marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

哀悼!(その6)大江健三郎の内心:良き日、復活祭!

2023-04-07 11:22:08 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  とかく宗教というのは、個人のこと、さらに観念的なこととして自分とは無関係なことと思っている、というか自覚しない。特にキリスト教というのは、個人の言葉を要求するからなおさら、この国では疎まれる。言葉のない情緒的な総まとまりの中に押し込まれていて、それを言語化することは、いらぬものを穿り出すような思いをさせられるのである。

しかし、なぜ彼(イエス)が生き返ったこととおまけにそれが、哲学、政治や経済までの深層を探れば、そこには彼が死んで復活したということについての格闘が、信ずる信じないに関係なく、意識するしないにも関係なく、その事実の基にすべてのものごとについての人が吐き出す物事への、その業への深層究明の言語化への格闘が歴史の中にあったことが理解されて来る。

それはそちらの人とか、こちらの人とか、まして異邦人とかなどでは決してなく、世界人類のドラマを作っている人、それは神の似姿に模して創造されたという肉体に注ぎ込まれた霊をもつ、事実としての瞬間、瞬間を生きるあなた、わたしを問うているのである。

彼は死んだ。しかし、彼は復活したのであるという。肉体は消滅したが今なお生きているというのである。そのことの故に、生あるすべての我々に、歴史を通して自らを問うことを強いて来たのである。聖霊として生きてる彼と、死亡率100%のこの時を生きている己という生き物のありようを。

ぼくらは、あれはどうの、これはこうのと思考の対象としての事柄を思い浮かべながら考え、話す。しかし、彼は、その人によって変わる意見や考えについての議論ではなく、議論をしているあなた、わたし、そのもの(発信源たる今を生きるその人)をいつも問うているのである。だから、自分自身から逃避できることはできないように(不思議なことに誰もの多くはこのことも思わない)それが終わるのはひとり一人が地上を去るときであろうが、生ある内に彼に出会えと今なを語り続けているのである。

彼は、いつもそのことを問うている。『わたしを誰と言うか?』、それは同時に『わたしとは誰か?』という問いにも聞こえて来ていた。

生命を与え、人生を無意識のうちにも歩み、死後にも霊としてある。生死も含めすべての創造物の支配者として彼はあると。・・・