marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その28)カルトが喜ぶ、一番やばいイエスさんの言葉はこれだなぁ!

2025-03-21 16:21:30 | 日記

 いつも長たらしく書いてるのですが、今回はとても大切だと思っていることです。 誰でも毛嫌いすることなく、身近に聖書を読んで貰いたい為に、旧統一教会の事もあったし、他のオカルト教団は、世界のベストセラーのイエスの言葉を勝手に解釈してしまって、そこに神が創造されて愛された人へのサタンの誘惑的な解釈が、まったく持って入り込む余地があるんだろうな、と考えたしだい。

**********

終わりにクリスチャンは非難、困難を受けると書かれている。それは、深く理解していない人の誤解が入り込むからであろう。まず、かなりサタンが喜ぶ誤解を産むイエスの言葉は、先のブログにも書いたけれど次の箇所である。

①マタイによる福音書16章23~26節 『23サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。24それから弟子達に言われた。「わたしについてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、例え全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の徳があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。・・・』(10章37ー39節、類似は他の福音書にもあり。)

冒頭の言葉23は、イエスが自分は十字架に掛けられ殺され、三日目に復活すると述べた時、ペテロがイエスをいさめ始めたことに対してのイエス自身の言葉である。ここで僕らは先のブログに自分を愛するように隣人を愛せよ、と述べたイエスご自身の言葉(マタイ22章37-40節)と矛盾するのではないかと書いた。・・・自分を捨てとは何か? 

他には父、母、子、兄弟姉妹を捨ててなんて言う言葉もある(同10章37-39節)。これは自分とは何か、捨てる自分とは何かを、実体そのものを厭うのではなく、自己の霊的障害(生き物に関わる自己の真の自由を阻害するバイアスと書いたが、それを取り除くため、私(イエス)に従い身と心を浄めよ(イエス亡き後は聖霊に繋がっておれと強く述べた言葉、霊的次元のこと)と述べているように読み取れる。あくまで思考レンジのかなり高度な霊的次元の言葉であると思うのだ。

これは要注意な言葉で、深い読み方をしないとカルト教団が喜ぶ言葉である。家族を捨ててこちらに来なさいねぇ、と。

**********

②次に、自生活においてこれは、前述よりもっとカルトが喜ぶ言葉である。牧師先生方も簡単にそうなのかと、安易に信者に思われてもまた困るので詳しくは公に話されない? その聖書の箇所は、同じ内容にも読み取れるマルコ12章41-44節、ルカ21章1-4節である。実にここでは何を語りたいのか良く考慮しないと旧統一原理の事件が起こってしまう原因でもある。

マルコ12章41-44節。(やもめの献金)の話である。『41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。43イエスは弟子達を呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりも沢山いれた。44皆はありあまる中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。』

この箇所はよく注意しないといけない。生活が貧しくとも、やもめ(旦那に先立たれた女性)は出来る限りの献金をしたのです、ですから皆さんも・・・と、献金箱が回覧されてくる。

・・・実は、この解釈は大きな間違いです。

イエスは弟子達に何を言いたかったのか。彼女は狂っているのか? 生活設計も出来ないのか。実はこの話を弟子達に語ったのは、二重の意味があるのです。一つは金がありあまる中から入れる金持ちに対し、その制度の実際の様子に、むしろ神はひとり一人の心を見て居られ、そのことの方が大切であるということは無論であるが、同時に貧しいやもめからもムシリ取るような神殿制度のそのあり方に強烈に批判を加えているのだ。むしろ、この後半の実体を弟子達に教えたかったのだ。生活に困窮するひとりやもめに対してもひどい神殿制度になっていることを語ったのである。

だから、いずれの話もそのあとに、神殿の崩壊を予告した記事が載っているのです。形ばかりとなった神殿制度に、いずれ神殿自体が崩壊するであろうと予告する。事実、歴史はその事実を語っていますね。AC70年頃に神殿は崩壊し、完全にユダヤ人の離散が始まっていくのです。

**********

イエスが十字架に掛かられ、亡くなられた時、神殿の聖所の仕切りの垂れ幕が真っ二つに上から下まで裂けた、という記事がある。十字架上のイエスを見て、ローマの百人隊長が「この人は本当に神の子であった」と語る。至聖所の仕切りの幕が裂けたということは、神の秘儀が開示されたということを意味するのであろう。

今も生きていると言われるイエスは何を語ろうとされているのか。『自分』とは、神が最も愛され喜ばれているひとりひとりが、その『神殿』である、ということになりますねぇ。・・・

今は2025年のレントの季節(受難節)、イエスの復活は今年4月20日となっています。どうぞ、近くの教会へお出かけください。・・・


春になったら日記を焼こう。過去は忘れるためにある。

2025-03-08 21:31:07 | 日記
 
(その10)思索の障害、宗教にまとわりつく思惑の清掃。汝、潔かれ!

