軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

年賀状

2024-12-27 00:00:00 | 日記
 年賀状を書き始めたのはいつ頃のことだったのか、はっきりとは思い出せないが、多分小学生の高学年になったころ、担任の先生に出したのが最初だったように思う。それからクラスメートにも少し書き送ったように覚えている。

 年賀状を出すことで、大人の仲間入りができたようで、誇らしい気持ちになったことも僅かながらに思い出す。

 本格的にきちんと年賀状を出すようになったのは、やはり就職してからで、私の場合就職した年の秋には結婚したので、そのご挨拶ということもあって、年賀状を出しはじめた。この時の年賀状の図柄は木版画で作ったことを、とてもよく覚えている。

 毎年、その時期が近くなると木版画を作り、刷った年賀はがきを、狭い部屋の畳の上に並べて乾燥させたものであった。
 その後、年賀状専用の小さな印刷機「プリントごっこ」を買って印刷したこともあった。

 以来、半世紀の間毎年欠かさず年賀状を作ってきたが、ワープロとパソコンの登場でこの作業は画期的な変化をすることになった。宛名だけではなく、図柄の方もパソコンで作成し、プリンターで印刷できるようになった。

 私が図柄に写真を取り入れるようになったのは、写真撮影を再開した定年退職後のことで、ここ数年は当地の写真や、干支にちなんだ写真を取り入れている。因みに、卯年には「満月」、辰年には「ギンリョウソウ」、巳年の来年は「マムシグサ」といった具合である。

来年2025年の年賀状に用いた写真

 この調子でいけば、午年は「ウマノスズクサ」、その次の年は「ヒツジグサ」ということになる。

 年賀状を出す先は、時と共に変化するが、離れて暮らしている家族や親戚、小学校から大学までの級友や先生、職場の方々、ビジネスや学会でお付き合いのあった方々、地域社会でお付き合いのある方々、そして当地に来て始めたアンティークガラスショップの顧客と分類している。

 ビジネス上お付き合いのあった会社の方々には、仕事の内容が変化したり、職場を異動したりする中で自然と出さなくなるものだが、一緒に仕事をしてきた職場の方々には今も一番数多く送っている。

 もう10年ほど前から、年齢の離れた元の職場の上司や先輩の方々からは、年賀状じまいが届くようになっていたが、最近では同年代の元同僚からも届くようになり、昨年から急増した。特に今年は郵便料金の値上げがあり、これをきっかけにした方も見られた。

 年賀状じまいの仕方には2通りの方法があって、その年の年賀状に今年でおしまいにしますという挨拶が書かれている場合と、年末近くなって事前に年賀状じまいの連絡を頂く場合がある。

 そうした方々も多くは、まだまだ元気なのだが、終活の一環として徐々に付き合い方を変えたり、人数も減らしているということだと思う。また、最近ではE-メールやSNSで以前に比べると格段に普段からやり取りをする回数も増えているので、敢えてわざわざ年賀状を出す必要もないだろうとの考えもあると思う。

 私は、ショップの顧客に出す都合上、まだ年賀状じまいをする考えはなく、今年もこれまで通り、元旦の配達に間に合うようにと、年賀状を近くのポストに投函した。

 ところで、年賀状を交換していると、必然的に喪中はがきを出したり、受け取ったりする。日本独特の習慣で、おそらく諸外国には無いだろうと思うが、以前は親世代が亡くなり、その喪中はがきを受け取るのが普通であった。しかし、最近は私が年賀状を交換している相手が亡くなり、その配偶者の方から、ご本人が亡くなったことを知らせていただくことも増えてきた。

 今年も、職場の1年後輩のKさん、同僚のSさん、上司のNさん・Oさんの奥様からそれぞれ喪中の葉書をいただいた。そういう齢になったのだ。私が出した年賀状をご覧になって、ご連絡いただいたのである。
 年賀状じまいをするとこうした連絡も途絶えてしまうので、妻が喪中の葉書を出すようになるまで、やはり年賀状は出した方がいいのかと思ったりするのである。



 

 

 

 

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅間満月

2024-12-20 00:00:00 | 浅間山
 2年前の年末に、ちょっとしたきっかけで浅間山麓に沈む、その年最後の満月を撮影して以来、年末になると、浅間山に沈む満月(以下、浅間山から昇るものも含めて浅間満月とします)を撮影してきた。今年で3回目になる。




浅間満月の連続写真(2022.12.9, 6:55~57 撮影)

