marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その10)思索の障害、宗教にまとわりつく思惑の清掃。汝、潔かれ!

2024-03-08 14:09:19 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 つづきです。先に進む前に沢山のことを述べておきたいのですが・・・。

本当に語学もできて頭のいい知識人の方は、実に沢山いらっしゃるし、宗教なんてものはと否定される方もいっらしゃる。そこはまったく否定しません。そちらに入り込んでしまったら、多くの救済を願う方の思いも実際あるのにその否定にもなりましょうから完全否定も問題でしょうが、そこをどうのこうのと闘わせるのは、人の思考の階層においてまったく別次元のことだと思われます。

先のブログに人の思いつく次元について述べました。しかし、我々が示されている神の次元は人の思考次元のまったく外にある次元で定義も何もできません。よって、人社会においての言葉での認識世界において、次元の異なる話をし始めてもまったくかみ合わないのはその通りで正しく、そのためにはまずは軽い思想の宗教は否定しなくては、始まらないのですねぇ。次元が異なる。ここは分かるねぇ。神の次元を人の言葉で肯定し、議論をかわせても答えはでない。

我々の人間界の次元に入られたのが、キリスト・イエスということになるのでしょうが。

立花隆のご両親は、内村鑑三の無教会主義ではなかったかなぁ、昔、そんな話を聞いたことがる。それなら分からないこともない。直接、神の言葉を聴こうとするものらであって、周囲の人の雑事を排除しようと教会は成り立ってきたきたからねぇ。そこには、宗教の定義みたいなことはない。つまり、神そのものの事象の存在と『我』しかなくなるから『我の存在は、即、生かしめている者の存在』となる、という考えで、そのこともあえて意識しない。

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p29「最近は永遠の真理があるなんていうことをいう人は、だいたい宗教思想か疑似宗教思想によって立つ人で、そういう人たちはたいてい最後はこういう言い方で信じない者をおどしにかかるわけです。・・・それに対しては、「永遠の生命なんてもらっても迷惑ですから、ほしくありません」とはっきり言えばそれですむことです。逆に永遠の生命が欲しいなんて思い込むと、簡単に宗教のワナにハマってしまいます。たいていの宗教が永遠の生命を約束していますから、・・・宗教にハマっていると、そのおかしさに気が付かないんですね。・・・永遠の生命なんてありません。生命というのは死と裏表なんです。死を受け入れることにおいて生命は成り立っているんです。・・・「永遠の生命なんてない」、「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に於けば、それから多くのことが導けます。・・・まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず。軽い気持ちで接触することがたいせつだということがわかります。・・・」

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「永遠の命なんてありません」「絶対の真理なんてものはない」・・・こう述べているのは彼の決定論としての見解ではなく、「そういう条件でもって、考えていかないと、あらゆる思想をつかみきれない」という前提条件としての見解でしょう。なぜなら、否定をすることは、そのことを知っていなけば完全否定はできないからです。まず、そいう条件で・・・という前提をもって学ぶということ。

そのように彼のこの文書を解釈しなくては、先のブログにあげた諸々の哲学者も、彼が文中に渡ってのべているすべての国外の学者さんや作家や宗教家はキリスト教がベースになっているから、論理矛盾におちいりますねぇ。彼が持ち上げて文中にしたためている国外の知識人はすべてキリスト教が根底にあるのですよ。ですから、神のことを人間界の言葉で議論するのではなく、まさにその歴史において歩んだ者らのその業(わざ)や言論についての制限ある次元においのみ、と学ぶ者は了解する必要があるということですね。

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僕が改めて嬉しくなったのは、僕が2016年11月25日にブログで取り上げた彼のことが書かれたいたからだ。彼はカトリックの司祭である。僕の部屋には彼の写真が掲げられている。

 p16「ティヤール・ド・シャルダンは『現象としての人間』だけで済ませていたのを、著作集全11巻を買ってきて、全部読んだ。すると『現象としての人間』だけでは全然理解できなかったティヤール・ド・シャルダンの全体像が見えてきて、この人はとんでもなく大きな人だとあらためてわかってきた。・・・」

(※ティヤール・ド・シャルダン Pierre Teilhard Chardin(1881-1955) フランスの古生物学者、哲学者、イエズス会司祭。1929年北京原人の発見で世界的な注目を浴びた周口店の発掘に従事。敬虔なカトリック教徒でありながら独自の進化論を主張した。)

ちょうど、彼の本に出合った時、再度の大学で(というのは工学部あいまに教育学部に顔を出してたんで)の生物学で、例の進化論の系統樹を学んだんだが、これと似たようなのが、『現象としての人間』に載っていた。我ら人類は地上に神が人を創造して、進化の過程を経て神の介入により、完全なる人、まことの人なるイエス・キリストの身姿という頂点(αからΩ)のΩに向かって進化発展していくのであると、そう僕は当時とらえ、偉く感動したものだった。・・・



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