 つづきです。先に進む前に沢山のことを述べておきたいのですが・・・。本当に語学もできて頭のいい知識人の方は、実に沢山いらっしゃるし、宗教なんてものはと否定される方もいっら......
 

1年前の投稿のアナウンスが来た。思いはずうーと変わらないなぁ。 

本棚を整理していると半世紀以上も前の学生時代の日記がでてきた。どうしたものか、春の天気のいい日になったら燃やしてしまおうと思った。死んだ後、他人に読まれてもどうかなと思いながらペラペラめくると、学生時代塾で教えていた女学生からの長文の手紙がでてきた。

先生、また必ず帰って来てください、と書いてある。地方から仙台へいくとなった時の別れを惜しむ気持ちなのだろうけれどまったく記憶にない。年齢相応の一時期の気持ちで思いを書いたものだろう。誰しもそういう次期があるもんだし・・・

アルバイト感覚だったそれから、地元にもどり企業に務め・・・で、つらつら読むと、なんと歳をとっても底辺では同じことを考えている。

**********

人生経験をも通して、上場企業でも一応働き、日本中の殆どの北は北見から南は鹿児島まで、名だたる電気メーカーに仕事で主張させてもらったし、中国上海、厦門、香港、深圳、フィリピン・パタンガス州、ベトナム・タンロンまで行かせてもらった。その間は、手帖に何かを書いていた。

 これは、大阪の下請け工場が一応大手の工場にぶら下がって中国深圳までついて行って、借屋工場の二階から昼休みに描いたものだ。面白景色だと思って。

通常どうりの仕事は、無論それなりに行うが、いつも思っていたのは、そこに住む、働く、人のこと。歴史や文化や、宗教性やそれぞれの仕事の内容まで異なる、そこに働く人のことだった。

そこへも手帖など持っていったのだが、日本企業のと、いっても大きくない下町企業が、一応名の知れた会社が中国進出にぶら下がってついて行った下請けは結構な数があったと思う。で、その工場では、溢れた余剰の仕事も中国人を雇い、使用していたけれど、何故か北朝鮮から来たという(逃げて)と、いっても金を出せばなんとか出来るようだが、日本語が話せる女性だった。

右の高台にあるのは何かと訊くと大きな仏像があるという。左の高い塔は何かと訊くとホテルだという。飲み水を上げるのは大変だろうと思った。

結構な人数のパートがいたが、部屋全体が暗い。部品検査なのだが、普段の町中の街路の電灯自体が暗いので、明るい(僕らには普通)と目が痛いという。確かに顕微鏡で確認するとNGはきちんとはじかれていた。

**********

大きな企業にいると政治の変動を体感する。海外にいくと世界の経済の動きが理解されてくる。その国の文化や政治、それに左右される人の考えなど。

その推測はそれほど大きく外れていないと思う。工場ごと大陸にもってきて、技術は開示しろ、いいところ(設備)は置いていけ、総経理はこちらの人間で机は用意しろ(地方により個人的に金要求)・・・などなど。

結構、投資をしてしまって米国で売れゆきがイイからと行って危ないなこの会社は、その国の考えがそうならば、いかようにもいい言葉から始まり・・・軒下借りて本家を乗っ取られてたり、とずっと思っていた。・・・が

この大手会社は、みなさんも知っている最近破産した船○電○(株)である。あの浪速の下請け会社はどうしたんだろうなぁ・・・


(その27)真理はあなたがたを自由にする!

2025-03-04 14:17:55 | 日記

『自由』という言葉はいつの時代も魅了的なのだが、実は難しい言葉でもある。

人の多様性などといって、実はそれぞれの人のDNA由来の人格も知らなければ、育ちの環境も異なれば伝統や因習も異なる中で、自由という言葉だけが何故か誰でもが共通観念をもったように魅力的で一人歩きする。

その言葉には、自分の肉体から障害として引きずっている、あるいは壁となっているもろもろのバイアスが汚物のようにまとわりついていることから解放されるという意味合いがあるだろう。

会社人はそれは、会社の組織的制度として、そうなのかもしれない。お金を稼ぐために耐えねばならない。どうせ生きているのであるならば、少しは外交体力や意欲がある人は、人生は一度きり、世界を見てみようと旅行をするだろうし、また最後の恋の掛けを行うかもしれない。