 浅間満月(沈)を見ることができる日は、年に12回訪れるが、当地軽井沢からという条件をつけると、適期は限定され、さらに沈んでいく位置が頂上付近となると、撮影に適した場所という条件もあるので、年に1回か2回になってしまう。

 昨年はこの頂上に沈む浅間満月を撮ってみたいと思い、条件を満たす撮影場所を探し、11月と12月の2回の機会をとらえて撮影に臨んだ。11月にいい具合に雪が降り、浅間山は白くなっていたが、満月(月齢14.7)となる11月28日の早朝に現地に行ってみると、浅間山の上には厚い雲がかかっていて、撮影はできなかった。


すっぽりと雲に覆われた浅間山(2023.11.28, 6:44 撮影)

 翌日も目視ではほぼ満月(月齢15.7)なので、再度撮影場所に出かけてみた。月がまだ高い位置にある時に日の出時刻となり、朝焼けで空と浅間山に積もった雪がピンク色に染まるところを撮影できた。しかし、その後急に湧くように雲が現れてきて、月が浅間山山頂にさしかかるころには頂上付近はすっかり雲に覆われてしまった。



浅間山の山頂付近にかかる雲の変化(2023.11.28, 6:37~7:34 撮影)

 翌月、12月28日に2023年の2回目の機会が訪れ、浅間満月(月齢15.1)の撮影に出かけた。この日もはじめのうちは浅間山周辺に霧が立ち込め、山体は見え隠れしていたが、幸いなことに満月が浅間山山頂に近付くにつれて霧が下がり、山頂にピタリと接するところを撮影できた。ただ、この頃浅間山の雪はほとんど消えており、目指していた雪化粧した浅間山山頂に満月が沈むシーンの撮影は翌年まで持ち越しとなった。

浅間山の周辺は霧に隠れていた(2023.12.28, 6:47 撮影)


朝焼けの頃には次第に霧が晴れてきた(2023.12.28, 7:10 撮影)


山頂部の霧が晴れて、浅間満月の撮影ができた(2023.12.28, 7:18 撮影)

 さて、今年もまた浅間満月の撮影の時期になった。新聞紙上では12月15日はコールドムーンと呼ばれる満月が見られるとの記事も出、それではと、いつもの早朝の浅間満月の他に、夕方浅間山から昇ってくる満月を撮影することにし、適地を探して出かけた。

 浅間山は雲に覆われていたが、しばらく待っていると、雲の縁が明るくなりコールドムーンが顔を出した。これもまた浅間満月である。

コールドムーンが浅間山山頂から昇ってきた(2024.12.15, 17:00 撮影)

 このコールドムーンが明朝、浅間山に沈むところを撮影することになるが、同じ満月を日をまたいで撮影するというのは、ちょっと不思議な気もする。

 その、12月16日朝の満月(月齢14.9)の撮影に出かけた。少し前に降った雪が残っていて、浅間山は雪化粧しており、条件は申し分なかった。しかも、この日は、日の出時刻と満月が浅間山山頂にかかる時刻もほぼ同じで、うまくいけば、山肌を覆う雪がピンク色に染まる浅間山の山頂に満月が沈むところを撮影できるかもしれないと思えた。

12月16日朝の満月/コールドムーン(2024.12.16, 6:31 撮影)

 しかし、またしても浅間山の山頂付近に雲が移動してきて、満月の姿を隠してしまった。自然相手の撮影はなかなか難しいものである。


12月16日朝の浅間満月(2024.12.16, 6:50 撮影)

 しかたなく、翌日17日(月齢15.9)に、今年最後の機会でもあり撮影に出かけてみた。雪の浅間山がピンク色に染まる時刻には、月はまだ高い位置にあり、浅間山山頂にさしかかる頃には日が昇り、周囲はすっかり明るくなった。それに、この日もまた山頂部には僅かに雲がかかり、月が山頂に接するところは隠されてしまった。


朝焼けにピンク色に染まる浅間山上空にかかる十六夜(いざよい)の月(2024.12.17, 6:50 撮影 )


浅間山山頂に近付く十六夜の月(2024.12.17, 6:54 撮影 )


浅間山山頂に接した状態の十六夜の月(2024.12.17, 6:56 撮影 )

 今年もこれで浅間満月の撮影は終わった。来年また挑戦することにしようと思う。ただ、満月だけにこだわることはやめにして、浅間山と月との様々な関係を撮影してみようと思うようになった。これは妻のアイデアなのだが。

 ところで、今年のNHKの大河ドラマで、次の和歌が話題になった。

 * この世をば 我が世とぞ思う 望月の 
     欠けたることも なしと思えば(藤原道長)

