この戦で、伊右衛門は、新兵衛、吉右衛門等の働きを得て、近江でさる者ありと知られた草野河内守を討ち取ることができた。
小谷城が落ち、浅井久政、長政父子が自刃し、近江が織田家のものとなったのは、天正元年(1573)八月である。
信長は、この戦いで常に第一線で戦い、その功もっとも大きかった藤吉郎に、小谷城と二十二万石を与えた。
藤吉郎、三十八歳、はじめて大名になった。
姓も変え羽柴と称し、ほどなく信長は筑前守と称することを許した。
伊右衛門も、近江唐国に千石の知行地をもらった。
織田家の直参ながら、従前通り秀吉の与力(家来ではなく出向扱い)である。
久し振りに岐阜へ戻った。
「千代、久しかった」
「この度のお取り立ておめでとうございます」
「近江唐国に千石だぞ」
「その、唐国という土地に、行って見とうございます」
これは本心ではない。今まで縁の無かった土地などへ行きたくはなかったが、行って見たいと言えば伊右衛門の心が勇むであろうと思ったのである。
「一度、行ってみるか」
伊右衛門は単純なものである。
「それよりも、羽柴様は、小谷城よりも湖岸の今浜(のちの長浜)の方が湖水をひかえ、しかも中山道をおさえる要衝とみて、新城をお築きになるそうでございますね」
「よく知っているな」
いつもながら、千代の早耳には伊右衛門もあきれてしまう。
「千代、そなたは妙な才能があるな」
実のところ、千代は隣り屋敷の主である茶坊主に、実家からの到来物などをしょっちゅう持って行き、それとなく、織田家の動きを聴いている。
「今浜を長浜とお改めになり、ここに羽柴様最初のお城をお築きあそばす、とうけたまわりました。でも・・・」
「でも、どうした」
「あの、千代の亡父のことを申してもよろしゅうございましょうか」
千代の亡父、若宮喜助友興は、近江の湖畔、長浜にほど近い所に住んでいたことを千代は聞いていた。
「ふむ、だから、長浜が懐かしく思えるのか」
千代は、うなずいたがこれは本心ではない。千代には作戦が有るのだ。
「羽柴様が長浜にお城をお築きあそばせば、お城下に町が出来、侍屋敷の土地の拝領などもございましょう」
「むろんのことだ」
織田家の直参の伊右衛門は、岐阜にこの屋敷を拝領している。羽柴家にとって与力だから、長浜には屋敷地は貰えまい。が、強いて望めば、むろん秀吉は、自分を家来同然の気持ちで慕う者として、喜んで屋敷地をわけてくれるだろう。
「あははは、それほどに、亡父の土地が懐かしいのか」
伊右衛門は、おかしがったが、千代の本心は分からない。
千代は、羽柴様にもっと密着しておけと言いたいのだ。伊右衛門に岐阜だけではなく、長浜にも屋敷を持って秀吉に近付けと言いたいのだが、言葉には出さない。
「よし、他ならぬ千代の駄々だ。羽柴様にお願いして屋敷地を拝領しよう」
しばらくして、望月六平太が千代や吉右衛門新兵衛等に取り入って、伊右衛門の屋敷に食客として住み着いた。無論、伊賀者と知っているのは伊右衛門だけである。
天正三年(1575)長篠合戦で武田軍を破り、伊右衛門達が長浜城下へ戻ってきたのは夏も過ぎようかというころであった。
帰宅した伊右衛門に、千代は身ごもったことを伝えた。
伊右衛門と千代、二人にとってのお手柄だった。
翌天正四年(1576)の初夏、伊右衛門は石山本願寺攻撃に参戦中、女児誕生の知らせを受け、「よね」と命名した手紙を六平太に持たせ長浜へ走らせた。
その年は、摂津、河内、和泉、紀州と転戦し、翌天正五年(1577)四月、ようやく長浜に戻り、娘の「よね」と対面を果たした。
石山合戦の後、秀吉は、主人信長に乞うて与力衆を自分の家来にした。
親会社からの出向社員が、子会社の社員になったと云うわけである。
伊右衛門もその中の一人で、禄高は二千石に増やされた。
信長直属の旗本から、秀吉の家来に格下げになった事への見返りとも云う加増である。
つづく
名コーチの千代は、伊右衛門とは離れていても、必要な情報を収集し、さり気なく伊右衛門の行く先を方向付けている。
