チケットを頂いていながら、なかなか行けなくって、、、ようやく
東京ステーションギャラリー「夢二繚乱」展に行って来ました
会期は7月1日まで、なかなかの込みようでしたが、見応えある4章構成になっています
第1章では、夢二の若き日々を検証します
第2章では、出版や印刷・版画などを中心にした夢二の仕事
第3章では、その中でも音楽や楽譜にまつわる仕事を取り上げ
第4章では、夢二の自伝小説『出帆』原画と、没後の龍星閣による出版活動などを紹介しています
港屋絵草紙店 大正3(1914)年
千代田区教育委員会蔵
出典=東京ステーションギャラリー
黒船屋
出典=竹久夢二展Wikipedia
『黒船屋』のモデル
夢二の代表的な絵画作品である『黒船屋』のモデルは、彦乃説、お葉説がある
ただし、構図はヴァン・ドンゲンの「黒猫を抱ける女」を参考にしたといわれる。同じモチーフによる木版画や本の装幀もある。
見応えありお腹いっぱいになりながらも
自伝小説「出帆」は挿絵原画付に目が奪われました
都新聞で昭和2年(1927年)に連載された夢二の自伝的小説
この小説には夢二と交流のあった女性たちとのことなどが綴られており、発表当時大きな話題となりました
この小説に付された134点におよぶ挿絵原画を一堂に初公開しています
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)
1884年(明治17年)9月16日~1934年(昭和9年)9月1日)は、
日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)
出典=竹久夢二展Wikipedia
「夢二をめぐる3人の女性」
たまき
1882年7月28日 ~1945年7月9日、石川県金沢市出身、本名は岸他万喜
戸籍上唯一妻となった女性である。兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。
自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、
2ヵ月後には結婚にいたった。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、
富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたる。
しかし、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。
1912年頃のたまき ↓
出典=竹久夢二展Wikipedia
彦乃
1896年3月29日 ~ 1920年1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ、本名は笠井ヒコノ。別名に山路しの
日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。
夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。
たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。
父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。
御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。
夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。「彦乃日記」をのこす
1918年頃の彦乃 ↓
出典=竹久夢二展Wikipedia
お葉
上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった
藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲
渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ
大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ
一児をもうけるが夭折。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する
後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
1919年頃のお葉 ↓
出典=竹久夢二展Wikipedia
会場のJR東京駅丸の内北口
ドーム
東京ステーションギャラリーは1988年から東京駅丸の内駅舎内で活動を続ける美術館
レンガ壁の展示室は、創建時レンガ壁には漆喰がのりやすいよう「目あらし」し、わざと削っていたようで
この駅舎内は見学するだけでも価値がありますね
(画像良くないですね)
階段の上は吹き抜けになってアールヌーボー風照明があります
丸の内北口 ドーム
2Fから見下ろすと、駅入口
2Fからは回廊になっていて、東京丸の内駅舎の歴史を紹介しています
丸の内駅舎保存・復原工事完了後、初めて訪れました
日の丸が泳ぐのをしばらく待って、、、風が吹き、、、(*^^*)
丸の内から有楽町の交通会館まで歩き、久し振りにこの界隈の風にあたりました
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