軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

区会活動

2024-12-13 00:00:00 | 日記
 私の住んでいる区に新しく公民館(新公民館)が建設され、昨日12月12日にその落成式が、町長はじめ町の関係者、設計・建設業者、区の公民館建設準備委員会メンバーと区の執行役員が参加して行われた。

 これまでの公民館(旧公民館)の歩んできた歴史については、以前当ブログでも紹介したことがあるが(2022年4月15日公開)、はじめ病院として建設され、その後病院機能の移転に伴い、建物の公民館としての利用が始まった。1975年に、それまでの公民からの引っ越しが行われ利用が始まり、その後建物の改修工事があり現在の形になって、開館式が行われたのは1979年のことであった。以来約45年にわたり地域の活動の拠点として利用されてきた。

 先月末、新公民館への引っ越し作業を行う中で、様々な古い資料も見つかった。何しろ、元病院ということで2階建ての建物であったのでとても広い。新公民館と比べると延べ床面積では2倍以上もある。収納スペースもたくさんあり、2階部分は最近では使うこともほとんど無く、部屋にはいろんな古い資料が眠っていた。

 その中に「530運動写真集」と題したスクラップブックがあり、ここには当時の写真や新聞記事、会議・回覧資料などが貼り付けられていた。

 そのなかのひとつ、中日新聞 56.5.17日付と付記された新聞記事を見ると、次のように書かれていて、この運動が昭和55(1980)年に始まっていたことがわかる。


軽井沢町での530運動の再開を報じる中日新聞、昭和56(1981)年5月17日掲載の記事

 「530運動再開 軽井沢町
 ごみのない街づくりをめざす北佐久郡軽井沢町は、昨年から530(ごみゼロ)運動を繰り広げているが、十六日から同運動を再開した。
 この運動は同町自治会三十区が中心になって行っているが、冬の間は雪があったことから運動を中断していた。この日は町内から約千人が参加し、午前六時ごろから一時間余にわたり各区ごとに道路や河川の清掃をした。一時間余の作業で、トラック十台分のごみが集まり、町は見違えるほどきれいになった。
 同町では今後、毎月十五日に清掃を続けるが、ことしは清掃作業のほかに町民の意識高揚を図るため530運動の標語、作文の募集や写真展などを計画している。また、同町の別荘地を訪れる別荘客らに同運動への参加、協力も呼びかけていく考えだ。【写真は530(ごみゼロ)運動で朝早くから道路などを清掃する町民ら=旧軽井沢で】 」

 ところでこの530運動とは一体どのようなものだろうか。ウィキペディアで調べると次のように記されている。

 「530運動(ごみぜろうんどう)とは、5月30日(語呂合わせ)に、街中のゴミを拾い歩く運動で、1975年(昭和50年)に愛知県豊橋市が始め、全国に広がった運動とされている。(ウィキペディア)」

 これを見ると、愛知県豊橋市で1975年に始まった運動が、長野県にも伝わり、当地軽井沢町では5年後の1980年に運動が開始されている。

 豊橋市でこの運動が始まったきっかけは、観光客など来訪者が増すにつれ、空き缶などゴミの散乱が目に付くようになってきたからとされる。

 軽井沢での運動は町全体の取り組みであるが、特に旧軽井沢区では銀座通り商店街を抱えており、さらに区内には矢ケ崎川と精進場川の2つの一級河川が流れていて、こうした場所でのごみ散乱が美観だけではなく防災面でも問題視され、区民の意識も高く、運動が進められると共に、「軽井沢530ニュース」も発刊されるようになった。



昭和57(1982)年7月1日発行の「軽井沢530ニュース」

 この「軽井沢530ニュース」のトップには、当時の旧軽井沢区の小林正直区長の次のような記事が掲載されている。

 「530運動三年目を迎えて
 去る五月三十日は関東各県が中心となって、空きカン収集などいわゆる530運動が展開されました。
 当地でも県境の碓氷トンネル頂上付近と、国道十八号線の町境追分付近の清掃運動が実施されました。
 このように関東一都九県の知事会がゴミの投げ捨て防止を呼びかけるとともに、散乱しているゴミの収集運動に取組むということはやはりみんなの力で私達の環境を美しくしようとする強い心の現れであると思います。ゴミのなげ捨てを法律で厳しく取締って効果を上げている国もあるそうですが、取締られるまでもなく文明社会人のモラルとしてゴミの投げすては自らが慎まねばならないことです。ゴミを拾う身になってみるととても投げすてが出来ないものです。
 当区では三月から十一月までの間毎月十五日朝六時から一時間位、区民の全世帯が総出勤で530運動を実施しておりますが、道路等をいつもきれいにしておくと、投げすても少なくなるようです。併し心ない外来者の一部の人達は気にもとめず平気でゴミの投げすてがまだまだ続いていますが、関東一円の運動だけでなく全国的にこの運動を強く進めたいものです。・・・
 旧道の商店街道路等は夜間のおびただしいゴミの散乱が目につきますが、朝はいつもきれいに掃除されています。毎朝自分の家の前の道路だけでなく、他人の家の前まで清掃奉仕する人の数が増えつつあることは本当に頭の下がる思いがいたします。今年もいよいよ最盛期を迎える季節となりましたが、この運動を通じて、私達の大切な環境が一層美しく保たれますよう一層のご協力をお願い申し上げます。
                               旧軽井沢区長 小林正直」