 この世は自分のためにあるようなものだと、自らの人生を足りないもののない満月(望月)に譬えたものとされるが、満月には人は特別な思いを寄せるものらしい。次のような文や歌もある。

 * 望月のくまなきを千里の外まで眺めたるよりも、暁ちかくなりて待ち出でたるが、いと心ぶかう、青みたるようにて、ふかき山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれわたる村雲がくれのほど、また哀れなり(吉田兼好/徒然草)
 * 願わくは 花の下にて 春死なむ
     そのきさらぎの 望月のころ(西行・続古今集)
 * 望の月 雨を尽くして 雲去りし(渡辺水巴)
 * 木がくれて 望のいさよふ けしきかな(阿波野青畝) 

 

 


 



 

 

 

 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

区会活動

2024-12-13 00:00:00 | 日記
 私の住んでいる区に新しく公民館(新公民館)が建設され、昨日12月12日にその落成式が、町長はじめ町の関係者、設計・建設業者、区の公民館建設準備委員会メンバーと区の執行役員が参加して行われた。

 これまでの公民館(旧公民館)の歩んできた歴史については、以前当ブログでも紹介したことがあるが(2022年4月15日公開)、はじめ病院として建設され、その後病院機能の移転に伴い、建物の公民館としての利用が始まった。1975年に、それまでの公民からの引っ越しが行われ利用が始まり、その後建物の改修工事があり現在の形になって、開館式が行われたのは1979年のことであった。以来約45年にわたり地域の活動の拠点として利用されてきた。

 先月末、新公民館への引っ越し作業を行う中で、様々な古い資料も見つかった。何しろ、元病院ということで2階建ての建物であったのでとても広い。新公民館と比べると延べ床面積では2倍以上もある。収納スペースもたくさんあり、2階部分は最近では使うこともほとんど無く、部屋にはいろんな古い資料が眠っていた。

 その中に「530運動写真集」と題したスクラップブックがあり、ここには当時の写真や新聞記事、会議・回覧資料などが貼り付けられていた。

 そのなかのひとつ、中日新聞 56.5.17日付と付記された新聞記事を見ると、次のように書かれていて、この運動が昭和55(1980)年に始まっていたことがわかる。


軽井沢町での530運動の再開を報じる中日新聞、昭和56(1981)年5月17日掲載の記事

 「530運動再開 軽井沢町
 ごみのない街づくりをめざす北佐久郡軽井沢町は、昨年から530(ごみゼロ)運動を繰り広げているが、十六日から同運動を再開した。
 この運動は同町自治会三十区が中心になって行っているが、冬の間は雪があったことから運動を中断していた。この日は町内から約千人が参加し、午前六時ごろから一時間余にわたり各区ごとに道路や河川の清掃をした。一時間余の作業で、トラック十台分のごみが集まり、町は見違えるほどきれいになった。
 同町では今後、毎月十五日に清掃を続けるが、ことしは清掃作業のほかに町民の意識高揚を図るため530運動の標語、作文の募集や写真展などを計画している。また、同町の別荘地を訪れる別荘客らに同運動への参加、協力も呼びかけていく考えだ。【写真は530(ごみゼロ)運動で朝早くから道路などを清掃する町民ら=旧軽井沢で】 」

 ところでこの530運動とは一体どのようなものだろうか。ウィキペディアで調べると次のように記されている。

 「530運動(ごみぜろうんどう)とは、5月30日(語呂合わせ)に、街中のゴミを拾い歩く運動で、1975年(昭和50年)に愛知県豊橋市が始め、全国に広がった運動とされている。(ウィキペディア)」

 これを見ると、愛知県豊橋市で1975年に始まった運動が、長野県にも伝わり、当地軽井沢町では5年後の1980年に運動が開始されている。

 豊橋市でこの運動が始まったきっかけは、観光客など来訪者が増すにつれ、空き缶などゴミの散乱が目に付くようになってきたからとされる。

 軽井沢での運動は町全体の取り組みであるが、特に旧軽井沢区では銀座通り商店街を抱えており、さらに区内には矢ケ崎川と精進場川の2つの一級河川が流れていて、こうした場所でのごみ散乱が美観だけではなく防災面でも問題視され、区民の意識も高く、運動が進められると共に、「軽井沢530ニュース」も発刊されるようになった。



