marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

哀悼!(その1)ノーベル賞作家 大江健三郎

2023-04-12 19:25:26 | 手紙

 哀悼!大江健三郎。僕の机上に今もある彼の一冊の本を掲載した。

半世紀以上も前の話。三重に出張に行った列車の中で、津を通り過ぎようとするころであったろうか、彼の『ピンチランナー調書』を若い女性が座席の前に座り、その本を読み始めた。ロボットのような親子の版画の絵が描かれたハードカバーの本だったのだが、途中までは読んでいたようなので「面白いですか?」と思わず尋ねたことを覚えている。

どうして大江なのかと思っていると、その若い女性は、自分は子どもを扱う幼稚園や保育、障害児を扱う保育士になろうと思っている。彼には障害児のお子さんが居られるでしょう。少し、こういう作家はどのように体験され思われるのか知りたいと思っているので、と続けて語った。

「あぁ、光くんですね。」と僕は返答し、「面白いです」と彼女は言ったけれど・・・。邪魔をしてはいけないと思い、それで会話は終わったのだが。若者が学生運動で盛り上がったあの時代、『性的人間』や露骨に女性器の言葉も出てくるものもありますようねぇ、どう思われますか? などとこのようなうら若き純粋な女性にたいしては間違っても語ってはいけない。

大江文学は、少し、当初、著名な評論家から批判されたように、それまでの文学というか、それは文章による情景や心理描写の表し方が、うまいとか、余韻が考えさせるとか、であったのに対しそうではなく、文章が冒頭から内面のイメージが言葉として唐突に書き著されている文章が多いので、思考訓練でもさせられるような前頭葉にきしみが起こる。

こういう表現は文学のしきたりとしてはどうなのか。エッセイのようでもあり、一種の哲学ジャンルにも踏み込むようでもあるし、いろいろな思想の部分的な解説書でもあるような、時代に対する思いを吐露するいろいろな断片の思いのつなぎ合わせでもあるようだし、短編ではそういうものが多い。

つまり、誰でも思いを言葉にまとめようとすれば、思索において自己肯定ができるのだ・・・物語を想像していける、とそういう勧めであるように僕は思ってしまうのだ。私小説というジャンルに関わるのか、彼が同時に同期に体験していることをその中に盛り込んでいるものだから、読みにくいと思われる人も多いのではないだろうか。

ナラティブ(語り)とかメタファー(隠喩)とかの言葉とか、幼小時代に母親から与えられたハックルベリーフィンの冒険の本とか、W・H・オーディンの詩(彼の短編『見る前に飛べ』はこの詩集にある)、ウイリアム・ブレイクとか・・・時代を読み解く世界の様々な哲学書や思想の書物を読み込んでいけば、それに彼は公然と、他からの引用を認めている訳だから、逆に彼の書いたこの作品は、世界の誰の思索からインスピレーション(彼にとってはメタファーのきっかけという意味になろうけれど)を受けたものではなかろうか、というようなことも推論できていく。

そして、誰でも人生には限りがあるのだから、世界のそれらのそして時代を動かしている底辺の思想ごとき何かを追及していけば、作家は仕事柄表立って口にしないまでも誰もが宗教的人間なのだから、一つの書物に収斂していくことを語っている。

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3月12日レント(キリストの受難の時期)の礼拝の牧師の話に、たまたま大江健三郎の話がでてきた。その後、少し会衆に報告することがあったので、大江が加藤周一(故)と共に立ち上げた『九条の会』の話をさせていただいた。

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大江が早逝した兄からもらった英語の辞書の話を、彼のエッセイで読んだこともあるが、教会の礼拝では二度異なる牧師から伺ったことがある。早熟だった健三郎が兄から、好きな言葉をその英語の辞書から探して教えてくれと言われた時、彼は『CHAMPION』ということばを語ったのだそうである。

何故、その話を牧師は語ったのか。それは、その『CHAMPION』という単語の意味には『競技の優勝者』の他に『特定の集団、思想などの為に代弁し、戦う人➡(主義・主張の)擁護者、闘士』の意味があり、つまりそれは、イエス・キリストのことでもある、と語りたいが故でもあった。

『イエス・キリストは我らの不義のために、わが身を負って十字架に掛けられ身代わりとなった。彼を信ずる者は死んでも永遠に生きる』

彼は今も生きて語っているというのである。ご自身(イエス)を信じた者が永遠の命に入らんがために、父なる神にその擁護者となっているというのである。

今年2023年のイースター(復活)の主日は4月9日である。・・・


哀悼!(その7)大江健三郎: ふるさとの山はありがたきかな(啄木)

