寝転がって気ままに想う事

 世の中ってこんなもんです・・
面白可笑しくお喋りをしましょうか ^^

他力本願とは違う…

2016年03月01日 06時39分02秒 | 日記
最近我々の仲間内で あいさつ代わりといってよいくらい 出てくる言葉に
どや、なんかええことないのか?
…ここは関西、^^; なまり が入ってますから 訳しますと、
どう、何か いいことないですか?
… となりますが、
これに対して 大抵の人は、 ほんなもん ええことなんか あるかいな…
吐き捨てるように返しますが、 尋ねた方も 別に 断られた腹いせに 何か 文句を言うわけでもなく
ああ…そやなぁ、 で収まってしまいます。
こんな会話が日に何回かあるし、違う人から同じようなことを訊かれていたら 仕舞いには 怒ってしまうかと思うと
今度はその本人が別の人に同じように訊いていたりします。
ちょっと話がややこしくなりましたが、二三日空いた場合に 久し振り とあいさつした次の言葉に よく使われていますね。

訊いている 中身は 他愛もない あいさつ言葉に近いのですが、 ひと昔前 商人の街 船場(大阪市内)では似たようなあいさつがありました。 まず、 まいど、(これは毎度ありがとうございます。を略してますね)
相手方も 同じく まいど、 そして次に出るのが どないや、儲かりまっか?
これに対応するのが いや、あきまへん、と手を振るか 若しくは ボチボチでんなぁ …と頭を掻く(笑)
あきまへん とは 大したことありません、の意味。
ボチボチでんなぁ、は 良くもないけど悪いこともない の意味合いでしょうね。
私が若いとき勤めていた繊維会社でも よく似た 会話ありました。
ただし 儲かりまっか とは言いませんでしたが、それに近い感覚の 会話はありました。
これはもう 何十年も前の話で 今では 経済の流通が大きく変貌を遂げて 船場辺りの 問屋街は見る影もありません。
それでも まいど、 と今でも気軽に声をかけるのは 私ら昭和三十年代の世代まででしょね。
関西弁にも流行り廃(すた)りはありますが まいど は是非 残していきたい 方言のひとつだと私は思っています。

話を戻しますが、 なんかいいことないか!? に対して最近 私は 別のあいさつで 対応しています。
それは
ええこともないけど 悪いこともあらへん。差し引き ゼロや(笑) とね^^;
私は 常用化しつつ あった なんかいいことないか…について 整理をしてみました。