 そして、全国の530運動のテーマソングだろうか次のような歌詞が作られ、曲もつけられていることがわかる。


530運動の歌詞(作詞 神村民雄、作曲 神村みゆき)

 旧軽井沢区でも独自のテーマソングをめざしたのだろうか、歌詞が作られている。この作詞者の名前は、土屋三郎となっているが、当時の旧軽井沢区の役員の中にはこの方の名前は見当たらないので、作詞の才のある方に依頼したものだろうか。 


旧軽井沢区の530運動の歌詞(作詞 土屋三郎)

 いまでは考えにくいが、当時の日本では、多かれ少なかれ各地のゴミ捨ての状況は似たようなもので、全国的にこのような清掃運動が必要な背景があったものと思われる。

 では、現在はどうかというと、当地区ではつい先ごろまで4月から11月までの毎月の15日には、朝6時30分から自宅周辺や自宅近くの幹線道路の清掃活動を推進していて、前日には区内で放送がされ、意識づけも行われていた。また、当日には530衛生部の部長が区域内を音楽を流しながら車で巡回していた。

 しかし、清掃意識が定着し、ゴミのポイ捨てはなくなり、ゴミ出しについてもルールが守られるようになってきたことから、自然消滅する形で530活動が行われなくなっていることが確認され、区会役員会でこの活動を終了することが決まった。聞くところによると、軽井沢町内でも早朝清掃活動を継続してきたのは当区だけであり、その中でも私の住んでいる班だけであったという。

 一方、530運動の一部として始まった、河床整備は続けられていて、春・秋年2回の河川と周辺の雑草の刈り取りや樹木の伐採を行っている。これは美観を守るためでもあるが、洪水防止という防災面が主目的になっている。

 ところで、昭和55(1980)年に始まり、今年まで40年以上の長きにわたり継続されてきた530運動の早朝清掃であるが、私が区会活動に参加するきっかけになったのは、この早朝清掃でご近所の方に誘われたからであった。

 それから数えて今年で6年目になる。おかげで近隣だけではなく、多くの区民の方々と行動を共にする機会が増え、知己も増えた。

 自宅周辺の清掃運動はなくなったが、やはり軽井沢は観光地であり、多くの観光客が訪れる場所の中には住民の手の届かない場所も多くある。こうしたところにも改めて目を向けて、清掃活動を行うとともに、現在も行っている河床整備など防災につながる活動は今後も継続しなければならないと、古い資料を見ながら考えるのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真展

2024-12-06 00:00:00 | 日記
 私の住んでいる地区に新しい公民館が建設され、竣工式が行われることになった。式典は町長はじめ町の関係者、建設に携わった業者の方々、そして区の側でこれまで建設準備に携わった皆さんが出席して行われる。

 最近は、竣工式で神事が行われることも少なくなっているようだが、今回はなぜか仏式で行ないたいとの区長、分館長の意向があり、区内の寺の住職にお願いすることになった。式の呼び名も落成式とし、式典の後の食事会も直会(なおらい)ではなく会食と呼ぶことになった。

 この式典の準備を進める中で、区長から記念の写真展ができないだろうかとの打診があった。新公民館にはいくつかの新しい設備や作りがあって、屋上には太陽光発電設備、オーディオシステム、WiFi設備などがあり、大小会議室の壁面と廊下、それと大広間に面した窓上部にはピクチャーレールが設けられている。

 このピクチャーレールはギャラリーとしての利用を想定したもので、子供から老人までの皆さんの作品展示ができるようになっている。

 区長の今回の提案は、ギャラリーのうちの廊下に面した4面の窓上部のピクチャーレールを利用して写真展をやってもらえないかとのことである。かねて、撮りためた雲場池の写真をどこかで発表できればいいなと考えていたことでもあり、区長からのこの写真展のお誘いには喜んでやらせていただきますと即答した。

 対象となる窓の大きさはおよそ横170cm、縦100cm ということで、A3ないしA3ノビ対応の額を、各4枚掛けることができ、合計16枚の作品を展示できる。

 窓がちょうど4カ所あるので、ここに「雲場池の四季」と題して、春夏秋冬の季節の写真を展示する方針を決めて、作品の選定を行った。手持ちの額の種類と数の制約もあるので、各窓にはA3ノビサイズの写真を2点と、A3サイズの写真を2点づつ配置することにして、A3サイズの写真の方は、画面を4分割から6分割して、一つ一つの写真は小さくなるが、できるだけ多くの写真を採用し、雲場池の様々な表情を伝えられるように考えた。

 作品展示期間は区長と相談の上、落成式当日の12月12日から来年1月31日までとなった。当ブログでは、公民館に直接おいでいただけない友人各位に、先行公開することにして、以下展示順に掲載させていただく。