昭和57(1982)年7月1日発行の「軽井沢530ニュース」

 この「軽井沢530ニュース」のトップには、当時の旧軽井沢区の小林正直区長の次のような記事が掲載されている。

 「530運動三年目を迎えて
 去る五月三十日は関東各県が中心となって、空きカン収集などいわゆる530運動が展開されました。
 当地でも県境の碓氷トンネル頂上付近と、国道十八号線の町境追分付近の清掃運動が実施されました。
 このように関東一都九県の知事会がゴミの投げ捨て防止を呼びかけるとともに、散乱しているゴミの収集運動に取組むということはやはりみんなの力で私達の環境を美しくしようとする強い心の現れであると思います。ゴミのなげ捨てを法律で厳しく取締って効果を上げている国もあるそうですが、取締られるまでもなく文明社会人のモラルとしてゴミの投げすては自らが慎まねばならないことです。ゴミを拾う身になってみるととても投げすてが出来ないものです。
 当区では三月から十一月までの間毎月十五日朝六時から一時間位、区民の全世帯が総出勤で530運動を実施しておりますが、道路等をいつもきれいにしておくと、投げすても少なくなるようです。併し心ない外来者の一部の人達は気にもとめず平気でゴミの投げすてがまだまだ続いていますが、関東一円の運動だけでなく全国的にこの運動を強く進めたいものです。・・・
 旧道の商店街道路等は夜間のおびただしいゴミの散乱が目につきますが、朝はいつもきれいに掃除されています。毎朝自分の家の前の道路だけでなく、他人の家の前まで清掃奉仕する人の数が増えつつあることは本当に頭の下がる思いがいたします。今年もいよいよ最盛期を迎える季節となりましたが、この運動を通じて、私達の大切な環境が一層美しく保たれますよう一層のご協力をお願い申し上げます。
                               旧軽井沢区長 小林正直」

 そして、全国の530運動のテーマソングだろうか次のような歌詞が作られ、曲もつけられていることがわかる。


530運動の歌詞(作詞 神村民雄、作曲 神村みゆき)

 旧軽井沢区でも独自のテーマソングをめざしたのだろうか、歌詞が作られている。この作詞者の名前は、土屋三郎となっているが、当時の旧軽井沢区の役員の中にはこの方の名前は見当たらないので、作詞の才のある方に依頼したものだろうか。 


旧軽井沢区の530運動の歌詞(作詞 土屋三郎)

 いまでは考えにくいが、当時の日本では、多かれ少なかれ各地のゴミ捨ての状況は似たようなもので、全国的にこのような清掃運動が必要な背景があったものと思われる。

 では、現在はどうかというと、当地区ではつい先ごろまで4月から11月までの毎月の15日には、朝6時30分から自宅周辺や自宅近くの幹線道路の清掃活動を推進していて、前日には区内で放送がされ、意識づけも行われていた。また、当日には530衛生部の部長が区域内を音楽を流しながら車で巡回していた。

 しかし、清掃意識が定着し、ゴミのポイ捨てはなくなり、ゴミ出しについてもルールが守られるようになってきたことから、自然消滅する形で530活動が行われなくなっていることが確認され、区会役員会でこの活動を終了することが決まった。聞くところによると、軽井沢町内でも早朝清掃活動を継続してきたのは当区だけであり、その中でも私の住んでいる班だけであったという。

 一方、530運動の一部として始まった、河床整備は続けられていて、春・秋年2回の河川と周辺の雑草の刈り取りや樹木の伐採を行っている。これは美観を守るためでもあるが、洪水防止という防災面が主目的になっている。

 ところで、昭和55(1980)年に始まり、今年まで40年以上の長きにわたり継続されてきた530運動の早朝清掃であるが、私が区会活動に参加するきっかけになったのは、この早朝清掃でご近所の方に誘われたからであった。

 それから数えて今年で6年目になる。おかげで近隣だけではなく、多くの区民の方々と行動を共にする機会が増え、知己も増えた。

 自宅周辺の清掃運動はなくなったが、やはり軽井沢は観光地であり、多くの観光客が訪れる場所の中には住民の手の届かない場所も多くある。こうしたところにも改めて目を向けて、清掃活動を行うとともに、現在も行っている河床整備など防災につながる活動は今後も継続しなければならないと、古い資料を見ながら考えるのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真展

2024-12-06 00:00:00 | 日記
 私の住んでいる地区に新しい公民館が建設され、竣工式が行われることになった。式典は町長はじめ町の関係者、建設に携わった業者の方々、そして区の側でこれまで建設準備に携わった皆さんが出席して行われる。