2023-04-12 11:31:19 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

 誰でもが幼少の頃にその人生の原点が創成される。森山のここ麓一帯は、八郎潟湖につながる沼地の海だった。

無論、本人の無自覚のご先祖から来るDNAを土台にするのであるが、10歳ころまでの成長期の環境のありようからも大いに影響を受けているものである。大江が四国の田舎の谷間で育った頃からのインスピレーションを受けて、それを土台に小説が描かれていることに関心があった。あぁ、僕の田舎にもこんなことがあったのかなぁと思い出すのである。そして誰もはそんな故郷を持っているのではないだろうか。

あの谷間で蜂起した爺さんの話や、現在の彼の居場所、それは海外の大学の官舎からだったりと、彼が専攻した新実存主義なるサルトルの手法が、それは実存、つまり誰もが身体(肉体)からの省察により志向をもたらす意識の言語化というものを、つまりはこれは僕なりの解釈なのだが、それは言葉を持つ人であれば冷静に自分の意識を形成する内省言語の開拓を行えば、普段の生活であたりまえのように行っていることではある。(専門の宗教者はこれを早朝からの祈りというかもしれないが)

僕の生まれたふるさとも、ネットで多く出てくから穿り出せば、その歴史はとても面白いものなのだろう。まず、生まれた田舎についてなのだがネットでは『「浦城」の歴史を守る会(NPO法人)』がググると出てくる、それから『副川神社(そえがわじんじゃ)』の入り口にもあたる『常福院』という真言宗の由緒あるお寺もあり、この神社は歴史的のも由緒あるところでこれも出てくる。

『浦城~』は歴史的には面白いところである。そのNPOの責任者は、長年高校の校長などを務めた方でとても温厚な方で、周囲から先生と呼ばれていた方であった。お話した時「あんたはこの村で生まれたんか、お前さんはこの村の宝じゃのう。」と言われたがつづいてこんな話をしてくれた。

この浦城の地域では、昔、殿と呼ばれた方が反乱をおこしたことがあってな、この下の石垣が残っているじゃろ、あそに住んでおった。浦城は古代豪族三浦氏が居て戦禍で敗れ、当主は裏山の『叢雲の滝』(この滝の中の岩には梵字が刻まれて修行の場でもあった)の傍で切腹して果てた。その生き残りだったのだろうかなぁ。詳しくその話を聞く時ではなかったのでそれでその語りは終わったのだったが、学校で習うような古来の歴史の中の続きとして細かなドラマがどんな田舎でも起こっていたのだろうな、というようなことを強く思ったのである。

それを聞いていた時、お袋が語ってくれた昔の話を思い出した。爺さん(僕を可愛がってくれた)の親戚に浦城に住んでいる人がいてなぁ、あまりに勉強しすぎて気がふれた人がいたんだと。小さいころの話で、少し怖い思いもしたのだが、身内でそんな人などいれば普段は隠すものなのに、その気がふれたというのは、どうも村一帯に反乱めいたことを起こしたらしいのであった。

この地域は古来から大陸からの移住者も多くいたのだろう。この地は、古代神道に熱心だったようで、その気のふれた親戚の爺さんは、廃仏毀釈の令が出た時に、一斉にお上の威光を示すお寺に対して反旗を翻して村人と一緒に廃物希釈の運動を蜂起したようなのである。僕の爺さんも数を数える時、1,2,3~ではなく、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・だった。その、ひぃ、ふぅ、みぃ・・・というのは、神道の祝詞の呪文であるそうな・・・。

 その名残だったのか、新しく建てられたが、昔のお寺の門の傍らに立つ六地蔵の頭がすべてもぎ取られているし、お墓の脇の上部落と下部落のちょうど真ん中あたりの田圃道を上っていなかのお墓につくのであるが、下部落の六地蔵は頭がすべてもぎ取られていた。その石垣には今はひっそりとした苔むしたと言わんばかりの小さな民家が残っている。そして、その家の脇道は山手のお寺に続く道にもなっている場所で登った先の一帯がお墓なのだが、お寺に向かうお墓がすべてお寺に背を向けて建っているのである。

名前を見ると「金○○」が多い。あぁ、隣国から海を越えてきたこの地域の人々のご先祖様なのだろう。「金○○」という名字の方は改姓をしたためか、今はこの部落にはいないようだ。山に行く道沿いには『庚申』の板碑が(これは市内にもあるが)多く見られる。これもこの東北の地に古来、大陸から多くの人々が来ていたのだろうなぁ。

 さて、今、僕のいるところは、裏山に古代東北の最先端の守りだった秋田城があって、ふるさと創成の基金もあったせいかだいぶ整備がなされ古代の城の門も建てられた。ここで大河ドラマでもやらんかな。裏山の高台に昇れば南の鳥海山や北には男鹿半島が見え海が見渡せる。その場は今は、春のラッパ水仙での絨毯になり始めた。・・・さぁ、田舎の山へ出かけるとしよう!