marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その2)宗教的人間:深井智明『超越と認識』を読む

2025-04-05 22:18:29 | 日記

 同じ『超越』でもこちらはキリスト教である。先の南直哉(ミナミジンサイ)の『超越と実存』は第17回小林秀雄賞受賞と本の帯に記載されているが、こちらは哲学の中村元賞をもらっていた。著者の深井さんとは、数度、会食したことがあり、退任されているが東洋英和女学院の学長もされていた宗教学者である。僕よりはお若い。

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先の南禅僧の本の帯には、『ブッタから道元まで、その思想的変遷を「恐山の禅僧」が読み解く、仏教史の哲学』とあり、裏面帯には「私がねらうのは、ゴータマ・ブッタに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである。・・・・「無常」という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである。』(序章「問の在りか」より) ・・・とある。

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一方深井氏のこちらは、表紙には、「20世紀神学史における神認識の問題」とあり、更に著者の名前と本の表題名のドイツ語が書かれている。表紙の裏面に書かれれている内容は、少し長いが書いてみる。

『神なしに生きかつ考えることがあらゆる人間の日常生活を規定しているだけでなくキリスト教信者の日常さえも規定していうる。」(W.パネンベルグ)超越的な次元を失い世俗的な無神論が自明となった現代において、神学は如何なる見取り図を与えられるべきか? 本著はカール・バルトが『ローマ書注解』を刊行した1919年からユルゲン・モルトマンが『体系』を完成させた1999年まで20世紀神学と捉え、”人間は神や超越の次元を認識得るのか”という命題と取り組んだ時代として描き出す。この時代状況と向き合った数々の言説を整理・分析して三類型を抽出、更にブルンアー、バルト、テリッヒ、バーガー、パネンベルグ、モルトマンの講義を参照しつつ人間学を基礎学とする神学の再構築を新たな可能性として力強く論ずる。』

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ここで人の名前は著名な神学者である。キリスト教神学は、進化、同時に深化していると見るべきか? 南禅僧の方は、『仏教史の哲学』とあり、中に記載の諸々の歴史上の著名な僧侶の持ち得た多面的な時代経過の『悟り』が書かれている。改めて面白い。

いずれ、人の言葉で突き詰める思考過程は『哲学』のジャンルとなる訳だ。神の言葉を考えるキリスト教の原点は、揺るがぬ聖書にあり(それを基に勝手創作した解釈書の方を信じたり、まるきり聖書を創作するのは論外だが)それが原点となり人は、世界はつまり被創造物はいかにあるかと時代による神学者への啓示の開陳といったらいいか。

仏教は、まず人の思考、言論自体の思考過程をもともと否定したきたので、第一に様々な語り継がれた教えはどれがどれかと迷う物があり、だからこそ、道元は、何も大陸から仏教典などは持ち込んでこず、もっとも大事な求道心『只管打坐』を持って帰ったが故に、つまり『実存』自体、思考することなど論外となって、個々人の思惑だけの有り難い教えに留まって居る訳なのだ。仏教は個々人の内面に留まる。

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著者は冒頭に述べる。

『曹洞宗で出家の時、仏教や道元禅師の言説を信じていた訳でも成仏や悟りを正しいと信じていた訳でもなく、それを目指していた訳でもない、と。今も信じていない。絶対に正しいとか、これは「真理」だと信じる気がさらさらない。何を読み、誰に会ってもこれまでも信じなかったし、これからも信じるきこともないだろう。」 と。

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言葉についてとか、現象学(無論、著者は現象学などとは書いていない)に似た思考も著している。いずれ、同じ『超越』を論ずるには、天地創造来からの創造された人についての、否、人も含めた取り巻く自然、経済、科学・・・いづれキリスト教はあらゆるジャンルに及んでいる。人の関わる全てといっていい。

南禅僧の課題。1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 僕の思いと著者の幼少時の似たような体験とこの根元にある根本課題は類似している。結論から言えば、キリスト教神学の方がダントツに優位にある。仏教者の『超越と実存』とキリスト教宗教学者の『超越と認識』。『実存』はキリスト教では哲学として多く論じられてきた。

