marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(666回) キルケゴール「死に至る病」:永遠の命への希望

2020-05-02 10:59:14 | 日記

新型コロナウイルス、世界中に蔓延し、いかなる国の人でも人の命が消滅すれば、どうなるかという危機がネット社会で世界中に広がって我が身に影響を及ぼしてきた昨今に・・・

◆666回にもなりました。この数字は、あまり欧米ではよく思われていませんが、その理由は聖書の最後、ヨハネの黙示録にあります(13章18節)。youtubeでは久保有政さんのゲマトリアが現在流れてます。車のナンバーに3回くらい僕は666を見ました。勤務先下の者にも居ましたので尋ねたことがあります。弥勒(ミロク)だからということだったですね。

◆世界中でこのような状況の時、へたをすれば全人類が死滅するかも知れない事態に、今一度、掲題の世界のベストセラーのことを真剣に考えてもいいかもしれません。キリスト教は言葉の宗教と言われるくらいですから、少し面倒かもしれませんが、人とその集まり、その日常のコミュニケーション、政治、宗教、その歴史などもろもろ、そして日常の自分に関わることに関しては非常にデリケートな解析がなお必要ですが、宗教性に広げなくても、しかし、結局、すべて自分の命に結びついているのですから、その信者、無信者にかかわらずご自分の身体に関することとして、僕はそれを実存的なことと言いますが、考える大切な時が訪れたと思っています。自己納得、自己了解・・・さまざまな気づきにおける自己存在の肯定化を誰でもが求めているのは間違いなのですから。それを求められないとき人に当たり散らしたり、気づかず言葉でひとを傷つけてりしているものですが、自分の身体から考えてみることが今、求められていると思われます。

◆聖書には地球の人類の歴史は直線的で終わりが来ることが示されています。この地上からの永遠の世界への脱出が創世記の物語にすでに示されているのです。しかし、そこへのすぐへの逃避ではなく、人類の歴史をとおして、聖書的に言えば、気づいている人は、この身のこのままで永遠に生きるために(永遠の現在と言われる)、この地上で試練が与えられ訓練が行われていると考える人も居るわけです。使徒パウロのごとく、それをキリストがわたしたちを救う試練と同期することと見なして(わずかでもその苦しみに預からせていただいているのだ、と)自分の身に起こるさまざまな試練をも喜んでいると手紙に書くのです。「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずる。希望は絶望に終わることはない。」と。

◆あの実存主義哲学の走りをなしたと言われるキルケゴールの「死に至る病」。それは「絶望」であると言うのです。イエスの「ラザロは死んだのだ」という言葉から始めます。しかし、イエスによみがえらされ、その後の人生を歩んだラザロも地上生涯は終えたのです。だが、その死は「永遠の命の希望」をもって死んだのである、とうのが僕の読み取った解釈です。(ヨハネ伝の第11章は9章の次に僕の好きな箇所です。)全国的に外出禁止例の出ているこの時に、聖書が語る「生きる者、死ぬ者、そして永遠の命とその歴史、そして、躓きとなる十字架の意味」を、中間媒体の解説などを全く抜きにして、今、語り掛けるイエスの言葉に心を傾けるられますよう心から祈る者です。・・・ Ω