同じ『超越』でもこちらはキリスト教である。先の南直哉(ミナミジンサイ)の『超越と実存』は第17回小林秀雄賞受賞と本の帯に記載されているが、こちらは哲学の中村元賞をもらっていた。著者の深井さんとは、数度、会食したことがあり、退任されているが東洋英和女学院の学長もされていた宗教学者である。僕よりはお若い。
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先の南禅僧の本の帯には、『ブッタから道元まで、その思想的変遷を「恐山の禅僧」が読み解く、仏教史の哲学』とあり、裏面帯には「私がねらうのは、ゴータマ・ブッタに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである。・・・・「無常」という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである。』(序章「問の在りか」より) ・・・とある。
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一方深井氏のこちらは、表紙には、「20世紀神学史における神認識の問題」とあり、更に著者の名前と本の表題名のドイツ語が書かれている。表紙の裏面に書かれれている内容は、少し長いが書いてみる。
『神なしに生きかつ考えることがあらゆる人間の日常生活を規定しているだけでなくキリスト教信者の日常さえも規定していうる。」(W.パネンベルグ)超越的な次元を失い世俗的な無神論が自明となった現代において、神学は如何なる見取り図を与えられるべきか? 本著はカール・バルトが『ローマ書注解』を刊行した1919年からユルゲン・モルトマンが『体系』を完成させた1999年まで20世紀神学と捉え、”人間は神や超越の次元を認識得るのか”という命題と取り組んだ時代として描き出す。この時代状況と向き合った数々の言説を整理・分析して三類型を抽出、更にブルンアー、バルト、テリッヒ、バーガー、パネンベルグ、モルトマンの講義を参照しつつ人間学を基礎学とする神学の再構築を新たな可能性として力強く論ずる。』
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ここで人の名前は著名な神学者である。キリスト教神学は、進化、同時に深化していると見るべきか? 南禅僧の方は、『仏教史の哲学』とあり、中に記載の諸々の歴史上の著名な僧侶の持ち得た多面的な時代経過の『悟り』が書かれている。改めて面白い。
いずれ、人の言葉で突き詰める思考過程は『哲学』のジャンルとなる訳だ。神の言葉を考えるキリスト教の原点は、揺るがぬ聖書にあり(それを基に勝手創作した解釈書の方を信じたり、まるきり聖書を創作するのは論外だが)それが原点となり人は、世界はつまり被創造物はいかにあるかと時代による神学者への啓示の開陳といったらいいか。
仏教は、まず人の思考、言論自体の思考過程をもともと否定したきたので、第一に様々な語り継がれた教えはどれがどれかと迷う物があり、だからこそ、道元は、何も大陸から仏教典などは持ち込んでこず、もっとも大事な求道心『只管打坐』を持って帰ったが故に、つまり『実存』自体、思考することなど論外となって、個々人の思惑だけの有り難い教えに留まって居る訳なのだ。仏教は個々人の内面に留まる。
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著者は冒頭に述べる。
『曹洞宗で出家の時、仏教や道元禅師の言説を信じていた訳でも成仏や悟りを正しいと信じていた訳でもなく、それを目指していた訳でもない、と。今も信じていない。絶対に正しいとか、これは「真理」だと信じる気がさらさらない。何を読み、誰に会ってもこれまでも信じなかったし、これからも信じるきこともないだろう。」 と。
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言葉についてとか、現象学(無論、著者は現象学などとは書いていない)に似た思考も著している。いずれ、同じ『超越』を論ずるには、天地創造来からの創造された人についての、否、人も含めた取り巻く自然、経済、科学・・・いづれキリスト教はあらゆるジャンルに及んでいる。人の関わる全てといっていい。
南禅僧の課題。1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 僕の思いと著者の幼少時の似たような体験とこの根元にある根本課題は類似している。結論から言えば、キリスト教神学の方がダントツに優位にある。仏教者の『超越と実存』とキリスト教宗教学者の『超越と認識』。『実存』はキリスト教では哲学として多く論じられてきた。
哲学はどこまでも言葉で追求する事にあり、実存も言語化して論じているのであるから、煎じ詰めれば、人の『認識』の問題となり、キリスト教はすでにその回答を持っていた、ということになる。南禅僧もキリスト教であれば、壁がおおきくはだかっているだろうが、回答がすでに誰にでも今は開かれていたことを発見したはずだ。
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2025年 今は受難節の中を歩んでいる。今年 イースターは4月20日である。これがもっとも乗り越えるべき壁かもしれない。・・・