からドアが開き「どうぞ~!」と声を掛けられた。

今日の朝飯は新幹線の中であんパンとバナナだけだったのでお腹が空いてます。

注文をして、文庫本など読みながら待つこと暫し、出て来ました。

あれ?私が注文したのはラーメンと餃子なんですけど・・・。
ここじゃ、餃子を自分で作るんでしょうか?
などと悩んでいると「餃子は後からお持ちしますから」ってことで。
「こ、こ、これは?・・・。」
「お好きなだけラーメンに入れて下さい」だって。
いくら好きなだけ入れて良いったって、こんなに沢山ネギばっかし食わんぞ。

ラーメンで腹ごしらえが整った自転車は松並木を颯爽と進むのであった。

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矢作川(やはぎがわ)

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
広重五十三次 岡崎(矢作之橋)
橋を渡っているときに、白っぽい茶色の川砂を見て、遠い昔の記憶が蘇ってきました。
この色は矢作川だ。
三十数年前トラックの運転手をしていた頃に何度もこの川を越えたことが有ったが、白っぽく茶色の独特な砂の色が記憶に残っていたんだな。

橋の西側に蜂須賀小六と日吉丸(後の豊臣秀吉)の像が有った。
講談の矢作川の出会いはどうやら史実ではないらしい。

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岡崎城

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
天文十一年(1542)徳川家康は、岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄三年(1560)の桶狭間の合戦で今川義元が戦死した後、19歳で岡崎城に戻り元亀元年(1570)浜松城に移りました。(俄歴史研究家)

お城を後にして、東海道を進み交差点の歩道橋を渡っていると、二人連れのおばちゃんに「岡崎城はどっちですか?」って聞かれました。
私の様な旅人に道を聞くなんて、私が地元の人に見えたんでしょうか。まあ、どう見ても近所のおっさん風な服装と自転車ですからね。
流石に今、行って来たばかりなので、道はまだ忘れてません。

それにしても、歩道を自転車で走るのは疲れます。
「自転車および歩行者専用」の標識が有る所で車道を自転車で走っていると、自動車に邪険に扱われ、「お前は歩道を走れ」的な運転をされます。
特に大型トラック等が肩スレスレに抜き去って行くときは恐怖です。
そんな訳で市街地ではやむを得ず、歩道を走るんですが、舗装の継ぎ目がデコボコで走り難いったらありゃしない。それで、大きい交差点に来ると歩道橋ですよ。これを自転車を押して登るんですよ、全く弱っちゃいますな。
愛知県に入ってからの歩道状況の悪さったらないですな。
車道は滑らかで走り易いのに、歩行者・自転車・車椅子の事なんか考えてませんね。
自動車王国愛知県らしいや。

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東海道自転車ぶらり旅 その8

2005年10月01日 | 東海道自転車ぶらり旅
西の棒鼻(宿場の入口)

前回、藤川駅を後にしてから一月が経ちました。
5:30に家を出発して、小田原から久し振りの新幹線に乗り豊橋まで、名鉄に乗り継ぎここまで来ました。
9:30 秋晴れの藤川から旅の続を始めます。

歌川豊広歌碑

「藤川のしゅくの棒ばなみわたせば,杉のしるしとうで蛸のあし」
広重の師匠、浮世絵師歌川豊広の歌碑があり、説明文によると西浦・吉良から持ってきた茹で蛸を売っていたらしい。杉の印は造り酒屋かもしれない。

芭蕉句碑

「ここも三河むらさき麦のかきつばた」
むらさき麦とは穂がむらさき色をした麦で、江戸時代にはこの辺りで栽培されていたようです。毎年5月中旬から下旬にかけて穂先までむらさき色に染まった麦を藤川小学校向いの畑で鑑賞できるようです。

藤川一里塚跡

江戸から79里

東海道自転車ぶらり旅 その1
東海道自転車ぶらり旅 その2
東海道自転車ぶらり旅 その3
東海道自転車ぶらり旅 その4
東海道自転車ぶらり旅 その5
東海道自転車ぶらり旅 その6
東海道自転車ぶらり旅 その7
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