哲学はどこまでも言葉で追求する事にあり、実存も言語化して論じているのであるから、煎じ詰めれば、人の『認識』の問題となり、キリスト教はすでにその回答を持っていた、ということになる。南禅僧もキリスト教であれば、壁がおおきくはだかっているだろうが、回答がすでに誰にでも今は開かれていたことを発見したはずだ。

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2025年 今は受難節の中を歩んでいる。今年 イースターは4月20日である。これがもっとも乗り越えるべき壁かもしれない。・・・


(その1)宗教的人間:南 直哉『超越と実存』を読む

2025-04-04 09:20:31 | 日記

 著者は1958年生まれとある。1950年代生まれは、そもそもこういう人が誕生する宇宙に浮かぶ地球時代であったと思われる。こういうことを考えるのは自分だけではないかと書いているが、実は多く存在する時代でもあった。

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『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 と扉に、『序章 問いの在りか 死と自己』 初めの数ページに彼が、この宗教(仏教)に取りつかれた原因、幼児体験、生い立ちやその過程での様々な問いが書かれている。彼が求める続ける起源はここに書かれている。

煎じ詰めた課題は二つであったと。それは、

『簡単に言うと 1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 実をいうと、私はこの二つの問題に、およそ記憶を遡り得る限りの昔から、憑りつかれて来た。』とあり、次にその要因として幼少期に病気がちだった経験を述べている。

書かれていことは、僕個人も同じ思いで生きて来たからだ。しかし、専門の寺の住職でもないし、教会の牧師でも司祭でもない。もし、そういう職?についていたら同じように何かを記録として書き遺す時間を費やしていたか・・・?

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宗教的次元の結論から言えば、言葉の宗教と言われるキリスト教の方が先んじている。彼はそもそも宗教ぬきの思考次元にまで到達せんとすれば、つまり『超越次元』の会話をしようとすれば、キリスト教、さらにそれが語っているところの『キリストとは何か』までも網羅して考えるべきであった。僕はそう思う。

その裾野は限りなく広く、すべての学問の起源ともなって来た。それは、神が自分の似姿に創造した『人』にすべての種があるからである。

道元禅師の言葉の言いようであれば、まさに言葉と文字を超えたところにその求めるべき『超越』があるのであるから、さらに世界中の宗教を網羅して、それに人という生き物の思考と行動誘導をめざすべきであった、と思うのである。

『死とはなにか、人とは何か』、そもそもこの『問』が人になかったならば、神の言葉と言われる生きたキリストを命をかけてまでも、例えそれがその時点で錯覚であった、幻想であったとしても、そしてそれが大きな誤解や反発に耐えて、世界に伝えられる大きなうねりにはならなかったであろう。

ここに超越からの我々にあらゆる行動を促す秘密があると思われるのだ。・・・つぎのブロブ(その2)へ続く


(その28)カルトが喜ぶ、一番やばいイエスさんの言葉はこれだなぁ!

2025-03-21 16:21:30 | 日記

 いつも長たらしく書いてるのですが、今回はとても大切だと思っていることです。 誰でも毛嫌いすることなく、身近に聖書を読んで貰いたい為に、旧統一教会の事もあったし、他のオカルト教団は、世界のベストセラーのイエスの言葉を勝手に解釈してしまって、そこに神が創造されて愛された人へのサタンの誘惑的な解釈が、まったく持って入り込む余地があるんだろうな、と考えたしだい。

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終わりにクリスチャンは非難、困難を受けると書かれている。それは、深く理解していない人の誤解が入り込むからであろう。まず、かなりサタンが喜ぶ誤解を産むイエスの言葉は、先のブログにも書いたけれど次の箇所である。

①マタイによる福音書16章23~26節 『23サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。24それから弟子達に言われた。「わたしについてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、例え全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の徳があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。・・・』(10章37ー39節、類似は他の福音書にもあり。)

冒頭の言葉23は、イエスが自分は十字架に掛けられ殺され、三日目に復活すると述べた時、ペテロがイエスをいさめ始めたことに対してのイエス自身の言葉である。ここで僕らは先のブログに自分を愛するように隣人を愛せよ、と述べたイエスご自身の言葉(マタイ22章37-40節)と矛盾するのではないかと書いた。・・・自分を捨てとは何か? 