**********

隣のおばさん、旦那に先立たれ、ご高齢になって実のところ清々して老後を過ごしていると話してくれた。お孫さんはいないが、息子さんご夫婦が近所に居られて心配もないということだろう。

環境からまず、旦那という魂をもった人と言う生き物に、若くて愛し合ってそれも人という生き物の普段の人の生き様なのだが、綾小路きみまろではないが、あれから40年、人の一生のおおよその歩みを経てきて、殆ど障害となるものはなく、あるのは残り自分の死という誰しもが超えなければならない障害があるだけなのだろう。

優位性を常に持とうとする人において、自由とは兎に角、障害壁が取りのけられて優位性の肯定が何の障害もなく解放される状態をいうのである。

**********

宗教的人間

僕は、自分の生き方に於いて、苦しんでいるもう一人が自分の中にいた。それは、何故かなどということは、客観的に自己を見つめるなどということは、だいぶ歳を経てからであって、学生時代は、学部はまったく畑違いの心理学や哲学や、人間科学などという本を分からずともそれなりに読んでいた訳だ。何なんだろう、と。

それは、常に漠然とした不安があったからだ。常にまとわりついている人の”死”についての不安、その理由を探してきた訳だ。中学や高校では自己分裂が起こっていたなぁ。もし、体調自体にそのような変調がなければ、もっと自己実現できたものを・・・と今でも思う。

言葉で意識しなくとも、それだからこそ人はひととして個性をもって生きている、私は、私だと。ところが、同調圧力が強い時代、その中に居合わせれば、私はわたしであるかもしれない。けれども、私がやりたいと思っていることが何故できないのだろうか、と疑問に感じたとき、そもそも自己実現に励む人はそのようなことも思い浮かばないだろうけれど、再び、生きている人の中には僕のような人間が、実は沢山いるのだろうなと思ってしまう。

それでなければ、教訓本などは発行されないだろうし、宗教も発生はしないのだろう。哲学もそのような人の集まりの何かを問う思想などは生ずる事はなかった筈である。さらには、自分の境遇に、あるいは人生に疑問を、さらには人の歴史の政治経済、文化などに思うことは、その思考レンジがだんだん上がっていって、一体、神が居られるならば、人とは一体なにものなのでしょう、という考えも出てきてしまうという訳だ。

実は、この最後の言葉はすでにあのイスラエル人を奴隷だった国エジプトから導き、脱出を諮ったモーセの言葉や、王となったダビデの言葉でもあったのである。数千年前からものすごく高い思考レンジの領域で、神に訴えているのだ。(詩編8篇 ダビデの詩、詩編90篇 モーセの詩)

**********

イエスの言葉の悪魔に隙を与えるような言葉『自分を捨て、我に従え』の『我』が読み込む側に容易に座席をサタンに席を与えてしまう責任は、読み込む側の我々にあるのである。

『自分の十字架を負って私に従え』とは、『自分の十字架」を知る者(知りつつある者)であって、また、『我(イエス)』は誰かを正しく知っている者(知ろうとする者)に対する言葉なのである。

多くは長生きしても80~90数歳で次の世界に行ってしまう僕ら。共に我らの十字架を担われつつ歩まれるイエス。その十字架は我らのその欠陥(罪)を自らの十字架と共に貼り付けにされて帳消しし一緒に天上に帰還(脱出)しようと願っている方なのである、と真のキリスト者は信じているのだ。

**********

有名なイエスの言葉 ・・・この言葉には、我々自分の諸々の障害(十字架)をイエスが解消してくださった、という意味が込められている。

『我は、道なり、真理なり、命なり』(ヨハネ14:6)、『真理はあなたがたを自由にする』(ヨハネ8:32) 

我々は、彼において死んだものなのだ。・・・


(その26)狭き門には意味があった?!とても無理、理解不能の彼の言葉の意味は・・・

2025-03-01 22:17:23 | 日記

 初めての方が、魂が引き剥がされるように不快に思わされてしまう彼の言葉をあげておく。この言葉に触れて、もう読めないと思われる方が起こらないために。

何の介在物も入れず聖書を読むこと、を心がけると述べてきた。無論、理解しやすい読む順番はあると思うが。解説書でも、信仰問答でも、学者さんや牧師や司祭さんの著作でも、そう・・・、優先すべき順番は、自分の思いの中に読んで何のことと疑問が出てきてそれから彼に問うという順番。

彼に聞け、聖霊は教えてくれるであろう、と書かれているではないか。

よって、もう沢山ありすぎるほど本はあるが、疑問の参考程度に、次にそれを読むことを心がけるという順番。何であれ介在物(指導書など)が優先されている宗教には気をつけなければいけない。

