いつも長たらしく書いてるのですが、今回はとても大切だと思っていることです。 誰でも毛嫌いすることなく、身近に聖書を読んで貰いたい為に、旧統一教会の事もあったし、他のオカルト教団は、世界のベストセラーのイエスの言葉を勝手に解釈してしまって、そこに神が創造されて愛された人へのサタンの誘惑的な解釈が、まったく持って入り込む余地があるんだろうな、と考えたしだい。
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終わりにクリスチャンは非難、困難を受けると書かれている。それは、深く理解していない人の誤解が入り込むからであろう。まず、かなりサタンが喜ぶ誤解を産むイエスの言葉は、先のブログにも書いたけれど次の箇所である。
①マタイによる福音書16章23~26節 『23サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。24それから弟子達に言われた。「わたしについてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、例え全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の徳があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。・・・』(10章37ー39節、類似は他の福音書にもあり。)
冒頭の言葉23は、イエスが自分は十字架に掛けられ殺され、三日目に復活すると述べた時、ペテロがイエスをいさめ始めたことに対してのイエス自身の言葉である。ここで僕らは先のブログに自分を愛するように隣人を愛せよ、と述べたイエスご自身の言葉(マタイ22章37-40節)と矛盾するのではないかと書いた。・・・自分を捨てとは何か?
他には父、母、子、兄弟姉妹を捨ててなんて言う言葉もある(同10章37-39節)。これは自分とは何か、捨てる自分とは何かを、実体そのものを厭うのではなく、自己の霊的障害(生き物に関わる自己の真の自由を阻害するバイアスと書いたが、それを取り除くため、私(イエス)に従い身と心を浄めよ(イエス亡き後は聖霊に繋がっておれと強く述べた言葉、霊的次元のこと)と述べているように読み取れる。あくまで思考レンジのかなり高度な霊的次元の言葉であると思うのだ。
これは要注意な言葉で、深い読み方をしないとカルト教団が喜ぶ言葉である。家族を捨ててこちらに来なさいねぇ、と。
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②次に、自生活においてこれは、前述よりもっとカルトが喜ぶ言葉である。牧師先生方も簡単にそうなのかと、安易に信者に思われてもまた困るので詳しくは公に話されない? その聖書の箇所は、同じ内容にも読み取れるマルコ12章41-44節、ルカ21章1-4節である。実にここでは何を語りたいのか良く考慮しないと旧統一原理の事件が起こってしまう原因でもある。
マルコ12章41-44節。(やもめの献金)の話である。『41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。43イエスは弟子達を呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりも沢山いれた。44皆はありあまる中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。』
この箇所はよく注意しないといけない。生活が貧しくとも、やもめ(旦那に先立たれた女性)は出来る限りの献金をしたのです、ですから皆さんも・・・と、献金箱が回覧されてくる。
・・・実は、この解釈は大きな間違いです。
イエスは弟子達に何を言いたかったのか。彼女は狂っているのか? 生活設計も出来ないのか。実はこの話を弟子達に語ったのは、二重の意味があるのです。一つは金がありあまる中から入れる金持ちに対し、その制度の実際の様子に、むしろ神はひとり一人の心を見て居られ、そのことの方が大切であるということは無論であるが、同時に貧しいやもめからもムシリ取るような神殿制度のそのあり方に強烈に批判を加えているのだ。むしろ、この後半の実体を弟子達に教えたかったのだ。生活に困窮するひとりやもめに対してもひどい神殿制度になっていることを語ったのである。
だから、いずれの話もそのあとに、神殿の崩壊を予告した記事が載っているのです。形ばかりとなった神殿制度に、いずれ神殿自体が崩壊するであろうと予告する。事実、歴史はその事実を語っていますね。AC70年頃に神殿は崩壊し、完全にユダヤ人の離散が始まっていくのです。
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イエスが十字架に掛かられ、亡くなられた時、神殿の聖所の仕切りの垂れ幕が真っ二つに上から下まで裂けた、という記事がある。十字架上のイエスを見て、ローマの百人隊長が「この人は本当に神の子であった」と語る。至聖所の仕切りの幕が裂けたということは、神の秘儀が開示されたということを意味するのであろう。
今も生きていると言われるイエスは何を語ろうとされているのか。『自分』とは、神が最も愛され喜ばれているひとりひとりが、その『神殿』である、ということになりますねぇ。・・・
今は2025年のレントの季節(受難節)、イエスの復活は今年4月20日となっています。どうぞ、近くの教会へお出かけください。・・・