他には父、母、子、兄弟姉妹を捨ててなんて言う言葉もある(同10章37-39節)。これは自分とは何か、捨てる自分とは何かを、実体そのものを厭うのではなく、自己の霊的障害(生き物に関わる自己の真の自由を阻害するバイアスと書いたが、それを取り除くため、私(イエス)に従い身と心を浄めよ(イエス亡き後は聖霊に繋がっておれと強く述べた言葉、霊的次元のこと)と述べているように読み取れる。あくまで思考レンジのかなり高度な霊的次元の言葉であると思うのだ。

これは要注意な言葉で、深い読み方をしないとカルト教団が喜ぶ言葉である。家族を捨ててこちらに来なさいねぇ、と。

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②次に、自生活においてこれは、前述よりもっとカルトが喜ぶ言葉である。牧師先生方も簡単にそうなのかと、安易に信者に思われてもまた困るので詳しくは公に話されない? その聖書の箇所は、同じ内容にも読み取れるマルコ12章41-44節、ルカ21章1-4節である。実にここでは何を語りたいのか良く考慮しないと旧統一原理の事件が起こってしまう原因でもある。

マルコ12章41-44節。(やもめの献金)の話である。『41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。43イエスは弟子達を呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりも沢山いれた。44皆はありあまる中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。』

この箇所はよく注意しないといけない。生活が貧しくとも、やもめ(旦那に先立たれた女性)は出来る限りの献金をしたのです、ですから皆さんも・・・と、献金箱が回覧されてくる。

・・・実は、この解釈は大きな間違いです。

イエスは弟子達に何を言いたかったのか。彼女は狂っているのか? 生活設計も出来ないのか。実はこの話を弟子達に語ったのは、二重の意味があるのです。一つは金がありあまる中から入れる金持ちに対し、その制度の実際の様子に、むしろ神はひとり一人の心を見て居られ、そのことの方が大切であるということは無論であるが、同時に貧しいやもめからもムシリ取るような神殿制度のそのあり方に強烈に批判を加えているのだ。むしろ、この後半の実体を弟子達に教えたかったのだ。生活に困窮するひとりやもめに対してもひどい神殿制度になっていることを語ったのである。

だから、いずれの話もそのあとに、神殿の崩壊を予告した記事が載っているのです。形ばかりとなった神殿制度に、いずれ神殿自体が崩壊するであろうと予告する。事実、歴史はその事実を語っていますね。AC70年頃に神殿は崩壊し、完全にユダヤ人の離散が始まっていくのです。

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イエスが十字架に掛かられ、亡くなられた時、神殿の聖所の仕切りの垂れ幕が真っ二つに上から下まで裂けた、という記事がある。十字架上のイエスを見て、ローマの百人隊長が「この人は本当に神の子であった」と語る。至聖所の仕切りの幕が裂けたということは、神の秘儀が開示されたということを意味するのであろう。

今も生きていると言われるイエスは何を語ろうとされているのか。『自分』とは、神が最も愛され喜ばれているひとりひとりが、その『神殿』である、ということになりますねぇ。・・・

今は2025年のレントの季節(受難節)、イエスの復活は今年4月20日となっています。どうぞ、近くの教会へお出かけください。・・・


春になったら日記を焼こう。過去は忘れるためにある。

2025-03-08 21:31:07 | 日記
 
(その10)思索の障害、宗教にまとわりつく思惑の清掃。汝、潔かれ!