『聖書の疑問は聖書に問う、聖書にその答えを探す。』と、このことは間違いではないが、先に述べた団体のように、勝手に解釈の翻訳自体が間違っていれば、これは完全にカルト。

イエスの深い意味の言葉も、決して自分を見失う言葉ではない。この不快な疑問の言葉も。むしろその逆で、ピュアな本来の自己に出会い、発見し、潔めつつ人生を歩むことに他ならないことが理解されるであろう。後のパウロは自己省察でこのことの意味合いを、イエスと自分の係わりとして手紙に書いたものだと思われる。

**********

イエスの聖書のもっとも大切な教えとして『神を第一に愛し、第ニは。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。』と述べた、その後半の『愛する自分』(真の自分)となることである。

真の自分とは、地上での他者との肉体なつながり(親や子、伴侶者)あるいは、身体肉体成長に関わる古来からの風習(いわれ)や伝統に、我らの霊魂は何らかの影響を受けて生きているものであるから、次の世界に純粋で潔められた自分で帰還するために、全ての自己の不純物を捨てて(自分に死んで)私(イエス)に従いなさい、つまり肉体にまとわりつく霊的障害をもたらす肉を十字架で完全に消滅させる私(イエス)従いなさい、と述べた言葉なのである。これが僕の解釈である。

**********

それで、イエスが述べた不可解な言葉とは、もろもろイエスが語る、全部捨てて私に従いなさい、というその言葉。

その恐れの原因は、今までの自分らの生涯にまとわりつく、自己を阻害している気がつかぬ雑音~来るものなのであって、実はまったく本来のピュアーなる本当の自分になる言葉のなのであって、誰でもが今生に於いて自分の生において彼、イエスと対話する今生における常なる緊張をもたらす会話の始まりの前振りとなっているのである。。

阻害するあなたの罪を私は担うから、来なさい、と。

新約のパウロの手紙には、我々は彼にあって、自分の肉において死んだのである、と時折見られる彼の言葉はこのことを言っているのである。

天地創造来、隠され彼を信じた者には開示されるその秘儀とは、この霊的に全うした実態として次の永遠の世界への招かれるのである。・・・


(その25)狭き門、結局は人間の『質』なのか!?

2025-02-26 15:17:57 | 日記

 今の僕らに大切なことは、第一に『知りたいという願い』だった。そして『その意味を考えること』だった。

この自らの内面の『語り』は祈りに通ずるものだった。それを、異邦人ではない彼らの歴史に学ぶこと。この思いは、今のこの世界にも続いているものである。神が彼らを導くストーリーはまさに現在も明らかになりつつある。

**********

イエスの来られた意味は、まさに『自分の根』はどこにあるか、を自問自答させるものだった。これには深い意味がありそうだ。そして、すべてのしがらみから離れよと語り続ける。古来からの謂れも、父、母、すべの親族からのしがらみをも離れて我に従えと言われる。

これは事実、親族を捨てるなど、その通りにすればいいということではない。そのあとの文が主眼だ。わたしに従いなさい、と。今、彼は見えないではないか。司祭や牧師になれということか。そう思い、慕う人は幸いである。

・・・従うにも彼の時代で2000年以上も前に姿を消されている。見えなくなるが、『聖霊』を送るという。それに聴け!と。『その意味を考えること』の回答が得られるだろうと。

**********

あなたの思い通りにならない人生があるとすれば、肉体と思考とのずれがあるとすれば、それは何か。そのことを考えよ。誰も親を選べないように、皆が大谷翔平のようにはなれないのであるから。

DNA的不完全、思い通りではない自分の身体、気づく、気づかぬにに関わらずそれぞれの人生の宿題を背負って生きている。人生一度きりで、ひと瞬きの人生に比べ、そこに苦難があり解決策を見出さんとすれば、私に来なさいと彼は言う。

その苦難は私に会うための苦難だった。人はすべて体験しなければ自分のこととして真摯に考えないものであるから。イスラエルの歴史はそうだったのではないか。

**********

イエスの冷たいともとれる言葉の意味を我々は深く考えて診なければいけない。人権や人格や、民主主義などの考えもそうだ。イエスの冷たい言葉を吐いた物語こそ、いつも我らが考えなければならない話なのである。人の神の思いの獲得という錯覚は、必ず生ぬるく怠慢にする。

世界は広がり、地球の出来事が周知されてきた世界になったのだから。真にあなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。しかし、峻別があることを知れ!

***********

『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにとってふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである』(マタイ10:37-39)・・・