軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

いつの日か、ふたりは恋人

2025-02-28 00:00:00 | 日記
 昨年12月中旬に、Tさんの秘書Aさんからメールが届いた。新年になったら軽井沢の書店でTさんの初の小説「いつの日か、ふたりは恋人」の出版を記念してトークショウを開く予定だという。その案内である。

 早速、出席の旨返事を書いた。その後、トークショウが終ってから、近くのホテルで食事会を行うとの案内が追加されてきたので、こちらにも出席の返信を送った。

 ところが、私は新年早々風邪をひいてしまい、咳が止まらず、そのうち熱も出てきたので、安静にしている日が続いた。何とか書店でのトークショウと食事会に参加して、この小説の出版のお祝いをしたかったし、Tさんのこの小説についての想いを改めて聞きたかったので、それまでに風邪を治しておきたいと思っていたのであった。

 でも、熱はなかなか下がらず、咳もおさまる様子がなく、結局どちらのイベントも断らざるを得なくなってしまった。

 この小説の内容については、かねてTさんから繰り返し聞いていたし、すでにポケット・ブック版としてTさんの経営(多分)する出版社から出された本をいただいて読んでいた。

 ただ、Tさんはこの本を大手出版社から世に送り出したいと考えていたので、そのために、内容にもボリュームにも手を加えなければならないと考えているようであった。

 トークショウに行けなかったので、後日書店に行き、カフェコーナーの入り口脇の書棚の上に積まれているこの本を買って帰り、読んでみると、やはり内容は大幅に書き換えられていた。著者名も、以前はペンネームであったが、今回の本にはTさんの本名が使われていた。

 また、ハードカバーになって出版されたこの本のカバー表紙の絵も本文中にちりばめられた大小20枚の挿絵も素敵で、帯には山極壽一(第26代京都大学総長)氏の推薦の言葉が記されていた。

 帯には次のように書かれていて、これを読むと本の内容がだいたい分かるのではと思う。

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 唯一無二の恋愛小説
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 恋愛とは個人的な事柄である。でもこの本には耳を傾けたくなる愛の物語がある。一時代昔の愛と社会の掟との葛藤、そして生きる力、命の本当の意味へと突き抜ける宇宙の真実。山極壽一(第26代京都大学総長)
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 パンスペルミア説(宇宙汎種説)を生命存在の前提として語りかける、唯一無二の恋愛小説。
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 本書は、3章が重なり合うように構成された恋愛小説である。各章は春から夏、秋から冬と変遷する。第1章は「この世」の話。高校1年生の初恋から学生結婚そして大学卒業直前の離別までを主人公が語る。第2章は既に他界した恋人が大1章を読み、「あの世」から主人公に自分の心を語る手紙。第3章は「仮の世」のブータンでの再会。恋人は小鳥となり「あの世」から「この世」を仮訪問する。
 ふたりは、ブータンの友人と人間哲学と宇宙を語り、酔生夢死を過ごす。
 *******

今回出版された本(左:2024年11月30日発行)と、以前ポケット版で出版された本(右:2021年7月7日第二版発行) 

 本文中と表紙(カバー表紙も)の挿絵は、三浦 慎氏による。氏は、建築家であり、2021年、軽井沢町庁舎改築周辺整備事業プロポーザルで最優秀提案者(庁舎、複合施設計画・株式会社山下設計と協働)に選ばれている。

 著者の所源亮氏については、この本の「著者紹介」に次のように詳しい自己紹介があるので、これを引用させていただく。

 「所 源亮(ところ げんすけ)
東京都大田区大森で農林省官僚所秀雄と、大正、昭和を風靡した雑誌『令女界』と『若草』を世に出した藤村耕一の長女所やなぎの子として1949年2月22日に生まれる。父が在アメリカ合衆国日本国大使館に赴任したのに伴い、小学校3年からワシントンD.C.(アイゼンハワー政権とケネディー政権)に移り中学校1年まで暮らす。1972年一橋大学経済学部卒業。
1972年イースタンハイブレッド入社。1976年パイオニア・ハイブレッド・インターナショナル社のアジア担当としてフィリピン、タイ、インド子会社の代表取締役を務める。1980年から米パイオニア・ハイブレッド・インターナショナル社(現デュポン・パイオニア社)国際部営業本部長兼パイオニア・オーバーシーズ・コーポレーション取締役として市場開発(50ヶ国以上)及び海外戦略を考案実施。
1982年に帰国し、ソフトウエア会社などを設立したのち、1986年6社を合併しゲン・コーポレーションを設立し代表取締役社長に就任。1994年日本バイオロジカルズ社を設立し、代表取締役社長に就任。2009年に同社を日本全薬工業に売却。2001年創薬バイオベンチャーを設立し代表取締役社長に就任した。そのコンセプトに、「日本発のものを世界に」というメッセージを込めた。
2008年から2013年まで一橋大学イノベーション研究センター特任教授。2014年東京大学名誉教授の松井孝典、英カーディフ大学名誉教授チャンドラ・ウィックラマシンゲ博士とともに一般社団法人ISPA(宇宙生命・宇宙経済研究所)設立。サー・フレッド・ホイル博士が提唱したパンスペルミア説の研究を支援。
医薬開発技術ライセンス企業のGCAT株式会社代表取締役会長、ルフナ大学(スリランカ)客員教授、インドS.M.Sehgal財団理事、一般社団法人ISPA理事、前・西町インターナショナルスクール理事。」

 Tさんの本名が明かされたので、以下では所さんとして紹介させていただくことにして、この自己紹介には出てこないが、所さんは2021年に、軽井沢の旧軽井沢地区に喫茶コーナーを併設した書店「やなぎ書房」を開いた。これまでの経歴からすると、何故と思う行動である。この書店には、岩波文庫すべてと所さんが関心を持つ分野の書籍が集められ、販売されていた。

 この書店のことを知ったのは、ある出来事がきっかけで、それは、軽井沢にあった川端康成氏の別荘の解体であった。

 軽井沢文化遺産保存会のH女史から川端康成別荘が解体されそうなので、保存を求める請願書を町議会に提出したいとの相談が寄せられた。当時私は川端康成別荘のある地区の区会役員であったので、このことを区長に伝え、この請願書に区としても名前を連ねていただけないか相談したのであった。