 最近は、竣工式で神事が行われることも少なくなっているようだが、今回はなぜか仏式で行ないたいとの区長、分館長の意向があり、区内の寺の住職にお願いすることになった。式の呼び名も落成式とし、式典の後の食事会も直会(なおらい)ではなく会食と呼ぶことになった。

 この式典の準備を進める中で、区長から記念の写真展ができないだろうかとの打診があった。新公民館にはいくつかの新しい設備や作りがあって、屋上には太陽光発電設備、オーディオシステム、WiFi設備などがあり、大小会議室の壁面と廊下、それと大広間に面した窓上部にはピクチャーレールが設けられている。

 このピクチャーレールはギャラリーとしての利用を想定したもので、子供から老人までの皆さんの作品展示ができるようになっている。

 区長の今回の提案は、ギャラリーのうちの廊下に面した4面の窓上部のピクチャーレールを利用して写真展をやってもらえないかとのことである。かねて、撮りためた雲場池の写真をどこかで発表できればいいなと考えていたことでもあり、区長からのこの写真展のお誘いには喜んでやらせていただきますと即答した。

 対象となる窓の大きさはおよそ横170cm、縦100cm ということで、A3ないしA3ノビ対応の額を、各4枚掛けることができ、合計16枚の作品を展示できる。

 窓がちょうど4カ所あるので、ここに「雲場池の四季」と題して、春夏秋冬の季節の写真を展示する方針を決めて、作品の選定を行った。手持ちの額の種類と数の制約もあるので、各窓にはA3ノビサイズの写真を2点と、A3サイズの写真を2点づつ配置することにして、A3サイズの写真の方は、画面を4分割から6分割して、一つ一つの写真は小さくなるが、できるだけ多くの写真を採用し、雲場池の様々な表情を伝えられるように考えた。

 作品展示期間は区長と相談の上、落成式当日の12月12日から来年1月31日までとなった。当ブログでは、公民館に直接おいでいただけない友人各位に、先行公開することにして、以下展示順に掲載させていただく。

 最初の「雲場池の案内板」と、最後の「雲場池を美しくし隊」メンバーの紹介は作品とは別に、廊下の反対側に掲示する。

雲場池入り口の「案内板」(2024.11.25 撮影)

 以下、「春」から始まる「雲場池の四季」の展示写真を紹介させていただく。

「春」の見出し写真と文、コブシの花が咲いているのが遠望できる

春の到来を告げるようなミソサザイの囀る様子

オオルリ、シジュウカラ、ニホンリスと北へ帰る準備に入ったキンクロハジロ(♂)

雲場池との遊歩道や、隣接して流れる精進場川沿いに咲く花

 続いて「夏」。

「夏」の見出し写真と文、池表面は珍しく鏡面になっている

子育て中のカルガモの母親と、雨宿りするヒナ

餌を巣に運ぶジョウビタキ(♂)、フシグロセンノウが好きなオナガアゲハ、空中でホバリングするホシホウジャク、ヒナを背中に乗せたカイツブリの母親

遊歩道にせり出して咲く大輪のヤマユリ、珍しいギンリョウソウ、ツリフネソウに吸蜜に来たハナアブ、秋の気配を感じさせるホタルブクロ

 次は「秋」。

「秋」の見出し写真と文、紅葉のピーク時の写真

ニホンリス

周辺の紅葉で池は燃えるような赤色になりその中を水鳥たちが泳ぐ。カケスはどんぐりを丸呑みにする。

池の周囲も別荘地の庭も紅葉で美しく彩られる、タマゴタケが顔を出し、ツルニンジンの仲間(バアソブ)の花も見られる。

 最後は「冬」。

「冬」の見出し写真と文、写真は珍しい氷穴が出現した時のもの

イワナを捕えたダイサギ

珍しい雨氷とその上に降り積もった雪、高い木から雪が落ちる。よく見かけるカイツブリに混じり、時にはハシビロガモ、ヨシガモが姿を見せる。

アトリの大群、イチイの実をついばむエナガ、ダイサギ、ヒガラ。

  以上、数としては雲場池の四季を伝えるには十分とは言えないと思うが、プリント枚数はA3ノビサイズ8枚、A3サイズ8枚の計16枚、写真数は45点となった。「春」の部の展示状況は次の様である。
 

新公民館のギャラリーコーナでの展示状況(2024.12.5 撮影)

 最後に、雲場池の美化・清掃活動を行っているボランティアグループ「雲場池を美しくし隊」のメンバーを紹介する。


「雲場池を美しくし隊」のメンバー(2024.10.30 撮影)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする