悠久の時を経て

「美しく大きく丈夫なオオクワガタ」このテーマを担う血統作出目指した飼育記録をメインに、気儘な話題を書いていきます。

6年周期・高校駅伝の思い出

2017年12月07日 05時00分02秒 | オオクワガタ以外の話題








明日12月8日はブログ7周年。
合わせてプレ企画の発表です。
特に1〜4はなかなかの高倍率。
KLB参戦者が同時に決定する今年のプレ企画。果たして当選は誰方に?気になります。


さて今回はブログ記事内容を変更しあえて
オオクワブリード以外の趣味の話題を取り上げます。興味なき方はスルーで。
あえてね。
明日の訪問者数がこれでますます読めなくなる・・・





5/27の新国立競技場







10/25







12/5

 

 

 

 


ALWAYS 三丁目の夕日的に。🌇
2020年東京オリンピック開催に向け、
着々と建設が進んでいます。
2020年の夏、ここで様々な『バトル』
が繰り広げられることでしょう。

トップシーズンでもありますし。
話題のドラマ『陸王』も人気のようで。
今回は趣味といいますか、ライフワーク的
なマラソン(駅伝)の話題を。

 

 


私は趣味としてマラソン、ゴルフを今も続
けています。
ゴルフは完全に楽しさ優先。
スポーツというより気分転換ですね。

しかしマラソン。
こちらは毎週末のランニングが日課。
大会前は回数を増やし練習を重ね挑みますが直近では1/7の松戸七草マラソンへ出場する予定です。今だにレース直前は緊張感一杯ガチモード。

ただ新年2日から5日まで催事イベントが入り・・・すっかり
気持ちが萎えてしまいましたが・・・





遡ること32年前の1985年。
当時高校1年生。
高校入学は前年の市川市民駅伝大会を視察
に来られた高校陸上部監督にスカウトされ、私ともう1人の2名が同中学校から推薦入学。

高校時代は陸上部・長距離に所属。
個人種目は800mの中距離を専門とした練習の日々でした。
目標は高校駅伝・関東大会への出場。

陸上長距離の甲子園、都大路の全国大会へ!と宣言したいところでしたが、
当時の千葉は小出義雄監督率いる市立船橋
の全盛期・・・
翌年の1986年12月、市立船橋は兵庫代表
報徳学園の4連覇を阻止、当時の高校新記録
2時間6分30秒で初出場初優勝を成し遂げて
います。🏆


ちなみに小出義雄さんがどれ程優れた指導者であったか、ご存知でしょうか?
市船教師退職後の戦歴をざっとご紹介します。

1988年に教師を辞めリクルート・ランニングクラブ監督に就任。
1992年に有森裕子さんがバルセロナ五輪
銀メダルを獲得。
実業団女子駅伝1993年1994年連覇に導く。

1996年アトランタ五輪で有森さんが銅メダル。
1997年世界選手権アテネ大会で鈴木博美さん
(市立船橋高校卒業・私の1学年上)が金メダル
を獲得。

1997-2002年積水化学女子陸上部監督に就任。

1998年のアジア大会で高橋尚子さんが当時の世界最高タイムを出し、2000年のシドニー五輪で金メダルを獲得



監督としての全盛期、まさにレジェンド。
そして個人的に感慨深いこと。
市立船橋優勝時が47歳。
高橋尚子さんシドニー五輪優勝時61歳。
まさに6年周期で捉えた時、これから私が
迎える12年間が小出監督の最も輝ける
2サイクルであったというその事実。
比較なぞ考えも及ばず。
夢のある2サイクル(周期)でもあるのだなぁと。

 

 



話は戻って1985年当時。
高校3年に3名の強い先輩がおりまして。
また我々1年の推薦組み5名もそこそこ力を
つけ目標の関東大会・千葉県6位入賞は射程圏内に。ですがそう簡単にはいきません。



千葉県予選大会の3週間前、3年生を乗せた
乗用車が駅伝大会練習直後事故の被害に。

それにより主力選手の怪我の快復が間に合わず、結果11位と大変悔しい思いをしました。目標達成は来年以降へと持ち越すことに。




その翌年、我々同期5名も高校2年となり、
厳しい夏合宿を乗り越え、秋には更に力をつけて冬の駅伝シーズンに突入しました。

中でも追い込み練習のうち、200m×40本。
1,000m3分以内10本といったインターバル
トレーニング。そして15キロ追い抜き走などはかなりキツかったですね。