 最初の「雲場池の案内板」と、最後の「雲場池を美しくし隊」メンバーの紹介は作品とは別に、廊下の反対側に掲示する。

雲場池入り口の「案内板」(2024.11.25 撮影)

 以下、「春」から始まる「雲場池の四季」の展示写真を紹介させていただく。

「春」の見出し写真と文、コブシの花が咲いているのが遠望できる

春の到来を告げるようなミソサザイの囀る様子

オオルリ、シジュウカラ、ニホンリスと北へ帰る準備に入ったキンクロハジロ(♂)

雲場池との遊歩道や、隣接して流れる精進場川沿いに咲く花

 続いて「夏」。

「夏」の見出し写真と文、池表面は珍しく鏡面になっている

子育て中のカルガモの母親と、雨宿りするヒナ

餌を巣に運ぶジョウビタキ(♂)、フシグロセンノウが好きなオナガアゲハ、空中でホバリングするホシホウジャク、ヒナを背中に乗せたカイツブリの母親

遊歩道にせり出して咲く大輪のヤマユリ、珍しいギンリョウソウ、ツリフネソウに吸蜜に来たハナアブ、秋の気配を感じさせるホタルブクロ

 次は「秋」。

「秋」の見出し写真と文、紅葉のピーク時の写真

ニホンリス

周辺の紅葉で池は燃えるような赤色になりその中を水鳥たちが泳ぐ。カケスはどんぐりを丸呑みにする。

池の周囲も別荘地の庭も紅葉で美しく彩られる、タマゴタケが顔を出し、ツルニンジンの仲間(バアソブ)の花も見られる。

 最後は「冬」。

「冬」の見出し写真と文、写真は珍しい氷穴が出現した時のもの

イワナを捕えたダイサギ

珍しい雨氷とその上に降り積もった雪、高い木から雪が落ちる。よく見かけるカイツブリに混じり、時にはハシビロガモ、ヨシガモが姿を見せる。

アトリの大群、イチイの実をついばむエナガ、ダイサギ、ヒガラ。

  以上、数としては雲場池の四季を伝えるには十分とは言えないと思うが、プリント枚数はA3ノビサイズ8枚、A3サイズ8枚の計16枚、写真数は45点となった。「春」の部の展示状況は次の様である。
 

新公民館のギャラリーコーナでの展示状況(2024.12.5 撮影)

 最後に、雲場池の美化・清掃活動を行っているボランティアグループ「雲場池を美しくし隊」のメンバーを紹介する。


「雲場池を美しくし隊」のメンバー(2024.10.30 撮影)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天王寺蕪

2024-11-29 00:00:00 | 日記
 故郷の話題にはやはり反応してしまうのであるが、妻から大阪・天王寺のことがTVのニュース番組(11月6日放送)に出ていたよと教えられた。

 録画してくれていたので、夕飯を食べながらその番組を見ていると、番組後半部分にその話題が特集として取り上げられていた。

 内容は、信州の名産・野沢菜のルーツが江戸時代に大阪・天王寺の特産品であった天王寺蕪(てんのうじかぶら)だというもので、長野の野沢温泉と大阪の天王寺が紹介されていた。

 長野放送局から天王寺に取材班が出かけて、本当に野沢菜のルーツが天王寺蕪であるかを調べてみようというものである。

 野沢温泉側では、名産品の野沢菜のルーツが大阪の天王寺蕪であり、260年ほど前にいた野沢温泉の僧が京都に修行に出かけた際に、土産として天王寺蕪の種を持ち帰り、この地方で育てたことがきっかけになっていることは、周知のことであったという。

 野沢温泉村の現地にはそのことを示す石碑・記念碑も建てられており、販売されている野沢菜のパンフレットにもそうした内容が記されている。

 一方、大阪側はというと、野沢菜のことはよく知っていても、そのルーツが大阪・天王寺にあるということはほとんど知られていない。だいたい、私などは天王寺蕪のことも聞いたことが無い。そこで、この番組をきっかけに、野沢菜とそのルーツとされる天王寺蕪について踏み込んで調べてみることにした。

 まず、天王寺蕪とはどのようなものか。普通の蕪とどう違うのか。いつものウィキペディアを見ると、次の説明がある。

 「天王寺蕪(てんのうじかぶら)はアブラナ科アブラナ属の越年草。なにわの伝統野菜(根菜)の一つ。日本最古の和カブといわれている大阪の在来種で、言い伝えでは野沢菜の原種ともいわれている。
 ・発祥地・歴史
 大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている。「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる。
 ・特徴
 多肉根は白く、形はややつぶれた扁平で、甘味が強い。肉質は緻密である。・・・煮物でも漬物にしても、美味しく食べられる。
 ・野沢菜との関係
 野沢菜には、野沢温泉村の健命寺の住職、八世晃天園瑞が宝暦6年(1756年)、京都に遊学した際、大阪市天王寺で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰り、子孫が野沢菜となったとの言い伝えがある。 しかし、種子表皮細胞ほかに対する遺伝的研究から、これは否定されている。
 日本のカブは、西日本主流のアジア系と、東日本の山間地に多く耐寒性に優れたヨーロッパ系に大別されるが、天王寺蕪はアジア系であり、野沢菜はヨーロッパ系の特徴が強い。 現在野沢菜は、カブに由来する別の変種と考えられ、伝統野菜の漬け菜(稲扱菜、羽広菜、鳴沢菜、長禅寺菜)や紫蕪(諏訪紅蕪、細島蕪)は、いずれも近縁とみられる。(最終更新 2024年1月13日)」