 請願書は、軽井沢文化遺産保存会、軽井沢ナショナルトラスト、軽井沢別荘団体連合会、軽井沢女性会、軽井沢近代史研究会、そして旧軽井沢区の6団体の連名で軽井沢町議会議長宛、2021年8月6日に提出された。

 事態が差し迫っていることもあり、当時の藤巻町長が自ら不動産業者に電話をかけて、保存の可能性について打診をしているが、結果的には交渉は成立することなく、解体が進んでいった。

 ところが、この時同時に所さんがこの不動産業者と話を進めていた。所さんは不動産業者に解体を断念させるのではなく、解体部材の引き取りを交渉していた。そして相応の費用を支払うことで、将来部分的にでも川端康成別荘を再現できるように慎重に解体を進め、ほとんどの部材を引き取ることに成功していた。

 その噂を間接的に聞き知ったH女史とその知人のS女史の依頼で、やなぎ書房を訪ねたのが、所さんとの最初の出会いであった。S女史はこの時、近くオープンするサロン的なギャラリーを建築中で、その一部の窓枠に川端別荘の解体部材を再利用して用いたいと考えていて、様子を見てきてほしいと私が依頼されたのであった。

 書店に所さんを訪問すると、数名の女性店員と所さんがいて、喫茶コーナーでコーヒーをごちそうになりながら話を聞くことができた。川端別荘の解体部材は確かに確保されていて、軽井沢の氏の所有地に保管されていること、川端別荘からはそのほかに、現在までこの別荘を利用していた川端康成氏のご子息が保有していたロシア関係の蔵書なども引き取ったという話を伺った。これらの書籍はやなぎ書房の別室に置かれていたので、見せていただけた。

 この解体部材については、軽井沢文化遺産保存会との協議で、軽井沢町内に川端別荘の一部を再現する計画が持ち上がり、いくつかのプランが検討されたものの、現在までのところまだ実現には至っていない。その詳細は、軽井沢文化遺産保存会発行の「軽井沢の文化遺産&資料集 2」に報告がある。

 その後、所さんから「軽井沢の夜話」を開催するので、聞きに来ませんかとのお誘いを受け、都合4回ほど参加することになった。第1回目は当時千葉工業大学長で、東京大学名誉教授の松井孝典氏の講演「宇宙から俯瞰する人類1万年の文明、ウイルスはどこから来たのか」という興味深い題であった(2021.10.22 公開当ブログ参照)。

 第2回目以降も宗教の話、経済の話と続き、今回の小説「いつの日か、二人は恋人」の第3章と、注釈の内容につながる話題が計画的に提供されていった。

 ワインや食事を楽しみながらの楽しい「軽井沢の夜話」で、こうした場でも、主題の話の合間に、所さんの経験談が織り込まれ、そのなかには若き日の思い出が語られることも多かった。
 その後何回か所さんと会う機会のある度に小説「いつの日か、二人は恋人」の話題も出て。この小説には若き日の所さんの実際の経験が語られていることを知った。 

 小説「いつの日か、二人は恋人」に話を戻すと、第1章では所さんの若き日の体験が生々しく語られているのだと思う。第2章は、既に他界した恋人が「あの世」から主人公に書いた手紙という構成なので、これはフィクションの世界。第3章は、所さんの哲学が語られている。

 壮大な宇宙哲学の中に織り込まれた若き日の苦い思い出とともに、この世に私たちが生きる意味を考えさせられる稀有な小説ができあがった。 



  
 
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アサマシジミ考

2025-02-21 00:00:00 | 
 当地に移住してきた頃、蝶類の図鑑で名前に「アサマ」がついているチョウは?と調べてみると、「アサマイチモンジ」、「アサマシジミ」、「アサマモンキ」が見つかった。

 しばらくして、アサマイチモンジは庭にやって来ることが分かった。アサマモンキの方は、浅間山に多く見られるのでこのように呼ばれるが、北アルプスに産するアルプスモンキと共に、ミヤマモンキチョウとして分類されるもので、浅間山系の高山帯に行くと見ることができることが分かった。

 一方、アサマシジミは、以前は信濃追分駅周辺にふつうにみられたとの記録があるものの、今では町内で見つけることが難しく、発生の季節になると周辺地域まで足を伸ばしてみるが未だに見ることができないでいる。

 上田市西方の小県郡青木村には「信州昆虫資料館」があり、時々訪問しては収蔵されているこれらのチョウの標本を見せていただいているが、この資料館で、「信州浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小川原辰雄著 2014年信州昆虫資料館発行)を買い求めたことがあった。このカバーには表面と裏面の両方にアサマシジミの姿が見られる。東信地区のチョウ愛好家がアサマシジミに寄せる思いが伝わってくる。

「信州浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小川原辰雄著 2014年信州昆虫資料館発行)のカバー表紙

 次の図は、御代田町にある浅間縄文ミュージアムのパンフレットであるが、アサマシジミが浅間山の貴重な自然の代表として登場している。

浅間縄文ミュージアム(御代田町)のパンフレットから

 アサマシジミとよく似た種にヒメシジミとミヤマシジミがいるが、ヒメシジミは町内でも見かけることがある。農道沿いの僅かな狭い場所であるが、クサフジが生えていて、安定して繁殖しているらしく、ここに行くと毎年ヒメシジミに会うことができる。

ヒメシジミ♀(2024.7.3 撮影)

ヒメシジミ♂(2024.7.3 撮影)

ヒメシジミ ペア(左♂、右♀ 2024.7.3 撮影)

ヒメシジミ(上♀、下2頭♂ 2024.7.3 撮影)

 アサマシジミの幼虫の食草はナンテンハギやクサフジなどのマメ科の植物である。我が家の狭い庭に、そのナンテンハギも植えてみたものの、もちろんそんな孤立した点のような場所に成虫が産卵にやって来るわけもない。