そんな矢先、我々同期スーパーエース朝日◯君のお父さんが突然の逝去。
彼自身も早朝の新聞配達で生計を助けながら、自転車で往復25キロの通学と、日々の練習を繰り返す中メキメキとその実力を開花させます。心に期するものもあったのでしょう。


迎えた高校駅伝千葉県予選大会の1区10キロ。エース区間を任された朝日◯君。


その翌月に全国優勝を成し遂げた市立船橋の1区にピタリと並走。なんと区間2位でタスキを繋いできたのです!
その細っこい身体の全身に、様々な想いを
詰め込んだまさに魂の走り!!
鳥肌と歓声!!!
彼のあの力走はいまだ忘れられません。

ただタスキを繋いだ私を含む、他レギュラー選手に力がなく、その年も関東大会出場を果たすことが出来ませんでした。




そして迎えた1987年。
そうちょうど今から30年前。
私自身、前年の高校2年時は記録も伸び悩み
また悪友との遊びを覚えた頃。
『なんで俺たちだけ、こんなしんどい練習
ばかりしているのか?楽しくない!』

部活部活とエンジョイを抑制した毎日。
他が眩しく、楽しく思えた頃でもあり。
どこか集中出来ず、気持ちが負けていたの
でしょう。それでは記録は伸びません。


大学で陸上を続ける気持ちはありません。
『悔いなくやれた?そう自身に問えるのか?』そんな自問自答。


ようやく気持ちを切り替え、高校2年の秋頃
から自主的に朝練に取り組みます。
元旦の市川市民マラソン5キロの部・準優勝
で弾みをつけ、春から夏にかけては最も記録が伸びた時期でもありました。
記録が良ければ自ずとステージは上がるもの。幾つかの招待レースの経験も、自信を取り戻すキッカケに。
祖母が亡くなったのもその頃です。



また高校3年になると、やはり推薦組みとし
て入部してきた1年生。
その中でも特に3名はスーパー新人。
既に高校1年で5キロを15分半を切る走力。
こうなると部のムードはイケイケドンドン!若さの勢いは凄いです!
もうやるしかないぞと。

練習時も千葉県3位相当のタイムで走って
おり、あとは本番で力を結果を出すのみ。

駅伝大会練習の遠征時の電車の中。
ウォークマンではレベッカ76th Starを
当時聴きながら。懐かしい。
集中しアドレナリンを引き出していました。





ですが駅伝はチームプレー。
なかなかどうして歯車がかみ合いません。

 

スーパーエース、朝◯向の故障が発覚!


ギリギリまで1区を任せるか?
それとも朝日◯を除くメンバーで走るか?
監督も彼の状態を日々見守りながら思案の
日々が続きます。

それでも前年の県予選では1区2位。10キロ持ちタイムは全国6番の絶対エース。

監督が下した決断。
それは怪我を押して1区を彼に任せることに。

 

 

 




3年では2区を任されていた私。
高校生活、その殆んどを陸上に費やしてきた最後の駅伝大会。

まさに期待と不安で2区の出番を待ちました。

 





1区のランナーはタスキを次のランナーへ
繋ぐため中継地へと続々と駆け抜けてきます。

 





トップの市立船橋、続く成田、東海大浦安、習志野、専大松戸、・・・
ライバル高校が私の前を続々と走り抜ける・・・

 





どうした?朝日◯は・・・

 




ヤバイ、もしかすると棄権したのか・・・





不安と苛立ち・・・

 





36番くらいだったか?
辛そうに脚を引きづる彼の姿が・・・

 


よしよし良く戻ってきた。
後は任せろ・・・




もうその後は自分の持っているものを
全て出すだけ。
高校時代のラストラン。



結果悲願はならず無念の結果で終わりました。








高校駅伝に、陸上に、己のポテンシャルを
最大限引き出すために走り続けた3年間が
ちょうど今から30年前ですか・・・


負けん気魂。

何糞根性。

底に宿るスタミナ。

同級生とはソリが合わず、けっして仲は良くありませんでしたが、共に戦った同士。


当時は自分の想いを表現出来ませんでしたね。表現出来る術を持ち合わせてませんでした。お互いの存在はライバルでしたから。互いに腹を見せず、弱音を見せずに。





もう何十年も会っていません。
でも今、同期の彼らに会ったとしたら・・・

自分を表現できる術を存分に活かして。
素直に当時を懐かしむことでしょう。

そう腹を割って。

 


新国立競技場の進む建設を眺めながら、
そんな昔のことをふと思い出しました。

さて、それでは明日!

 

 

コメント (4)
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