 ここでは、野沢菜との関係は単なる言い伝えであるとし、野沢菜のルーツが天王寺蕪であることはあっさりと否定されている。だとすると、今回のTV報道は一体何だったのだろうかと気になるが、その前に野沢菜について、同様にウィキペディアを見ると次のようである。同じウィキペディアの記述なので、当然ながら野沢菜側でも、天王寺蕪との関係は否定されている内容である。

 「ノザワナ(野沢菜)は、アブラナ科アブラナ属の二年生植物。日本の長野県下高井郡野沢温泉村を中心とした信越地方で栽培されてきた野菜で、特産の野沢菜漬けの材料とされる。高菜、広島菜とともに日本三大漬菜に数えられる。・・・
・ 概要
 一般にカブの品種とされているが、これは1756年、野沢温泉村の健命寺の住職が京都に遊学した際、大阪市天王寺で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰り、その子孫が野沢菜となったとの言い伝えによる。しかし、種子表皮細胞ほかに対する遺伝的研究から、これは否定されている。・・・
・ 野沢菜漬け
 畑で根(蕪)を切り落としてから共同浴場で「お菜洗い(おなあらい)」したのち、大きな木の桶で漬る。そのほか家庭ごとの味付けがされる。
 乳酸発酵が進みアメ色に変色した本漬と、緑色のままの浅漬がある。
 寒冷な環境で製造・保存されるため、発酵はあまり進まず、臭いは少なめであっさりした味わいなのが特徴。・・・
 産地の長野県では一年中緑色の菜漬を供給するのに課題があったが、10月から12月にかけては主に長野県産、1月には主に徳島県産、2月には主に静岡県産、3月から5月にかけては主に山梨県産や長野県産のトンネル栽培物、6月には主に茨城県産、7月から9月にかけては主に長野県の八ヶ岳中腹から戸隠産のものと産地を移動することで解決している。
 なお長野県は、野沢菜漬けを1983年(昭和58年)に長野県選択無形民俗文化財「信濃の味の文化財」に選択した。
・ 栽培
 野沢温泉では「麻畑(おばたけ)」と呼ばれる明治時代まで大麻を栽培していた耕地の後作にノザワナが栽培されてきた。
 野沢温泉健命寺の屋敷畑で「寺種(てらだね)」と呼ばれるノザワナの原々種が作られ、「蕪菜原種」として「種一合、米一升」という高値で販売されていた。
 野沢温泉の湯治客が土産に蕪菜の種子を買い求めていったことから、野沢温泉の湯治客圏とノザワナの栽培圏はほぼ一致していた。(最終更新 2024年5月30日) 」

 次の絵は「日本山海名物図会」の「天王寺干蕪」のコマで示されているもの。


「日本山海名物図会」の「天王寺干蕪」の項(国会図書館デジタルコレクションより、コマ68 )
 
 野沢温泉村現地では実際にどのように伝えられているかということで、健命寺のHPを訪ねてみると次のような寺の紹介文と共に、野沢菜の由来が掲載されている。

 「心やすらぐ小さなお寺
 北信州野沢温泉にある健命寺は古くから村民の心のよりどころとして、また野沢菜発祥の寺として親しまれています。
 色とりどりの四季が美しい自然に囲まれた小さなお寺です。どうぞお気軽にご参拝ください。」
 
 野沢菜についても、長野県野菜花き試験場長・塚田元尚氏の次の抜粋文章が「寺種」のページで紹介されている。

 「漬け物王国日本を代表する『野沢菜』
 『野沢菜』は北信濃に位置し、温泉とスキーで知られる野沢温泉村が原産とされる。今では我が国を代表するツケナとして周年生産され、全国津々浦々で消費されている。

 『野沢菜』は野沢温泉村の健命寺の口伝によると、宝暦年間(1751~1763)当時の八世晃天園瑞和尚が京都遊学の折り、関西近辺で栽培されていた『天王寺蕪』の種子を持ち帰り栽培したことが始まりとされる。『野沢菜』と『天王寺蕪』との関連性については、その後論議されている経緯はあるが、導入以来250年近くにわたって採種と栽培が連綿と継続されてきたこと、また、その来歴が比較的はっきりしていることなど、多くの地方野菜の中でも特筆すべきツケナである。

 現在でも、健命寺領内の庫裡の南に位置する一反歩ほどの圃場では採種が継続されており、一部の種子は「寺種」と呼ばれて流通している。健命寺門前には、晃天和尚の彰徳碑とともに「野沢菜」発祥の地の碑をみることができる。寺の採種圃場では長い間、有機物の施用による地力維持に努め、結果として二百数十年にわたる連作を可能としたことも驚嘆すべき事例である。・・・(長野日報選書9、『からい大根とあまい蕪のものがたり』編著 大井美知男・神野幸洋より抜粋)」

 ここでは健命寺側の口伝が直接語られるのではなく、研究者が出版物から引用するという形で、野沢菜伝来の由来が記されている。天王寺蕪との関係については、触れられてはいるものの、明確ではない。

 健命寺の境内には「野沢菜発祥碑」があり、ここには次のように刻まれていて、口伝の内容と一致している(下記の西暦年号の1765は1756の誤記と思われる)。もっとも、この内容も口伝を書いたもので、寺側に何らかの記録があって、それをもとに書かれたものではないようである。
 
 「野沢菜は宝暦六年(1765)健命寺第八世晃天園瑞大和尚京都遊学の折持ち帰りし天王寺蕪の種子を播種せしところ野澤特有の風土により変種したと伝えられる
 爾来幾星霜寺に護られ村人に育まれ広く世の人に支えられ全国的に愛好されて今日に至る
 茲に晃天園瑞大和尚の遺徳を讃える碑と共にこの碑を建立する
                   昭和五十七年十一月吉日
                   野沢菜まつり実行委員    」

 もう一つ「野沢菜漬けドットコム」というサイトがあって、ここに「野沢菜のルーツ」として次のように記されている。内容はウィキペディアの記述、野沢菜発祥碑文と類似するが、天王寺蕪と野沢菜の関係を一概に否定しないで、口伝をふまえて理解しようとしている。

 「京都から来た蕪の種
 宝暦6年(1756年)下高井郡野沢温泉村の健命寺八代住職晃天園瑞和尚が、京都遊学の折、天王寺蕪(かぶら)の種を持ち帰り、それを寺内の畑地に蒔いたところ、それが地味に合って今日のような菜になったと伝えられています。
 風土の中で変遷 
 以後、交雑し変化した経過は明らかではありませんが、現存する物は白色根の天王寺蕪そのもので無いことは明らかで、野沢特有の風土の中で変種した雑種であるとされています。
 最近の調査によるとむしろスグキに近い品種であることがわかってきています。 」

 今では広く国内各地で栽培されている野沢菜であるが、ほとんどがF1(交配種)とされる。これに対して上記のように健命寺では、導入以来、交雑を防ぎながら250年近くにわたって採種と栽培が連綿と継続されてきたというから、現在のところ、この種がもっともよく当時の天王寺蕪の遺伝的情報を伝えているものと推察できる。

 さて、野沢菜と天王寺蕪についての概要は判ってきたので、再びTVニュースの内容に戻ってみる。ニュースの内容は、「野沢菜のルーツ探し」と、「天王寺蕪の復活」という2つの話題を紹介している。

 記者は、野沢菜のルーツを求めてまずは野沢温泉村の健命寺に向かい、そしてそこで教えられて本当のルーツである大阪に出かけている。

 大阪では、四天王寺に辿りついて、住職の紹介で境内に2016年11月に設けられた「野沢菜、伝来記念碑」を見、野沢菜のルーツが天王寺にあるとされることを確認する。さらに、天王寺蕪を復活させた立役者である、「天王寺蕪の会」の難波りんごさんと、森下正博さんを紹介している。

 天王寺蕪の会の2人によると、宝暦6年(1756年)野沢温泉村に持ち帰った種を蒔いたところ、信州の冷涼な気候のせいか、カブの部分は育たずに、葉だけが大きく伸びたので、それを食べるようになったという。

 一方天王寺の方では、長く名産として天王寺蕪の名が広く知れ渡っていたが、大正時代に害虫マユガが大量発生し絶滅の危機に瀕し、次第に忘れられていった。

 大阪の伝統野菜を調べていた難波りんごさんが偶然天王寺蕪のことを知り、詳しく調べていくうちに、野沢菜のルーツが大阪に天王寺蕪にあることと、天王寺蕪を今も細々と育ててきている農家があることを知った。

 あの有名な野沢菜のルーツが天王寺蕪であると教えられ、その復活にも力が入ったとのことであるが、このことから天王寺蕪の会では、野沢温泉村を天王寺蕪復活の恩人ととらえている。

 最初、恩人と聞いた時に、健命寺に伝えられている「寺種」を大阪・天王寺で育てて天王寺蕪が復活したのかと思ったが、そうではなかった。

 ただ、こうしたことがきっかけになり、天王寺から野沢温泉村までの野沢菜の伝来ルートを歩く企画が行われるなど、両者の交流が始まる。さらに野沢温泉村では村制施行60周年の記念行事の一環として、四天王寺に高さ1.8m、幅2.4mの前述の「野沢菜伝来記念碑」を建立した。