 あまりなじみのないナンテンハギであるが、目が慣れてくると、葉のつき方に特徴があり区別がつくし、特に花の咲いている時などは自宅近くの空き地などを見て回ると、結構生えていることが分かる。

 以前、かなり広い空き地の道路沿いに、このナンテンハギの小群落ともいえるものを見つけて、嬉しく思っていたのであったが、その土地にはあっという間に大型マンションが建設され、今では道路沿いのこの土地も整備され、野草類はすっかり姿を消した。

 こうしたことが、浅間山麓のあちらこちらで起きてきた結果だと思うが、アサマシジミの生育地が消えていったのであろう。

 浅間山系に接する御代田町では、早くも1974年3月30日にアサマシジミを天然記念物に指定している。長野県は希少動植物条令で、2021年からアサマシジミの採集を禁じた。
 
 また、小諸市糠地郷の「蝶の里山会」ではチョウの保護活動や啓蒙活動を行っているが、その願いが叶って、2024年1月にはアサマシジミが小諸市の自然環境保護条例指定種になった。


小諸新聞2021.9.17号を伝える「アサギ郷・蝶の里山」のブログ(2021.9.27)
 
 小諸市在住の昆虫写真家・海野和男氏は、自身のブログで次のように書いてこのことを紹介している。

 「アサマシジミが小諸市の自然環境保護条例指定種になりました
          2024年01月17日

 アサマシジミは長野県では2021年から採集禁止になっているが、小諸市ではいまだに採集圧もあり、また発生地そのものが破壊されてきました。
 本日、自然環境保護条例指定種にすることが承認されたと、先ほど市から電話がありました。それでアサマシジミが生き残れるかどうかはわかりませんが、1歩前進です。市は保護地区を指定することができますが、その土地の所有者、占有者の同意を得なければならないので、そのあたりがネックですが、地区を指定した場合は、建築、造成、伐採などに事前許可が必要になると言うことで、実際に地区が指定されれば、アサマシジミの保護に役立つと思います。ぼくの知っているアサマシジミのいるところは道路脇で、ここ何年か伐採、草刈りなどの影響を受けています。早期に指定地区の設定が行われると良いのですが・・・」

 ところで、このアサマシジミについては、いくつか興味深いことがある。まず、いつもの「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)の記述を見ると次のようである。
 
 「Lycaeides subsolana yagina STRAND 1922
 あさましじみ:こしじみ;しろうましじみ(地方型)
 本種も前2種(シジミチョウ〈当時はヒメシジミは別名であった〉とミヤマシジミのこと)と類似の蝶で、種の判別はやや困難であるが、次の諸点において区別される。① 前2種にくらべ形は最も大きく、② 雄の翅色は暗青色でやや紫がかっている。③ 前翅第2室裏面の黒紋は『ミヤマシジミ』と同様に横長く(『シジミチョウ』では円形)、④ 後翅裏面外縁の色紋は、『ミヤマシジミ』は朱色、本種は『シジミチョウ』と同じく略黄色である。⑤ 全翅裏面の黒紋は一般に他種より大きくあざやかである。本種の分布はきわめて狭く、関東の低山地にまれに産し、中部山地帯のみ多産地として、浅間・蓼科・八ヶ岳などは特に饒産することによって著名である。北海道・四国・九州には全く産せず、中部にても西部にはまれとなり近畿・中国にても未知の種に属する。発生は年1回、6月末から7月に多く幼虫はマメ科の植物を食す。
 種名は『東方の』意、亜種名yaginaは八木誠政氏の姓に因む。
 従来その正体の明らかでなかった『しろうましじみ』は本種と同一種であることが最近明らかにされた。」

 ここにあるように、この当時は北海道には棲息しないとされていた。

 そして、続く2つの項には「ヤリガタケシジミ」と「イシダシジミ」が記載されていて、当時この2種は「アサマシジミ」とは別種として扱われていたことがわかる。

 「Lycaeides yarigadakeana MATSUMURA 1929
 やりがだけしじみ:(原型)
 本種の知られる棲息地域はきわめて狭く、上高地梓川畔と徳沢牧場付近で、多数の『しじみちょう』と混飛し(この付近には『あさましじみ』『みやましじみ』は発生しない)草原の上をゆるやかに飛翔し花に訪れる。
 本種は、①『しじみちょう』『みやましじみ』よりやや大形で、『あさましじみ』より少し小型である。②雄の翅色は明るい空色で『あさましじみ』の様に暗青色でない。③翅脈は細く黒色で、④裏面も灰白色で『あさましじみ』のように暗色を帯びない。発生は年1回、7月中旬から8月なかばに採集され、生活史はいまだ明らかでないが幼虫の食草はタイツリオウギと推定される。」

 「Lycaeides subsolana iburiensis MATSUMURA 1929
 いしだしじみ:(地方型)
 Lycaeides 属のものとして現在5種が知られるがいずれも類似したもので、この繁雑な同定は全種の標本による比較を必要とし、その判別ははなはだ困難なものがある。本種は北海道の札幌・定山渓・十勝・釧路・北見などに知られ、多くは『しじみちょう(ヒメシジミのこと)』と共に草原に見出され稀種に属する。
 ①雄の翅色は前種(やりがだけしじみのこと)より更に明るいルリ色で、②外縁の黒帯は前種より更に細く淡色、後翅ではほとんど帯状をなさず、各室で1個の黒紋となる。③『裏面』は前種より明るくほとんど白色、④後翅の基部は青く黒紋は小さい、⑤前翅裏面の紋列はきわめてまばら、⑥裏面に現われる橙色紋はいずれも淡く不鮮明である。発生は年1回、6~7月に出現する。」

 現在は、「日本産蝶類標準図鑑」(2011年 学研教育出版発行)を見ると、アサマシジミの別名として、ヤリガタケシジミ、ミョウコウシジミ、トガクシシジミ、イシダシジミが挙げられていて、次の説明がある。

 「変異
 本種は産地によってかなり顕著な地理的な差異が認められるが、その産地が連続的な本州中部の場合には移行型を産する地域があり、これを厳密に亜種として区別することができるかどうかについては疑問があるが、現在便宜的に次の3亜種が認められている。
 1)イブリシジミ(イシダシジミ) 北海道に産する
 2)ヤリガタケシジミ 飛騨山脈上高地付近より後立山連峰、妙高・戸隠周辺、白山周辺に産する。
 3)アサマシジミ(狭義) 群馬、埼玉(西部)、東京(西部)、神奈川、山梨、長野(上記ヤリガタケシジミの分布圏をのぞく)、静岡(東部)に分布。」

 これら亜種を含むアサマシジミについては、生息域が狭く限られていることや、近年急速にその生育場所が失われていることから、主な生息地である長野県の他でも生息状態の調査や生息場所の保全に向けた取り組みが行われている。

 主な生息地の一つ群馬県では、「群馬県におけるアサマシジミの分布変遷と保全」(松村行栄・高橋克之 群馬県立自然史博物館研究報告(13):149-152, 2009)と題する報告が出されている。

 ここでは、文献調査と現地調査が行われ、文献調査ではチラシ配布による情報募集も行われた。現地調査は吾妻郡高山村、藤岡市上日野で実施された。

 その結果は次のようである。

 「1949年以前、群馬県の22市町村にアサマシジミが分布していたと思われる。1950-1959年には18市町村に生息していた。しかし、2005-2008年は6市町村でしか確認できず、これは分布地域の73%の減少率にあたる。1950-1959年を基準にしても67%の減少となる。・・・
 現地調査の結果、アサマシジミの生息環境であった草原の減少が確認された。現在、残された草原環境は林道脇の草の刈取りが定期的に行われている場所だけになっている。」

 もう一つのアサマシジミの生息地である北海道では生息環境の保全方法についての研究が行われ、次の報告が出された。

 「草原性絶滅危惧チョウ類と生息環境の保全方法を解明ーアサマシジミ北海道亜種の生活史を踏まえた草刈りの有効性を実証ー」(速水将人・中濱直之・大脇 淳・木下豪太・内田葉子・小山信芳・喜田和孝、道総研プレスリリース、令和6年3月26日)

 「結果:アサマシジミ幼虫は、草刈り区にのみ出現し、草刈りなし区では本種のエサとなる植物のナンテンハギがあっても出現しませんでした。また、アサマシジミの成虫とナンテンハギの花数は草刈り区で2年連続多くなりました。調査地点に出現したチョウ全個体数は、草刈り区で多くなり、チョウの全種数・開花植物の全種数・全花数については、草刈りによるマイナスの効果はいずれも認められませんでした。・・・」

 今後、他地域でも生息環境の保全が進み、アサマシジミの減少が食い止められ、願わくば当地域でも普通にアサマシジミが見られるようになってもらいたいものと切に願う。

 これまでのところ、私はアサマシジミを野外で直接観察・撮影する機会はないが、古い標本の写真撮影をする機会を得た。産地は群馬県、山梨県、長野県、新潟県と各県にまたがっている。次のようである。

アサマシジミ♂ 群馬県子持山 1982.6.10 

アサマシジミ♀ 群馬県薬師温泉 1984.6.20 

アサマシジミ♂ 山梨県塩山 2003.6.28 

 
アサマシジミ♀ 山梨県御坂町 1999.6.26 

アサマシジミ♂ 長野県小谷 1964.6.8 

アサマシジミ♂ 新潟県妙高高原 1980.6.19

アサマシジミ♂ 長野県霧ヶ峰 2005.7.16 


アサマシジミ 左♂(群馬県子持山 1982.6.10 )、右♀(群馬県薬師温泉 1984.6.18 ) 

アサマシジミ♂ 上:長野県霧ヶ峰 2005.7.16 、中:長野県霧ヶ峰 2005.7.16 、下:群馬県子持山 1982.6.10 
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量子もつれ(2)

2025-02-14 00:00:00 | 日記
 「量子もつれ」という、とても不可思議で難解な話題についてのTV放送(2024.12.28, NHK)を見て、その中で紹介された科学者デヴィッド・ボームという名前に覚えがあったことから、学生時代に勉強した量子力学の本のことを思い出して、少し前に記事を書いた(2025.1.24 公開)。

 TV放送では、量子もつれが実在することを、実験的に証明した3人に、2022年のノーベル物理学賞が授与されたことを軸に話が進められた。

 この放送で伝えられたもう一つの話題は、この量子もつれの存在が明らかにされたことで、直ちに始まったその応用についてであった。具体的には、量子暗号技術、量子コンピューターの開発と量子テレポーテーションである。これもまたとても難解な話である。

 量子もつれを利用するためには、もつれ状態にある光子や電子などの量子を作り出さなければならないが、ノーベル賞を受賞した3人の科学者は一体どのような実験を行ったのだろうか。番組では彼らの実験内容の詳細までは紹介していない。

 それを知りたくて、「宇宙は『もつれ』でできている」(ルイーザ・ギルダー著、山田克哉監訳・窪田恭子訳 2016年 講談社発行)を購入して読んでみた。

「宇宙は『もつれ』でできている」のカバー表紙

 この本には、先のTV番組で紹介された量子もつれについての理論と実験研究の歴史がより詳しく描き出されている。監訳者は前書きで、この本のことを次のように紹介している。

 「本書の最大の魅力は、数式をまったく使うことなく、量子力学の構築に携わった物理学者たちがどんな考えやきっかけからどのような着想を得て、そしてどんな議論を通じてこの理論を精緻化していったかを、個々の人物のエピソードをふんだんに交えつつ、巧みに描写している点にある。・・・
 ルイーザ・ギルダーは、2000年にアメリカの名門・ダートマス大学を卒業した若い科学ジャーナリストだが、描写が実に巧妙で、往時の物理学者たちの会話を見事に再現している。存命の科学者たちへのインタビューも含め、20世紀初頭からの約1世紀におよぶ量子力学構築の物語を、まるで現場に居合わせているかのような迫力で体感させてくれる。・・・
 量子力学の理論としての正当性に難問を投げかけ、やがてその正当性を明確に示すことにつながった『量子もつれ』(Quantum Entanglement)。その奇妙でふしぎな現象は、アインシュタインやボーアをはじめとするあまたの物理学者たちの頭を悩ませ、時に人間関係をももつれさせながら、量子論の精緻化に貢献してきた。ギルダーが見事に解きほぐす『もつれの物語』を、ぜひ堪能していただきたい。」

 最初に量子もつれの実験を行ったジョン・クラウザーとスチュアート・フリードマンについて、ルイーザ・ギルダーは次のように書いている。

 「クラウザーは問題の核心から話し始める。『原子ビーム、これはかっこいい名前がついているが、実際にはごく単純なものだ。・・・
 もっとも簡単なのが、タンタル箔を用いた実験だ。タンタル箔を半分に折ってしわをつけたまま開き、そこに何か小さな粒をのせてガラス鍾(真空状態)に入れる。ガラス鍾に電流を流すと、タンタル箔は高温になる。銅、アルミニウム、カルシウムなどの融点の低い物質を入れてしばらくすると、すべて蒸発してチャンバーの壁じゅうに広がっているのが見える。穴の開いたシートを[オーブンの開け口の前に]置き、もう1枚穴の開いたシートを[最初のシートの前に]置けば、原子ビームのでき上がりだ!』
 チャンバー内の気体は、四方の壁に拡散せずに狭まってビームとなる。『簡単なつくりさ』 」

 これは真空中で金属を蒸発させる一般的な話だが、次は実際の測定装置での手順である。

  「クラウザーとフリーマンは、カルシウムを約14gの『小さな円筒状の塊』に切って、手を触れずにオーブン内に落とす。円筒形の真鍮製真空チャンバーに密閉されると、3時間から5時間でカルシウムは蒸発点まで加熱される。
 熱されたオーブンの穴から、カルシウム原子が・・・ビームとなって出てくると、装置の中心に向かってまっすぐ飛んでいく。ここで、二つめの円筒形真鍮製真空チャンバーの底面にはレンズが取り付けられており、そのレンズを通過した光線が、飛んでくる原子ビームを待ち受けている。こうして原子の一つ一つが励起され、薄緑色と紫色のもつれた光子を放出するのである。」

 もつれた光子がどのように発生し、どのようにして装置の中を反対方向に進むように調整できるのかまでは説明されていないが、波長の異なる光は、左右反対方向に進む。その光路にはブリュースター角に調整された多数のガラス板からなる偏光子が設置されていて、光電管に導かれる(次図参照)。


クラウザーの実験装置の内部(「宇宙は『もつれ』でできている」から、筆者作図)
 
 思いのほか私にも身近な部品や装置が用いられていた。真空装置の中に低融点金属を入れて、加熱することでガラス基板などに蒸着薄膜を形成する技術は、ごく普通に行われていて、入社後配属された研究所では、日常的に蒸着装置を使用していた。偏光板に至っては、勤務先の企業で製造していた。これらの偏光板は液晶素子やサングラスに用いられてきたし、今では液晶TVで大量に用いられている。

 クラウザー達の実験装置では偏光性能を向上させるために、有機フィルムの偏光板に換えて、ブリュースター角(約56度)に配置した多数のガラス板を重ねたものを使用した。

 装置の心臓部について見ると、真空中で加熱され、蒸気になって原子ビームとなったカルシウム原子に強い励起光を照射すると、カルシウム原子からもつれ状態になった薄緑色と紫色の光が放出される。実験装置は、この2色の光を左右に導き、ガラス偏光板を通して光電管に導く設計になっている。

 このようにして、カルシウム原子から発生した光子が、左右の光電管に向かった時、検出される光子の状態と頻度がベルの不等式を満たすかどうかの実験が行われた。結果はもちろんベルの不等式は成立せず、左右に分かれた後も、光子はもつれた状態を保っていたことが強く示唆される。

 ただ、この実験方法については一部の不備が指摘され、量子もつれの存在がより広く認められたのは、アラン・アスペの実験結果が得られてからのことであった。

 「(実験の現実的な問題点は)クラウザーらの実験装置の両端に取り付けられた、巨大で壊れやすいパイル型偏光子の設定を迅速に変更できない点にあった。アスペは美しい代替案を考えついた。その主な成分は水であった。・・・
 アスペは説明した。『それぞれの偏光子には、スイッチのついた設定装置に向きの異なる二つの偏光子を取り付けたものを使います。いつでもスイッチを切り替えて、一方の偏光子だけに光を通すことができます。スイッチは素早く入射光を切り替えるため、光速信号が装置の両端にいかなる〈相互的な関係〉も生じさせる時間を与えないのです。』・・・
 アスペの『スイッチ』は、水を満たしたガラス箱でできている。二つのスイッチは13m以上離れていて、光子の発生源となるカルシウムカスケードのビームの両側につけられている。水の入った箱は、人間の耳がとらえるよりもはるかに高域の音波(超音波)を伝える。・・・
 アスペの超音波は、水面に濃淡の縞模様をつける高振動と、水面を揺らさない平らな低振動を繰り返すよう設定してある。縞模様は回折格子として作用し、光を屈折させて脇にある偏光子に送る。縞模様がなければ光はまっすぐ透過して正面の偏光子に当たる。波は縞模様と平面の循環を素早く繰り返し・・・これは、光速信号が、二つのスイッチを隔てる13mの距離を進む間にスイッチを4回切り替えられることを意味する。・・・」

 こうして、量子もつれの存在が確認されると、さっそくその応用が考えられるようになり、TV番組でも紹介されたように、量子コンピュータの開発へとつながっていった。

 さらに、番組では紹介されなかったが、量子もつれなどの量子現象と生命とのかかわりについての研究も進んでいった。

 量子力学における波動関数を見出すとともに、量子もつれの命名者でもあった、シュレーディンガーは「生命とは何か」(1944年発行)の著者としても知られる。


「生命とは何か」のカバー表紙

 この著書で、シュレーディンガーは生命現象と量子力学との関係についても触れているのであるが、当時はまだDNAも発見されておらず、ましてや量子力学でなければ理解されないような生命現象というものもまだ認識されていなかった。

 ところが、近年になって生物の示す様々な行動の中には量子力学でなければ説明のつかないものがいくつも見いだされるようになっているとされる。

 著書「量子力学で生命の謎を解く」(ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・アクファデン著、水谷 淳訳 2015年 SBクリエイティブ発行)にはそうした研究成果がいくつか紹介されている。

「量子力学で生命の謎を解く」のカバー表紙

 このことは、以前アサギマダラの1000㎞以上におよぶ海を越えての渡りのことを書いた際に少し触れたことがあったが(2017.1.20 公開)、その時はまだ「量子もつれ」について何も知らなかったので、それ以上考えることもなかった。

 今回、以前よりも量子もつれに対する理解が深まってきたので、改めてこの本の示している内容について読んでみた。

 この著書のカバーには次のように書かれている。

 「量子力学はふつうだ。不気味なのは、量子力学が記述しているこの世界のほうなのだ。
 量子力学を使って生命現象の謎を解き明かす『量子生物学』は、現在、急速なスピードで発展し、大きな盛り上がりを見せています。量子生物学によって、これまでの生物学では解けなかった様々な謎が解明されてきています。・・・
 量子生物学が解明した謎と、大いなる仮説
 ●渡り鳥は、どのようにして目的地までの生き方を知るのか
 ●サケは、なぜ数年間の航海を経て、生まれた場所に戻ることができるのか
 ●植物は量子コンピュータなのか
 ●生物と非生物の違いはどこにあるのか
 ●われわれの意識はどのようにして生まれるのか
 ●生命の起源は何か 」

 生物の示す不思議な能力と、量子力学的でなければ説明できないそのメカニズムについて、この著書では上記の6例が示されているが、その中でもヨーロッパコマドリが示す、磁気受容能力は「量子もつれ」との関係が認められているという。

 最近の報告例においても、「1.量子生命科学とは」(須原 哲也、日本生物学的精神医学会誌 35巻 第3号、2024)に、次の記述が見られる。

 「量子生命科学は新しい計測技術の開発と共に、生命の中の量子性を探ることをめざした領域として、2017年には幅広い領域の研究者を集めた量子生命科学研究会の形で発足した。・・・
 量子論的生命現象の解明は、現状で量子論的説明が提案されているのは渡り鳥の磁気コンパスで、・・・
 鳥の網膜にあるクリプトクロムタンパクが光を吸収してラジカル対を形成し、このラジカル対に生じる量子効果によって磁場を感知しているというものである。・・・」

 ここで言われている量子効果とは量子もつれのことであることが、「量子力学で生命の謎を解く」で示されている。この著書から一部を引用すると次のようである。

 「頭を左右に素早く傾けて海の方が晴れていることを確かめた鳥(ヨーロッパコマドリ)は、夜の空へ向かって飛び立つ。冬の深まりとともに夜が長くなったため、優に10時間は飛び続けないと休憩できない。
 鳥は195度の方位(真南から西へ15度)に進路を取る。これから何日もほぼ同じ方向へ飛び、天候の良い日には300キロは移動する。・・・
 この鳥は気づいていないようだが、辺りにはほぼ同じ方向へ飛んでいるコマドリがたくさんいて、そのなかにはすでに何度も旅しているものもいる。コマドリは優れた暗視能力を持っているが、・・・地上の目印は見ていないし、夜に渡りをするほかの多くの鳥とは違って、晴れた夜空の星の並びを頭の中の星図と照らし合わせるのでもない。かなり驚くべき技術と数百万年にわたる進化のおかげで、毎年秋に3000キロほどの渡りをする能力を身につけているのだ。
 もちろん動物界では渡りはふつうにおこなわれている。たとえばサケは毎年冬、北ヨーロッパの川や湖で卵を産み、孵った幼魚は川を下り海へ出て北大西洋へ向かい、そこで成長する。三年経つと若いサケは、自分が産み落とされたのと同じ川や湖へ戻って卵を産む。アメリカ大陸に棲むオオカバマダラというチョウは、秋に合衆国を横切って南へ何千キロも渡る。チョウたち、あるいはその子たち(旅の途中で卵を産む)は、春になると北へ向かい、自分がさなぎになったのと同じ木へ戻ってくる。・・・
 動物がどのようにして遠い場所までの行き方知ることができるかは、何百年ものあいだ謎だった。だが今では、さまざまな方法を使っていることが分かっている。日中は太陽を、夜は星を使うものもいるし、地上の目印を覚えているものもいるし、方角を嗅ぎ取ることができるものさえいる。しかしなかでももっとも謎めいているのは、ヨーロッパコマドリが持っている、地磁気の方向と強さを感知できる知覚で、この能力は磁気受容と呼ばれている。ほかにも多くの生物がこの能力を持っていることがいまでは分かっているが、一番興味を惹かれるのは、ヨーロッパコマドリが行き先を知る方法である。・・・
 磁気受容は不可解な能力だ。問題は地磁気が極めて弱いこと。地上では30から70マイクロテスラ、うまくバランスを取った摩擦の小さいコンパスの針を動かすには十分だが、普通の磁石に比べたらその磁力は100分の1ほどしかない。そこからある難問が浮かび上がってくる。動物が地磁気を感知するには、体内のどこかで起きる化学反応がそれに影響を受けなければならない。・・・しかし、細胞の中の分子と地磁気との相互作用によってもたらされるエネルギーの量は、化学結合を切ったり作ったりするのに必要なエネルギーの10億分の1にも満たない。だとしたら、コマドリはどうやって磁場を感知できるのだろうか?・・・動物がそんなことをできるような分子レベルのメカニズムは、少なくとも従来の生化学の範囲にはけっして存在しないように思われていたのだ。

 しかし、・・・フランクフルトで活動するドイツ人鳥類学者の夫妻ヴォルフガング・ヴィルチュコとロスヴィサ・ヴィルチュコが、・・・コマドリは確かに地磁気を感知していることを疑いようもなく実証する画期的な論文を発表した(Science, vol.193, 1976年)。さらに、驚くことに、・・・コマドリは磁極と赤道の違いしか見分けられないのだ。ヴィルチュコ夫妻の1976年の研究によって、コマドリの磁気感覚はちょうど伏角(地球の磁力線と地面が作る角度のこと)コンパスのように作用していることが明らかになった。問題は、その生物的な伏角コンパスがどのようなしくみなのか、その手掛かりがまったくないことだった。当時、動物の体内で地磁気の伏角を感知できることを説明するメカニズムなど、知られていないばかりか想像さえできなかった。じつはその答えは・・・量子力学という奇妙な科学と関係があったのだ。」

 クラウザーが量子もつれの実験結果を論文にして発表したのは1967年であった。続いて、アスペが実験方法に改良を加えて、より正確に量子もつれの存在を確認して、論文を発表したのが1982年である。

 ヴォルフガング夫妻の発見を受けて、ヨーロッパコマドリの持つ磁気受容能力と量子力学が示す量子もつれとを関連付けて提唱したのは、ドイツ人化学者のクラウス・シュルテンであった。これは、アスペの実験の数年前のことであった。

 「彼は遊離基(フリーラジカル)が関与する化学反応で電子はどのように移動するのかという問題に興味を持っていた。遊離基とは一番外側の電子殻にひとりぼっちの電子を持っている分子のことである。それ以外の電子は原子軌道のなかでペアを作っている。電子のスピンの不気味な量子的性質を考えるときには、この遊離基が重要となる。ペアを組んだ電子はスピンを互いに反対方向へ向ける傾向があるため、全体のスピンは打ち消し合ってゼロになる。しかし、遊離基のなかにあるひとりぼっちの電子にはスピンを打ち消す相棒がいないため、全体としてスピンが残り、その遊離基は磁気的性質を持つようになる。そのスピンが磁場の方向に向く。」

 シュルテンは『高速三重項反応』と呼ばれるプロセスで生成する遊離基の『ペア』が、それに対応して互いに『量子もつれ』状態にある電子を持つのではないかと提案していた。 

 彼は、ヴィルチュコ夫妻によるコマドリの渡りの研究と、生物コンパスの化学的メカニズムが見つかっていないという問題のことを知り、自分が研究している電子がそのメカニズムになるのではないかとひらめいたのであった。そして、1978年の論文の中で、鳥のコンパスには量子もつれ状態にある遊離基のペアが使われているのだと提唱した。

 しかし、鳥のコンパスが量子的なメカニズムを持っているというこの説は、20年以上顧みられることはなかった。この間に、ヴィルチュコは、磁気受容には光の助けが必要なことを見出していた。

 「ヴィルチュコ夫妻がクラウス・シュルテンと会ったのは、1986年、フレンチアルプスで開かれた学会の場だった。どちらもコマドリの磁気受容には目に入ってくる光が必要であることは確信していたが、・・・遊離基ペア仮説が正しいかどうかはまだ納得していなかった。・・・すると1998年、ショウジョウバエの目のなかに色素たんぱく質のクリプトクロムが発見され、・・・それが光による概日リズムの同期を担っていることが証明された。そして、・・・クリプトクロムは光と相互作用して遊離基を発生させるタイプのたんぱく質であることが知られていた。
 シュルテンらはこの発見に飛びつき、クリプトクロムが、いままで見つからなかった鳥の化学コンパスの受容体にほかならないと提案したのだった。
 その研究結果は2000年に発表され、のちに量子生物学を代表する論文の一つとなった。・・・

  こうした優れた研究によって磁気受容に対する関心が爆発的に広がり、いまでは、さまざまな種の鳥、イセエビ、アカエイ、サメ、ナガスクジラ、イルカ、ハチ、さらには微生物といった幅広い生物種で磁気受容が見つかっている。ほとんどの種ではいまだメカニズムが調べられていないが、・・・コマドリから、さらには植物を含む何種もの生物で、磁気受容にクリプトクロムが関係していることが分かっている。・・・
 
 アインシュタインの言った不気味な遠隔作用は、地球の歴史の大部分を通じて、生物たちに長距離を動き回る手助けをしていたのかもしれないのだ。」

 「量子もつれ」については以上であるが、ここで話題になったヨーロッパコマドリはイギリスでも特に大切にされているようで、以前コッツウォルズに行ったときには、宿泊したマナーハウスの生垣にもいたし、妻がお土産に買った2種類のクリスマスカードにも登場していた。

 1枚はコマドリの写真が、もう1枚は絵が使われているがどちらもなかなか可愛い。


ヨーロッパコマドリの写真を用いたクリスマスカード(2013年頃購入)


ヨーロッパコマドリの絵を用いたクリスマスカード(2013年頃購入)

 尚、この絵の方は、最近購入したショートブレッドの容器缶にもほとんど同じ絵が描かれていて驚かされた。

ショートブレッドの缶(2025年購入)
 
 

  




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山野で見た蝶(17)スミナガシ

2025-02-07 00:00:00 | 
 今回はスミナガシ。昆虫採集をしていた小学生か中学生のころに、大阪で採集した記憶はあるが定かではない。今、生息分布図をみてみると、北海道を除いて沖縄まで広く全国にいるとされているので、一時期わが標本箱にいたとしても不思議ではない。その特異な名前も記憶に残っている理由かもしれない。

 いつもの「原色日本蝶類図鑑」(横山光夫著 1964年保育社発行)によると、スミナガシは次のようである。

 「本土席巻を目指すかのように見える熱帯系蝶の中でも、本種は北海道には未知だが、九州から既に青森にまで達している。紺の匂うサツマガスリのような翅の模様はいかにも南国的である。羽ばたきは高速で、飛んでいるものは種の判定も困難である。
 平地ではほとんど見掛けず、渓谷沿いの路面・路上の石・湿地・樹液に好んで飛来する。年2回、春型は5月、夏型は7月の発生、母蝶はアワブキ・ヤマビワ・ミヤマハハソなどの葉裏に1個ずつ産卵、幼虫は4齢まで枯葉片を連珠状に糸で綴って中にもぐり、食痕のある食草葉の両側に下垂し、4齢後は葉上に現われて生育する。」

 食樹のアワブキは一般になじみのない種であり、私もつい先日まで見たことがなかった。植物図鑑で調べると、次の記述がある。

 「アワブキ(あわぶき科、アワブキ属)
 本州、四国、九州、および朝鮮半島に分布。山地にはえる落葉高木。高さ10m位。芽、若枝、葉裏の脈上および花序軸に褐色の線毛がある。葉は長さ8~25cm。花は初夏に咲き、若枝の先に大きな円錐花序をつける。がく片、花弁とも5枚。花弁は3枚が完全、雄しべも5本のうち2本が完全である。和名は泡吹で、枝を切り燃やすと、切口から泡を吹き出すので名づけられた。(原色牧野植物大図鑑、北隆館発行)」

 そのアワブキの木のある場所に案内してくれたのは、小諸のMさんであった。バタフライガーデンを管理しているMさんだが、アワブキの木はバタフライガーデンの中には無くて、少し離れた場所にある自然林に近い姿の、Mさんの畑地に数本が植えられていた。

 この日は、私にアワブキにいるスミナガシの幼虫を見せるのが目的で、現地につくと早速数匹の幼虫を指さして教えてくれた。

 図鑑にあるように、スミナガシの幼虫は食葉の破片で独特の連珠状のものを作る(本によってはこれを『カーテン』としている)ので、これをたよりに探すことで、幼虫を見つけることができる。ただ、枯葉に似た色と形をしているので、「ここにいるよ」と教えられてもすぐには幼虫の姿を見つけることができないくらいである。

アワブキの葉先の中脈にとまるスミナガシの幼虫 1/2(2024.7.3 撮影)

アワブキの葉先の中脈にとまるスミナガシの幼虫 2/2(2024.7.3 撮影)

スミナガシの幼虫(2024.7.3 撮影)

アワブキの葉先の枯葉片とスミナガシの幼虫 1/2(2024.7.3 撮影)


アワブキの葉先の枯葉片とスミナガシの幼虫 2/2(2024.7.3 撮影)

 この日、このアワブキの木には成長度合いの異なる数匹の幼虫が見られ、中には終齢に近いと思われるものもいた。

 この幼虫は枯葉で作った連珠のそばにはいなくて、新しい葉を食べる様子が見られた。

スミナガシの幼虫 (2024.7.3 撮影) 

アワブキの葉を食べるスミナガシの幼虫 1/2(2024.7.3 撮影) 

アワブキの葉を食べるスミナガシの幼虫 2/2(2024.7.3 撮影) 

 スミナガシの1齢~4齢がみせるこの特異な連珠状の枯葉片(カーテン)を作る行動は、葉の中脈を残すことから、「中脈タテハ」という名前が付けられているという。手元にあるチョウに関連した数種の書籍を一通り見てみたが、この言葉に触れているのは「イモムシハンドブック」(安田 守著、文一総合出版発行)だけであった。

 別途検索して、この「中脈タテハ」のことについて触れている文献を見つけたので、ここに引用して紹介すると次のようである。

 「タテハチョウ科幼虫の中脈を残す食性の比較:
 日本産タテハチョウ科のうちでスミナガシ亜科、イシガケチョウ亜科、ミスジチョウ亜科には、幼虫が食草の中脈を残して食べていく興味深い習性がみられる。われわれは1961年から1964年にわたって、これら幼虫6属12種の記録をとることができたので、わずかな国外での資料も参考にして習性の比較を試みた。・・・」(福田晴夫・田中 洋、日本鱗翅学会 講演要旨、 40号 1965)

 スミナガシの他にも似たような習性を持つタテハチョウが数種紹介されている。

 さて、後日、Mさんから「スミナガシの蛹を見つけたので、取りにおいで、羽化するところが撮影できるよ」との連絡をいただき、早速受け取りに出かけた。

 7月に見ていた幼虫が蛹になったものかどうかは判らなかったが、アワブキの葉裏で蛹化していた。


スミナガシの蛹(2024.8.1 撮影)

 蛹を受け取って持ち帰り、自宅で撮影の準備をして様子を見ていたが、残念なことに1週間ほど経った頃に、蛹から寄生バチが出てきたとおもわれる穴が開いているのに気がついた。

 他の種でも同様であるが、自然界では卵から無事成虫になるのは容易なことではない。やはり確実に成長の様子を記録するためには、卵の状態から飼育ケースに取り入れて、育てることが必要なのだと思い知らされた。

 当地に来てから屋外でスミナガシの成虫に出会ったことが一度ある。Mさんのバタフライガーデンのことを知るだいぶ前のことだが、場所はそれほど離れていない小諸の山中のことで、山道を歩いていると、前方から素早く飛んできて、目の前の木の少し上の方に止まったチョウがいて、これがスミナガシであった。

 逆光状態で翅の色の撮影が難しかったが、なんとか撮れたのが次のものであった。

小諸の山道で見たスミナガシ 1/5(2017.8.29 撮影)

小諸の山道で見たスミナガシ 2/5(2017.8.29 撮影 ストロボ使用)

小諸の山道で見たスミナガシ 3/5(2017.8.29 撮影 ストロボ使用)

小諸の山道で見たスミナガシ 4/5(2017.8.29 撮影 ストロボ使用)

小諸の山道で見たスミナガシ 5/5(2017.8.29 撮影 ストロボ使用)

 手元にある義父のチョウのコレクションには、このスミナガシも10頭ほど含まれているので、その中から2頭を紹介する。採集地は、それぞれ「昭和37.8.22 ミツミネ 」,「昭和41.8.28  ミツミネ」とあり、妻に聞くとこれは秩父の三峰神社周辺に出かけた時に採集したものだろうとのこと。


スミナガシの標本(左:翅表、右:翅裏 2025.2.2 撮影)

 当時の写真を見ると採集時の様子が浮かんでくるようである。

三峰神社周辺へのチョウ採集旅行(昭和37年頃の撮影)

三峰神社周辺へのチョウ採集旅行(昭和37年頃の撮影)










 

 

 



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