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小谷城が落ち、浅井久政、長政父子が自刃し、近江が織田家のものとなったのは、天正元年(1573)八月である。
信長は、この戦いで常に第一線で戦い、その功もっとも大きかった藤吉郎に、小谷城と二十二万石を与えた。
藤吉郎、三十八歳、はじめて大名になった。
姓も変え羽柴と称し、ほどなく信長は筑前守と称することを許した。
伊右衛門も、近江唐国に千石の知行地をもらった。
織田家の直参ながら、従前通り秀吉の与力(家来ではなく出向扱い)である。
久し振りに岐阜へ戻った。
「千代、久しかった」
「この度のお取り立ておめでとうございます」
「近江唐国に千石だぞ」
「その、唐国という土地に、行って見とうございます」
これは本心ではない。今まで縁の無かった土地などへ行きたくはなかったが、行って見たいと言えば伊右衛門の心が勇むであろうと思ったのである。
「一度、行ってみるか」
伊右衛門は単純なものである。
「それよりも、羽柴様は、小谷城よりも湖岸の今浜(のちの長浜)の方が湖水をひかえ、しかも中山道をおさえる要衝とみて、新城をお築きになるそうでございますね」
「よく知っているな」
いつもながら、千代の早耳には伊右衛門もあきれてしまう。
「千代、そなたは妙な才能があるな」
実のところ、千代は隣り屋敷の主である茶坊主に、実家からの到来物などをしょっちゅう持って行き、それとなく、織田家の動きを聴いている。
「今浜を長浜とお改めになり、ここに羽柴様最初のお城をお築きあそばす、とうけたまわりました。でも・・・」
「でも、どうした」
「あの、千代の亡父のことを申してもよろしゅうございましょうか」
千代の亡父、若宮喜助友興は、近江の湖畔、長浜にほど近い所に住んでいたことを千代は聞いていた。
「ふむ、だから、長浜が懐かしく思えるのか」
千代は、うなずいたがこれは本心ではない。千代には作戦が有るのだ。
「羽柴様が長浜にお城をお築きあそばせば、お城下に町が出来、侍屋敷の土地の拝領などもございましょう」
「むろんのことだ」
織田家の直参の伊右衛門は、岐阜にこの屋敷を拝領している。羽柴家にとって与力だから、長浜には屋敷地は貰えまい。が、強いて望めば、むろん秀吉は、自分を家来同然の気持ちで慕う者として、喜んで屋敷地をわけてくれるだろう。
「あははは、それほどに、亡父の土地が懐かしいのか」
伊右衛門は、おかしがったが、千代の本心は分からない。
千代は、羽柴様にもっと密着しておけと言いたいのだ。伊右衛門に岐阜だけではなく、長浜にも屋敷を持って秀吉に近付けと言いたいのだが、言葉には出さない。
「よし、他ならぬ千代の駄々だ。羽柴様にお願いして屋敷地を拝領しよう」
しばらくして、望月六平太が千代や吉右衛門新兵衛等に取り入って、伊右衛門の屋敷に食客として住み着いた。無論、伊賀者と知っているのは伊右衛門だけである。
天正三年(1575)長篠合戦で武田軍を破り、伊右衛門達が長浜城下へ戻ってきたのは夏も過ぎようかというころであった。
帰宅した伊右衛門に、千代は身ごもったことを伝えた。
伊右衛門と千代、二人にとってのお手柄だった。
翌天正四年(1576)の初夏、伊右衛門は石山本願寺攻撃に参戦中、女児誕生の知らせを受け、「よね」と命名した手紙を六平太に持たせ長浜へ走らせた。
その年は、摂津、河内、和泉、紀州と転戦し、翌天正五年(1577)四月、ようやく長浜に戻り、娘の「よね」と対面を果たした。
石山合戦の後、秀吉は、主人信長に乞うて与力衆を自分の家来にした。
親会社からの出向社員が、子会社の社員になったと云うわけである。
伊右衛門もその中の一人で、禄高は二千石に増やされた。
信長直属の旗本から、秀吉の家来に格下げになった事への見返りとも云う加増である。
つづく
名コーチの千代は、伊右衛門とは離れていても、必要な情報を収集し、さり気なく伊右衛門の行く先を方向付けている。
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