 こうしてみてくると、野沢菜のルーツが天王寺蕪であることが「口伝」から「事実」であると伝わっていくように思えるが、実際はどうなのだろうかと気になる。

 TV放送を見た後に、さらに調べていくと、信州大学がCATVとの連携事業の一環で作成した特別番組「信州の伝統野菜 野沢菜のルーツを探る旅(2024年製作)」が見つかった。このYouTubeは前述の口伝をもとに、信州大学学術研究院(農学系)松島憲一教授と、伊那ケーブルテレビジョン放送部長・アナウンサーの平山直子氏が大阪市にある天王寺地区などを訪ねるドキュメンタリーである。 

 この中で、天王寺蕪と野沢菜との関係について、次のように述べている。

 「(天王寺蕪の会)の森下正博氏は、天王寺蕪が野沢菜の祖先であることを証明しようと長年研究を続けている一人です。森下氏は、自ら考案した比較実験で種の特性を明らかにし、天王寺蕪と野沢菜は親子関係にある可能性を示唆する結果になったと総括しています。さらに、山形大学農学部教授の江頭宏昌氏によって、両者のDNA配列を解析した結果も最近になって学会で発表されました。これによると野沢菜の祖先が天王寺蕪だという可能性は高いといいます。現段階では確実だと断定はできないといいますが、さらなる研究が進むことが期待されます。 」

 江頭宏昌教授が発表した内容とは、「SSRマーカーによる国内在来カブの遺伝的類縁関係 その2 天王寺カブと野沢菜を中心に」というもので、2020年に育種学研究学会でポスター発表されている。まさに両者の類縁関係をDNAの解析により調べたもので、決定的なものではないかと思うのだが、そうでもないらしい。

 SSRマーカー(別名マイクロサテライト)は、ゲノム上の塩基配列の短い繰り返し部分の長さの違いを利用して品種を判別するDNAマーカーであり、集団の多様性解析や個体の識別、遺伝子流動、遺伝子地図作成に有効とされる。

 以前、当ブログでも新型コロナの検査法として取り上げたことのあるPCR技術を用いる方法で、適切に設計された一対のプライマーで、解析領域を挟み込むことで、その間の領域のゲノム配列を調べるものである。 

 ウィキペディアで一旦否定的な結果が示された「口伝」内容であるが、こうした研究により、真実が明らかにされる日が待たれる。

 私は普段あまり漬物を口にしないのであるが、今回の調査で野沢菜に関心を持つこととなり、地元軽井沢と小諸でそば店を経営しているY店が、野沢菜漬についても、こだわりをもって製造販売していることを知り、今日ランチの土産に2種買い求めてきた。おいしくいただこうと思う。


野沢菜漬け(2024.11.27 撮影)

 
 

  

 
 

 



 

 

 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵葉書

2024-11-22 00:00:00 | 日記
 旅先でお土産に買う絵葉書というのは旅の楽しみの一つといえる。特に、仕事で出かける海外では観光はほとんどできないので、代りに絵葉書を買うことが多くなる。


Museum of Fine Art, ボストン(1980年頃)


Empire State Building, ニューヨーク(1980年頃)


The Battery, ニューヨーク(1980年頃) 


Marktplatz, バーゼル(1985年頃)

 
View Biel-Bienne, スイス(1985年頃)


Les Trois Lacs Bienne-Neuchatel-Morat, スイス(1985年頃) 

 この頃は、まだ銀塩フィルム写真の時代で、自分で撮る写真の枚数も限られていたので、海外では絵葉書を買うことも多かったが、やがて小型デジカメが普及するにつれて、ほとんど絵葉書を買うこともなくなっている。

 絵葉書アルバムを見ていると、2000年以降になると、海外の絵葉書は少なくなり、国内の絵葉書が増えている。これは自分では撮影が難しいような被写体が中心になっている。


Anne Frank Huis Amsterdam, オランダ(2005年頃)

 その絵葉書を自分が作るようになるとは予想もしなかった。

 きっかけは2023年に開催された、第1回軽井沢フォトフェストで私の8作品が入選したことで、事前にこの入選の知らせを受けていたので、フォトフェストの期間中に私のショップを訪れてくれる方々に、8枚セットの写真絵葉書をプレゼントしようと思い立った事であった。この時は、ショップのダイレクトメールなどを制作している専門の業者に8作品を各200枚作成してもらった。

 今年の第2回軽井沢フォトフェストにも作品を応募し、もし昨年同様入選した時には、また写真絵葉書を作ろうと考えていた。しかし今年は入選発表のタイミングが昨年とは異なっていて、事前の入選案内はなく、展示初日に発表があり、3作品の入選を確認したものの、あらかじめ写真絵葉書を作る時間的な余裕はなかったので、写真絵葉書の作成は見送った。

 今年になって、以前から使ってきたプリンターが不調になったこともあり、それまでは外注に出していた、ショップのDM制作や、元の勤務先OBによる作品展と軽井沢町の総合文化展に出品する大判の写真作品も、自分でプリントしようと思い立ち、A3ノビサイズ対応で顔料インクのプリンターを購入した。