 つづきです。先に進む前に沢山のことを述べておきたいのですが・・・。本当に語学もできて頭のいい知識人の方は、実に沢山いらっしゃるし、宗教なんてものはと否定される方もいっら......
 

1年前の投稿のアナウンスが来た。思いはずうーと変わらないなぁ。 

本棚を整理していると半世紀以上も前の学生時代の日記がでてきた。どうしたものか、春の天気のいい日になったら燃やしてしまおうと思った。死んだ後、他人に読まれてもどうかなと思いながらペラペラめくると、学生時代塾で教えていた女学生からの長文の手紙がでてきた。

先生、また必ず帰って来てください、と書いてある。地方から仙台へいくとなった時の別れを惜しむ気持ちなのだろうけれどまったく記憶にない。年齢相応の一時期の気持ちで思いを書いたものだろう。誰しもそういう次期があるもんだし・・・

アルバイト感覚だったそれから、地元にもどり企業に務め・・・で、つらつら読むと、なんと歳をとっても底辺では同じことを考えている。

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人生経験をも通して、上場企業でも一応働き、日本中の殆どの北は北見から南は鹿児島まで、名だたる電気メーカーに仕事で主張させてもらったし、中国上海、厦門、香港、深圳、フィリピン・パタンガス州、ベトナム・タンロンまで行かせてもらった。その間は、手帖に何かを書いていた。

 これは、大阪の下請け工場が一応大手の工場にぶら下がって中国深圳までついて行って、借屋工場の二階から昼休みに描いたものだ。面白景色だと思って。

通常どうりの仕事は、無論それなりに行うが、いつも思っていたのは、そこに住む、働く、人のこと。歴史や文化や、宗教性やそれぞれの仕事の内容まで異なる、そこに働く人のことだった。

そこへも手帖など持っていったのだが、日本企業のと、いっても大きくない下町企業が、一応名の知れた会社が中国進出にぶら下がってついて行った下請けは結構な数があったと思う。で、その工場では、溢れた余剰の仕事も中国人を雇い、使用していたけれど、何故か北朝鮮から来たという(逃げて)と、いっても金を出せばなんとか出来るようだが、日本語が話せる女性だった。

右の高台にあるのは何かと訊くと大きな仏像があるという。左の高い塔は何かと訊くとホテルだという。飲み水を上げるのは大変だろうと思った。

結構な人数のパートがいたが、部屋全体が暗い。部品検査なのだが、普段の町中の街路の電灯自体が暗いので、明るい(僕らには普通)と目が痛いという。確かに顕微鏡で確認するとNGはきちんとはじかれていた。

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大きな企業にいると政治の変動を体感する。海外にいくと世界の経済の動きが理解されてくる。その国の文化や政治、それに左右される人の考えなど。

その推測はそれほど大きく外れていないと思う。工場ごと大陸にもってきて、技術は開示しろ、いいところ(設備)は置いていけ、総経理はこちらの人間で机は用意しろ(地方により個人的に金要求)・・・などなど。

結構、投資をしてしまって米国で売れゆきがイイからと行って危ないなこの会社は、その国の考えがそうならば、いかようにもいい言葉から始まり・・・軒下借りて本家を乗っ取られてたり、とずっと思っていた。・・・が

この大手会社は、みなさんも知っている最近破産した船○電○(株)である。あの浪速の下請け会社はどうしたんだろうなぁ・・・


(その27)真理はあなたがたを自由にする!

2025-03-04 14:17:55 | 日記

『自由』という言葉はいつの時代も魅了的なのだが、実は難しい言葉でもある。

人の多様性などといって、実はそれぞれの人のDNA由来の人格も知らなければ、育ちの環境も異なれば伝統や因習も異なる中で、自由という言葉だけが何故か誰でもが共通観念をもったように魅力的で一人歩きする。

その言葉には、自分の肉体から障害として引きずっている、あるいは壁となっているもろもろのバイアスが汚物のようにまとわりついていることから解放されるという意味合いがあるだろう。