ええこと …とは 一体 なんなんだろう~とね^^;
これを使う年代は 先ほど話しました昭和二十数年~三十年代に生まれている人がほとんどで じゃ 何があったら いいんだい!?と訊いても ああ…と言うまま 簡潔な答えが返ってきませんが
それどころか、そんなのわかるやろ~と
為心同心を求めてくるのです。
なるほど わかる 。
感覚として わかる…けど ハッキリした いいこと とは なんじゃろ!? と改めて尋ねても 相手は お手上げの形を見せて さぁ 仕事や 仕事や と逃げるように その場を立ち去ります。
たぶん 言っている誰もが いいこと について 明確な説明が出来ないと思います。
それは ナゼなのか!?
背景には 昭和生まれの今の置かれた立場の悲哀みたいなものがあるのではと私は感じました。
私ら五十~六十代は職に就いたら世の中は、高度経済成長の真っ只中でした。 給料は今考えたら驚くほど安かったのですが、その分、絶対就職できたし派遣や請け負いもなく みんなが社員で毎年毎年 給料が上がっていって 働いたらなんでも買えるぞ、夢と希望がありました。 私が最初貰った給料は、確か五万円くらいでした。 寮に入っていたので食費は掛かりましたが、寮費はただ、電気水道もただ(^^) お風呂はなかったので 近くの銭湯でしたが、 生活するための費用は二万円もあれば十分でした。 それで私の場合 次男でしたから いずれ家を建てなければ いけない ということで 毎月三万円を天引きされていました。 このように 天引き預金は今でもあるでしょうが、私みたいに給料の半分を積み立てていたのは 当たり前みたいな風潮でした。
独身寮で自炊をした経験はないので 毎夜 どこか喫茶店のピラフを食べたり 店屋物の出前を取ったり、ちょっと足を延ばせば 王将もありましたし、食べることに困ることはありませんでした。
それでも 調子よくお金を使ってると 給料前に ピーピー啼くことになります。
そんな時は インスタントの焼そばやラーメン を食いつないで 凌いだものでした。
私は 容姿もそんなに 悪くなかったので ワリとモテたんですが
運がなかったのでしょう… 相思相愛にならなかったのは唯一悔やまれるのですが、当時私は 硬派でしたし、 遊ぶ 器用さや割り切る柔軟性に欠けていましたね^^;
かなり脇道に逸れてしまいましたが、 昭和の五十年代 私が働き出した頃の背景はそんな感じでした。
給料は最初五万円ほどと話しましたが、ボーナスは3ヶ月くらいありましたし、翌年は七千円上がりました、又その翌々年も同じくらい上がりました。
整理して見ますと 五万円→五万七千円→六万四千円→七万円…
ザッと羅列しましたが、 私に限らず誰もがこんな感じて給料はどんどん上がっていきました。(^^) 今では考えられない夢のような話ですが、 当時は 辛抱しなさい、辛抱していたら 給料は上がるから…とよく先輩や親から 言われたもので 事実 上がりましたから、世の中 働くのはよいことだ。と皆が感じていたでしょうね。 それから 年月が過ぎて 現在に翔びます。
給料は 昭和と比較にならないくらい貰えますが、物価も上がってます。
学校で習いました、可処分所得…^^; これを引き合いに出すまでもなく お金の価値観が変わってきていますね。

それと 肝心なのは就職の安定さ 現在の環境の悪さとは これに尽きると思います。
昭和の時代、夜の食事は一家団欒で摂っていました。
父親がいて母親、祖母、兄…弟 どの家も 五人くらいが 一緒にごはんを食べていました。
そりゃ たまには 残業もあったでしょうが 基本 一家で食事をすることが 当たり前だったのですね。
それが いつからか 経済成長が突き進み 仕事量が増し 家庭がお座なりになりだしたのは…
昭和から平成に代わるころ バブルの全盛あたりから 家庭を顧みない、仕事一辺倒な時代になっていき バブルが弾けて 未曾有な不況が 日本をおおいだして から なにもかも おかしな方向へと湾曲していったのです。
バブル以前も日本人の勤勉さ は誇れるもののひとつでした。 それは今でも変わらないと思います。
たただ 余りにも 金儲け志向に走りすぎた帰来があります。
バブルが弾けて どの会社も瀕死の重傷を負って それでも 会社は存続させなければならない、 この使命感が強く噴き出た反動や 余りにも 片寄りすぎた輸出増大 の所為(せい)で 労働者の調整に苦慮した 結果 が派遣、請け負い業 です。 これは 会社にとって 実に都合のよい制度ができましたね。
自分ところの社員には キチンと給料やボーナスを払い 福利厚生や社会保障なども 保証する一方、 同じ仕事を別の会社(派遣会社、請け負い会社)の人にやらせるのです。
そして
為替が変動して会社に損失が出たら 契約を打ち切り 業績が回復すれば 新たに 契約をして人員を増やすのです。
会社の業績に合わせた 調整弁にされているのが 派遣業や請け負い業で働く人達です。日本が 終身雇用制度を採っていた時代 雇用が安定していたお陰で 治安も維持されていましたし、国民皆が貧乏でも 皆が 幸せでした。
それが今や 治安は悪化する一方ですし、多数が貧乏でも 一部だけだ 幸せ なんて 嫌な時代になりつつあります。
私らは 全てを体験してきていますから わかるのです。
なにかいいこと…
なんか探さなくても 毎日がいいことずくめだったのですね!

だから 冒頭の ボヤきみたいな あいさつになったのではないでしょうか。
コメント
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