 昨年外注した写真絵葉書は、ショップに来ていただいた顧客の方々だけではなく、いろんな方々にも無理やり押しつけていたが、その一人で、文化遺産保存活動をしている会のM会長から、著作権の切れた古い写真絵葉書の復刻版を作りたいとの話があり、外注時の単価などの問い合わせを受けたので、同一作品を200枚制作した時の情報を伝えてあった。

 本来ならば、販売用の復刻絵葉書は、この専門の業者に依頼すべきところであるが、どの程度売れるものか予想がつかないので、先ず試験的に少量私が作成しましょうかと提案したところ、すぐに承諾していただき、話が進むことになった。

 次は、この頃私が独自に入手した古い写真絵葉書をもとに作った試作品の例である。

軽井沢から見た浅間山(1886年頃の撮影写真より)

 復刻絵葉書の原版となる古い写真絵葉書は、会のメンバーのコレクションから20数枚提供していただいたが、その中からM会長に10枚選定していただき、試作品を作ることになった。

 原版絵葉書のデータをスキャナーで取り込んだ後、古さ故えの汚れやシミなどを画像処理ソフトで修正した後、写真内容の説明文や保存会のロゴを追加してプリントした。

 写真画質のほか、画面サイズ、文字のロゴ・配置、用紙の質など数回の試作を繰り返した後、Mさんからもこれなら販売できそうですねとの判定をいただき、販売用を数組制作してみた。

 これらの試作品は、原版絵葉書を提供していただいたメンバーの方々にも1セットづつ届けて感想もお聞きしている。また、町内の書店の店長さんにも見ていただき、おおむね良好なコメントをいただけた。

 復刻絵葉書の方は、今のところこうして順調に販売に向けて推移しているようであるが、このほかにも、自分で撮影した写真を絵葉書にしてみようと思うようになった。

 これには軽井沢フォトフェストで選んでいただいたことがとても支えになっている。軽井沢フォトフェストに応募した作品は、ほとんどがこのブログに用いるために撮影したものだが、普段このブログに載せている写真を見てくれている妻から、入選作品だけではなく、季節の写真や浅間山の風景、野鳥、昆虫、植物などの写真も絵葉書にしてショップで販売してはどうかと言われた。

 雲場池の散歩を始め、写真を撮りはじめた頃から、できることなら写真集を作って見たいと思うようになっていた。以前、3つの私の夢をこのブログに書いたことがあった。写真集を作るのは、いわば4番目の夢で、これは他の3つの夢とは違って、自分で努力すれば叶えられる。まずは写真絵葉書から始めて、その結果が写真集につながっていけばいいと思っている。

 今年の営業期間も終盤にさしかかってきたので、先月下旬から2週間にわたり、いつもご利用いただいている顧客宛に、秋の特別セールを企画し、DMはがきを郵送した。雲場池の紅葉の写真を使用したものであるが、この写真絵葉書はいわば自作の第一号絵葉書になる。

ショップのDMに使用した雲場池の紅葉の絵葉書

 もうすぐショップは冬季休業期間に入る。この冬籠りのあいだに絵葉書の候補となる写真を選び、来春からの発売に備えようと思っているのであるが。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総合文化展

2024-11-15 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢町では毎年秋の文化の日を中心にして、「総合文化展」が開催されている。今年も11月1日(金)から4日(月)までの4日間、連休の3日をはさんで第40回軽井沢総合文化展が、中央公民館と老人福祉センターで行われた。

 出展作品は書道、詩歌、絵画、写真、生け花、その他・陶芸・彫刻・篆刻・工芸・手芸・和裁・押し花など多岐にわたるが、子供から老人までの幅広い年代の方々の力作が展示される。

 私も、ここ数年毎回のように写真を出品してきている。また、昨年からは妻も出品するようになった。私は毎回写真を出品しているが、妻の場合、昨年は切り絵を、今年は貴石を使用したペンダント作品を額装して出品した。

 今年出品した私の写真は、このブログですでに紹介したものばかりだが、これをA3ノビサイズに大きくプリントした。昨年までは専門の業者に依頼していたが、プリンターを新しくし、大判の印刷にも対応できるようになったので、今年は自分でプリントして出品した。

 普段はパソコンのモニター画面で見ている写真だが、これをプリンターで印刷すると、思ったような色調に仕上がらないことも経験しているので、専門の業者に依頼したものと同じような画質になるかどうかが心配なところだが、6月に一度、別の展示会用のA3ノビサイズの作品をプリントしていて、プリンターの設定条件などを確認できていたので、今回もなんとかイメージに近い写真に仕上げることができた。

 今回の私の作品は偶々だが、”と”シリーズになった。以下のように二つの主題を組み合わせて撮影したものである。何だか学生時代の写真部の顧問のH先生からは「どっちつかずでうろうろしているうちに起きた交通事故のようだ!」とのご批評を受けそうな気もしているが。


 ① 満月と浅間山
 これは、浅間山の山頂に満月が沈む「パール浅間」の撮影をするために、その事前の準備として1か月前に撮影に出かけた時のもので、まだ満月の位置が上空高くにある時に、浅間山が朝焼けでピンク色に染まるタイミングとなったところを撮影したものである。
 翌月には、狙い通りに浅間山山頂に満月が沈むところを撮影できたが、太陽がすでに昇っていて浅間山はすでに普段通りの色になってしまっていた。
 浅間山の色合いと空のグラデーションの美しさを見ていただきたくて、今回出品作品に選んだ。