会社人はそれは、会社の組織的制度として、そうなのかもしれない。お金を稼ぐために耐えねばならない。どうせ生きているのであるならば、少しは外交体力や意欲がある人は、人生は一度きり、世界を見てみようと旅行をするだろうし、また最後の恋の掛けを行うかもしれない。

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隣のおばさん、旦那に先立たれ、ご高齢になって実のところ清々して老後を過ごしていると話してくれた。お孫さんはいないが、息子さんご夫婦が近所に居られて心配もないということだろう。

環境からまず、旦那という魂をもった人と言う生き物に、若くて愛し合ってそれも人という生き物の普段の人の生き様なのだが、綾小路きみまろではないが、あれから40年、人の一生のおおよその歩みを経てきて、殆ど障害となるものはなく、あるのは残り自分の死という誰しもが超えなければならない障害があるだけなのだろう。

優位性を常に持とうとする人において、自由とは兎に角、障害壁が取りのけられて優位性の肯定が何の障害もなく解放される状態をいうのである。

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宗教的人間

僕は、自分の生き方に於いて、苦しんでいるもう一人が自分の中にいた。それは、何故かなどということは、客観的に自己を見つめるなどということは、だいぶ歳を経てからであって、学生時代は、学部はまったく畑違いの心理学や哲学や、人間科学などという本を分からずともそれなりに読んでいた訳だ。何なんだろう、と。

それは、常に漠然とした不安があったからだ。常にまとわりついている人の”死”についての不安、その理由を探してきた訳だ。中学や高校では自己分裂が起こっていたなぁ。もし、体調自体にそのような変調がなければ、もっと自己実現できたものを・・・と今でも思う。

言葉で意識しなくとも、それだからこそ人はひととして個性をもって生きている、私は、私だと。ところが、同調圧力が強い時代、その中に居合わせれば、私はわたしであるかもしれない。けれども、私がやりたいと思っていることが何故できないのだろうか、と疑問に感じたとき、そもそも自己実現に励む人はそのようなことも思い浮かばないだろうけれど、再び、生きている人の中には僕のような人間が、実は沢山いるのだろうなと思ってしまう。

それでなければ、教訓本などは発行されないだろうし、宗教も発生はしないのだろう。哲学もそのような人の集まりの何かを問う思想などは生ずる事はなかった筈である。さらには、自分の境遇に、あるいは人生に疑問を、さらには人の歴史の政治経済、文化などに思うことは、その思考レンジがだんだん上がっていって、一体、神が居られるならば、人とは一体なにものなのでしょう、という考えも出てきてしまうという訳だ。

実は、この最後の言葉はすでにあのイスラエル人を奴隷だった国エジプトから導き、脱出を諮ったモーセの言葉や、王となったダビデの言葉でもあったのである。数千年前からものすごく高い思考レンジの領域で、神に訴えているのだ。(詩編8篇 ダビデの詩、詩編90篇 モーセの詩)

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イエスの言葉の悪魔に隙を与えるような言葉『自分を捨て、我に従え』の『我』が読み込む側に容易に座席をサタンに席を与えてしまう責任は、読み込む側の我々にあるのである。

『自分の十字架を負って私に従え』とは、『自分の十字架」を知る者(知りつつある者)であって、また、『我(イエス)』は誰かを正しく知っている者(知ろうとする者)に対する言葉なのである。

多くは長生きしても80~90数歳で次の世界に行ってしまう僕ら。共に我らの十字架を担われつつ歩まれるイエス。その十字架は我らのその欠陥(罪)を自らの十字架と共に貼り付けにされて帳消しし一緒に天上に帰還(脱出)しようと願っている方なのである、と真のキリスト者は信じているのだ。

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有名なイエスの言葉 ・・・この言葉には、我々自分の諸々の障害(十字架)をイエスが解消してくださった、という意味が込められている。

『我は、道なり、真理なり、命なり』(ヨハネ14:6)、『真理はあなたがたを自由にする』(ヨハネ8:32) 

我々は、彼において死んだものなのだ。・・・