平野啓一郎の「三島由紀夫論」が小林秀雄賞をもらったとのメールが飛び込んできた。三島が自決したのは僕が高校一年の時だった。午後から国語の授業があったのだが、先生が現れない。10分ほど遅れて足早に講壇に立った比較的お年を召した東京帝国大学を出ておられたその先生は、静かな面持ちで遅れて来た理由を述べられた。
「市ヶ谷自衛隊で三島由紀夫が自決されました。昼休みテレビを見てたニュースを見ていて遅くなりました。」この先生は、国語の授業は、教科書の話を書いた人、その時代などを話された後、ただひたすら声を出して淡々と教科書を読むばかりであった。時折、質問をするがひたすら教科書を読むばかりの人だった。僕らは、字ずらを同じように追いかけるだけだった。
生まれてきたとが当たり前、生きていることが当たり前、すべてが当たり前。そう思って来た自分を相対的に見つめるもう一人の自分という他者がいるのではないかと思い始めたのは、その先生が淡々と読まれるその教科書の文字の行間に目で見ている現実と違う世界があると教えられたからであった。こういう意味で、僕は遅れてきた少年であったのだが。
三島由紀夫の本は読んだことがない。キラキラした言葉の表現に才能はある人なのだろうなとは感じられたが、波長があわないと感じていた。こういう事件があると、やはりなぁ、と正直思わされた。
彼に心頭していた奴がクラスにいて、筋トレをして体を鍛えていた理由を後で知ったのであったが、三島の自決の後、夢に彼が何度か現れて、日本の為に決起せよ、としきりに演説するんだよ、と真面目に昼休みに話していたのを思いだす。お墓から三島の骨(遺灰)も持ち出した輩もいてニュースになったくらいだから、三島のこの国を自分なりに思う熱情が亡くなった後も全国の若者の霊にしきりに語り掛けていたのだろうな。
僕は、作品より、なぜ、作家がそのような考えをするようになったのか、作品を現わすようになったのかということを考える方が性に会っている。人とは何か? さらにそういう人を創造した神とは何なのか? そして死亡率100%の人の生涯とは何なのか?
・・・雨が降り止んだ。