 ② 北斗七星とホタル
 この作品は、初めてホタルの撮影に出かけた時のもので、はじめのうちはカメラを三脚に水平にセットしてホタルが前を横切るところを撮影していたが、北斗七星が見えるとの妻の言葉に、カメラを上空に向けて、ホタルが高く飛びあがるのを待って撮影したものである。
 この日現地で会った、ホタル撮影などの夜景を専門にしている方の話によると、比較明合成を行うことで、より多くのホタルの光跡を表現できると教えていただいたので、友人に頼んで試みてみたが、今回は北斗七星があり、比較明合成をすると星の位置がずれてしまうので、1回の撮影でより多くのホタルの光跡が写っているものを選んだ。


 ③ カルガモの雛とシジミチョウ
 カルガモの雛が、切り倒されたショウブの葉の上で休息している姿を撮影していると、シジミチョウが近くにきて、雛の周りを飛び始めた。雛もそれに気がついて、目でシジミチョウを追い始めた時に撮影したもので、雛にとっては初めて見る不思議なチョウの姿であったのだろう。
 ショウブの葉がやや煩わしく思えたので、雛を中心に楕円形に切り出して、四隅の画像を消してみた。

 
 ④ カラスアゲハと蛹
 前の年に卵を採集して飼育していたカラスアゲハが蛹になり、そのまま年を越して翌年春に羽化してきたところを撮影した。軽井沢の厳しい冬を屋外で過ごしていたので、無事羽化できるかどうか気をもんでいたが、蛹から成虫が這い出てきて、棒の反対側に回り込み、やがて翅がしっかりと伸び美しい姿になった。まだ翅を閉じたままの翅裏からの撮影であるが、尾状突起の一部に翅表の青い構造色がわずかに見える。

 妻の作品は、今年の春からショップの商品に加わった手作りのペンダント、ネックレス、ブレスレット、チャーム、イアリングから選んだもので、これを額装して主題のアクセサリーと背景の組み合わせになっている。


 ① アゲートジオード ペンダント2点


 ② ヘマタイト・バリシルバー ペンダント 


 ③ オプシディアン・タイガーアイ・天珠・水晶 ペンダント2点


 ④ アメジスト・タイガーアイ・クリソプレーズ ペンダント3点

 こうした展示会に参加して、毎回思うことであるが、作品展会場に行くのは搬入・飾り付けの時と搬出時だけで、会期中にはショップの関係で私は行くことができない。見ていただいた方々の感想などが聞けるとありがたいのであるが、ただただ展示するだけで終わっているのが現状である。

 今回、趣向が違っていたのは「サクラソウ会議」からの出品で、これは研究発表などのポスター発表の形式で、解説文付きの写真がパネルに貼られ、テーブル上には植物標本が展示されていた。更にその横には生き物を入れた水槽も展示されていた。


テンナンショウ(マムシグサ)のヒミツと題された解説と植物標本(2024.10.31 撮影)

 これらは南軽井沢の馬取山田地区の動植物を取り上げたもので、この地区は絶滅危惧種の動植物の宝庫であることを示し、水槽にはホトケドジョウ、ツチガエル、オオコオイムシが展示されていた。


馬取山田地区の絶滅危惧種の動植物に関する解説と実物の展示(2024.10.31 撮影)

 また、会期中は植物の解説と展示標本の制作にかかわったご夫妻が会場に詰めて、説明員を引き受けておられた。

 私は行けなかったが、妻が展示期間中に行ったので、そのご夫妻から説明を聞く機会があり、共通の興味があったことも手伝って親しくなり、後日私どものショップにもお揃いで来ていただくこととなった。

 以下、展示会場の雰囲気と作品群をご覧いただく。


中央公民館2階展示会場への入り口の掲示(2024.11.1 撮影)


中央公民館2階展示会場(2024.11.1 撮影)


書道の部の展示 1/2(2024.11.1 撮影)

書道の部の展示 2/2(2024.11.1 撮影)

詩歌の部の展示(2024.11.1 撮影)

絵画の部の展示 1/3(2024.11.1 撮影)

絵画の部の展示 2/3(2024.11.1 撮影)

絵画の部の展示 3/3(2024.11.1 撮影)

写真の部の展示 1/3(2024.11.1 撮影)


写真の部の展示 2/3(2024.11.1 撮影)

写真の部の展示 3/3(2024.11.1 撮影)


私の写真作品の展示(2024.11.1 撮影)


テーブルセッティングの展示(2024.11.1 撮影)


軽井沢彫りの展示(2024.11.1 撮影)


和裁の部の展示、左奥の壁面に妻の作品が見える(2024.11.1 撮影)


1階、手芸の部の展示会場(2024.11.1 撮影)


1階展示会場(2024.11.1 撮影)














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする