軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

マリー・アントワネットと浅間山

2018-11-16 00:00:00 | 浅間山
 以前、道の駅「雷電くるみの里」の記事を書いた際に、名横綱・雷電為衛門は、浅間山の1783年(天明3年)の噴火がなかったならば、誕生しなかったかもしれないという話を紹介した(2018.3.9 公開の当ブログ)。

 浅間山の噴火については、もう一つの歴史的な「たら・れば」の話がある。それはマリー・アントワネットにまつわる話で、浅間山の噴火が、フランス革命の遠因になったのではないかという話である。そして、マリー・アントワネットの運命にも。

 今年に入ってからも、さまざまな自然災害に見舞われた日本と世界。

 ハワイでは、5月3日にもともと火山活動が活発で、観光地でもあったキラウエア火山だが、いままで噴火活動が見られていなかった場所に、突然亀裂が生じ、そこから溶岩が噴出するという事態に現地は騒然としている。

 付近の住人1万人に対して避難勧告がなされており、一部観光スポットも閉鎖されたという。溶岩流は住宅街にまで達し、その後しばらく小康状態が続いていたが、現地時間17日午前4時過ぎ(日本時間17日午後11時過ぎ)に大規模な爆発的噴火が観測された。

 この噴火に伴い、噴煙が3万フィート(9km)もの高さまで噴出したとされる。現在はようやく落ち着きを取り戻したようだ。

 アメリカ、カリフォルニア州ではもう年中行事のごとく森林火災が発生し、多くの高級別荘が消失している。また、水の都ベネチアでは、高潮により町全体が水没して、折から開催されていたマラソンでは、選手が水に浸かった町なかを走るという、前代未聞の事態も起きている。

 純粋な自然災害と、その背後には人為的なものが含まれている災害との両方があるとはいうものの、こうした非常事態というべき状況に対し、我々はもう慣れっこになったのか、諦めたのか、その一つの原因とされている地球温暖化問題への関心は、いまひとつ盛り上がりを感じないのは私だけだろうか。

 さて、軽井沢のシンボルでもある日本の代表的火山浅間山、気象庁は、平成30年8月30日、11時00分、噴火警戒レベルを「2」から「1」に引き下げた。ただし、噴火警戒レベルが「1(活火山であることに留意)」及び「2(火口周辺規制)」のとき、軽井沢町側では、小浅間山と石尊山への登山道のみ立ち入りを認めていて、それ以外の部分については、立入禁止にすることになっているので、今回立ち入り区域に関する変更はない。

 この浅間山の大規模噴火の噴火間隔は700 - 800年と考えられている。大きな噴火としては4世紀、1108年、1783年のものが知られ、いずれも溶岩流、火砕流の噴出を伴っている。1108年の噴火は1783年の噴火の2倍程度の規模で山頂に小規模なカルデラ状地形を形成した。現在は比較的平穏な活動をしているが、活動が衰えてきたという兆候は認められず、監視活動は続けられている。

最近の浅間山(2018.10.30 撮影)

 この浅間山の1108年と1783年の2回の噴火による災害について、さらに詳しく見ると、1783年の被害は極めて大きいものであった。1108年の被害は「上州で田畑被害大」と書かれ、人的被害については特に記されていないのに対し、1783年の被害は「死者約1,500、餓死者10万」とあり、火山活動に伴う直接被害の大きさはもちろんだが、間接的な被害の大きさに驚く(「浅間山」《村井勇執筆、浅間火山博物館発行》)。

 この大量の餓死者というのは、火山の爆発によって噴出した火山灰や、火山性ガスが上空に漂い、太陽からの日射エネルギーを弱めたため、地上の気温を下げたことが原因となる凶作によるものと考えられている。この凶作による飢饉は、天明の飢饉として知られるもので、これは必ずしも浅間山の噴火によって始まったものではないが、浅間山の大噴火の影響により、飢饉が長期化かつ深刻化したものとされている。

 こうしたことを調べていて、興味深い本に出合った。

 上前淳一郎氏の「複合大噴火」(1989年 文藝春秋発行)という本である。この本で著者は、同時期に噴火した日本の浅間山とアイスランドのラキ火山の複合噴火が、日本の飢饉だけではなく、ヨーロッパの飢饉にも影響をおよぼし、結果として日本の政変やフランス革命にまで影響を及ぼしたのではないかという考えを提示している。

 著者の上前淳一郎氏については、ずいぶん前に週刊誌の「読むクスリ」というコラムを読んで知っていたが、本格的な著作を読むのは初めてである。この「複合噴火」から、浅間山との関係について記述されている部分を中心に紹介させていただこうと思う。

 次の表は1783年の浅間山の噴火前後の、日本とフランスの政治状況をごく簡単に記したものであるが、両火山噴火と前後して、日本とヨーロッパでは平均気温の低下があり、凶作に見舞われている。そして日本では米不足、フランスでは小麦不足に伴うパン価格の高騰が起き、民衆の不満が高まっていた。

 そして、その結果、江戸時代の日本では田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだとされる。一方、フランスでは定信が老中に就任した翌年の1788年4月、フランス全土は猛烈な旱魃に襲われた上に、7月には大規模なひょう害が追い打ちをかけて、小麦は著しく減収し、主食のパン価格は異常に高騰した。翌1789年にかけての冬は猛烈な寒さとなり、パリのセーヌ川も凍りついた。人々はパリに流れ、いたるところで暴動が発生し、ついに7月14日のバスチーユ襲撃という結末を迎えることになる。

ラキ火山、浅間山の噴火とその前後の日本とフランスの政治状況

 浅間山の噴火とフランス革命との間に関連があるとは、話が飛躍しすぎているように感じるが、この辺りについて著者の上前淳一郎氏は、この「複合大噴火」のあとがきで次のように記している。

 「われながら風変わりな本を書いた。これは歴史ではないし、まして気候学でもない。ノンフィクションというには異端にすぎる。エッセイだと思ってもらうのが著者には一番ありがたい。・・・青森県八戸にある対泉院というお寺で、天明飢饉で餓死した人びとの供養碑を見たのは、ちょうど三十年前になる。
 ・・・子供だった太平洋戦争中に飢えは経験しているが、そうでもなければ凶作とは無縁な暖かい中部日本に育った私は、未知の世界に触れた気がした。そして、・・・天明期の飢饉のことを書いてみたい、と思うようになっていった。
 ・・・ちょうどアメリカでセントヘレンズ山が噴火した翌年、その噴煙による冷夏が騒がれているときだったが、ある大学教授が『浅間山天明大噴火とフランス革命との関係』という論文を発表したのである。・・・天明の飢饉の結果もたらされた社会不安が、田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだといってよい。そこまでは私も理解していた。しかし、フランス革命にまで影響が及んだとは、考えてみたこともなかった。・・・
 私はすぐその論文を取り寄せ、むさぼるように読んだ。浅間山の噴煙がヨーロッパまでおおって冷夏をもたらし、そのために小麦が不作になってパンが値上がりしたのがフランス革命の原因だ、と書かれている。日本で米の凶作から政権交代が起きたのと同じように、フランスでは小麦の不作が政体の変革を招いたというのだ。・・・」

 しかし、この論文には浅間の噴煙とフランスの不作との因果関係が十分書かれていないと感じた上前氏は自ら調査を行った。そして、天明の浅間噴火が地球規模でどの程度の影響をもたらしたかを知るために、イギリスのH.H.ラム教授がまとめた噴煙指数(ダスト・ベール・インデックス=DVI)を調べた。

 このDVI指数とは、噴火による煙や灰、塵がどのくらい地球の大気に影響を与えたかを推測して、指数で示したもので、1883年のクラカトア火山(インドネシア)の噴火の噴煙指数を1,000として基準としている。過去最大の指数を示しているのは、1815年のタンボラ火山(インドネシア)の3,000である。

DVI指数による世界の主な噴火の大きさ(上前氏の図から主なものだけを採りあげた)

 ここで、浅間山とぼぼ同時期に噴火したラキ火山のことを知った上前氏は、日本の天明飢饉を長期化させ、深刻化させたのは、浅間よりむしろラキ噴火だったのではないかと気付く。さらに、浅間のDVI指数は600と小さいとはいえ、浅間とラキのDVI指数2300とを合わせると2900になり、1815年に噴火し、1816年にヨーロッパ、アメリカに極端な冷夏をもたらした、タンボラ火山(インドネシア)のDVI指数3000にほぼ匹敵することから確信を深めていった。

 こうして、先の大学教授の論文で無視されていたラキ噴火を浅間に加えた複合噴火こそが、フランス革命との関係を論じる場合に対象とされなけらばならないと考え、更に調査を行った結果を纏めたものがこの本であった。

 この「複合噴火」(1992年刊行の文春文庫新装版)には帝京大学教授・首都大学東京名誉教授・三上岳彦氏の解説があり、歴史気候学の立場から次のように分かりやすく書かれていてる。

 「飢饉の原因となった異常冷夏については、浅間の噴火によるとする説があるが、噴火が起こったのは八月上旬であり、気温の異常な低下はすでに春頃から始まっていた。著者の上前氏は同じ年にアイスランドで火を噴いたラキ火山との複合噴火が、悲劇をより大きくしたのではないかと推論している。
 ・・・浅間山とラキ火山から噴出した膨大な量の火山灰と火山ガスは、上空を吹く偏西風にのって世界中に広がっていった。厳密にいうと、火山爆発にともなって噴き上げられた大量の亜硫酸ガスが成層圏にまで達したあと、日射(紫外線)の影響によって硫酸の微粒子(エアロゾル)に変化したのである。上空に漂う火山性のエアロゾルは、太陽からやってくる日射のエネルギーを弱め、地上の気温を下げる効果がある。
 この年の6月8日朝、アイスランド南部のラキ火山が火を噴いた。火山噴火による噴出物の量は、百億立方メートルに達したと言われ、これはおなじ年に噴火した浅間山や1982年に噴火したメキシコのエルチチョン火山の噴出量の20倍にも及ぶ膨大なものであった。亜硫酸ガスに富んだ噴煙は、水蒸気とともに高度10キロメートル以上の成層圏にまで達したのち、硫酸のエアロゾル(青い霧)に姿を変えて2年から3年ほど大気中にただよったために、太陽からやってくる日射のエネルギーが減少し、地上の気温を低下させたと推定される。
 火山の大噴火と気候変動との関係は、実は、そう簡単ではない。・・・1783年の場合、浅間、ラキの複合噴火で、日本は異常冷夏をむかえたが、イギリスやフランスなど、ヨーロッパ西部の諸国では暑い夏となった。・・・一般的に、火山大噴火後には、気温低下に明瞭な地域差が生ずることは従来から指摘されている。
 本書では、複合大噴火後のこうした気温変化の地域差についても、科学的に納得のゆく説明が加えられており、単なる歴史的事実の記載に終わっていない点で、説得力がある。」

 一方、本のあとがきでは、上前氏は次のように控えめに書いているのであるが。

 「・・・ただ、かんじんの1783年の複合噴火が89年のフランス革命の原因だったかどうかについての論証が、完璧にできたとは私は思っていない。革命の前年フランスは不作で、その結果起きたパンの値上がりが暴動を呼んだことは確かだが、それが噴火のせいだと断定するだけの根拠を私は握っていない。・・・また、かりにパンの値上がりの遠因が噴火にあったとしても、それだけでフランス革命が起きたと主張するつもりは私にはない。・・・」

 地球の気候変動の問題が、極めて複雑であることは、今日の地球温暖化の議論でも感じることで、上前氏がこのように断定的な表現を避けていることは理解できるところである。

 さて、浅間山の麓で暮らす私は、日々浅間山を眺めながら、大噴火の起きないことを願っているのであるが、一方で浅間とパリとをつなぐこの壮大な物語に、何故かわくわくしたものを感じる。

 今、手元に、マリア・テレジアと名付けられたワイングラスがある。カップ部分がウランガラスでできていて、紫外光下で緑色に光る。あのマリー・アントワネットの母親の名前がついたこのワイングラスを見るたびに、フランスに思いを馳せ、「たら・れば」とついつい考えてしまうのである。

マリア・テレジアの名を冠したワイングラス(左:通常光下、右:紫外光下、)




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浅間26景

2018-01-05 00:00:00 | 浅間山
 少し遅いのですが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。このブログを2016年7月にスタートして1年半ほどが過ぎましたが、今年の元旦現在でサイトを見に来ていただいた方の累計数は20,376名になりました。今回から、ページに訪問者数累計を表示することにしましたので、ご覧ください。  

 年頭に当たり、昨年に続いて今年も浅間山の姿をお届けします。1年間を通じて定点撮影をしました。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ、みるものかは・・・という言葉がありますが、浅間山の姿を撮影するとなると、どうしても美しい姿を撮影したくなります。ここはそれをぐっと我慢して一年を通じて、ありのままの姿を撮影してみました。



 撮影場所は発地(ほっち)で、軽井沢駅の南西方向に位置しており、広い畑地が残されている場所である。この撮影ポイントの近くには、昨年「発地市庭(いちば)」がオープンし地場野菜や土産物の販売を行うようになった。これまでは駅周辺の混雑を迂回する車が通る程度であったが、俄かににぎやかになってきている。それでも、この定点からの浅間山の姿には人工的なものがほとんど写ることがない。浅間山の姿と共に、この周辺の畑地の変化も写っていて、季節感を与えてくれている。

 最初は2017年元旦の姿。浅間山の2000m辺りから上の方はうっすらと雪に覆われている。


2017. 1. 1, 10:24 撮影 

 その後降った雪で様子が一変し、軽井沢にも雪が積もった。


2017. 1. 10, 10:11 撮影

 山頂付近の雪は少し溶けたようだ。


2017. 1. 19, 16:51 撮影

 夕焼けに山肌が染まる時間帯に撮影に出かけたが、雲がかかり、残念。


2017.1.22, 16:50 撮影

 雪がさらに溶ける。


2017.1.28, 17:28 撮影


2017.2.2, 10:25 撮影

 夕焼けの撮影に再度挑戦。山頂から立ちのぼる噴煙も赤く染まる。


2017.2.2, 17:06 撮影

 アップにすると山腹に赤い顔の猿が見える。


2017.2.2, 17:08 撮影

 数分後にはもとの色調に戻る。


2017.2.2, 17:16 撮影

 3月になると、冬のきりりとした感じがなくなってくる。


2017.3.16, 17:20 撮影

 雪も溶け始める。


2017.4.16, 06:36 撮影


2017.4.19, 15:27 撮影


2017.5.4, 11:15 撮影


2017.5.31、10:08 撮影

 厚い雲に覆われることが多くなって、次第に浅間山の姿が見えない日が増えていく。


2017.6.28, 11:45 撮影


2017.6.30, 16:47 撮影


2017.7.2, 11:29 撮影


2017.8.9, 16:27 撮影


2017.8.24, 15:04 撮影


2017.9.1, 14:33 撮影

 早くも畑地には秋の気配が感じられるようになる。


2017.9.29, 14:06 撮影

 初冠雪。山麓には紅葉が見られる。


2017.10.26, 11:23 撮影

 浅間山特有の縞模様が美しい。


 雪はいったん消える。


2017.11.9, 16:08 撮影

 そして、長い冬が始まる。


2017.11.26, 15:44 撮影

 12月は撮影の機会がなく、写真がありません。最後に現在の姿を。


2018.1.2, 14:37 撮影

 では、今年が平和な年でありますように。


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山体崩壊

2017-04-28 00:00:01 | 浅間山
山体崩壊。この何とも恐ろしい響きのある言葉の実態を知ったのは、浅間石のことを調べているときであった。本ブログの浅間石(3)で紹介したように、今から2.4万年(2.8万年との説もあるようだが)ほど前に(旧)浅間山の大規模な崩壊が起きている。

 浅間山は三重式火山で、現在の狭義の浅間山は前掛山であるが、その西側にある黒斑(くろふ)山は第一外輪山で、今は東に開いた馬蹄形カルデラを形成している。この馬蹄形カルデラは大規模な崩壊すなわち「山体崩壊」によって形成されたと見られている。

 このとき山体崩壊した体積は4立方キロメートルと推定されており、カルデラ形成以前は現在の湯の平付近に火道を持つおよそ2,800mの富士山型の成層火山であったと考えられているという。

 発生した泥流の痕跡は浅間山周辺の「流れ山」と共に群馬県の前橋市にまで及んでいて厚さ10mに及ぶ前橋台地を形成しているとされる。

 浅間山の大規模噴火としては平安時代の1108年、と江戸時代の1783年の噴火が知られていて、災害の規模も記録に残されている。この時は火山噴火に伴う噴出物とこれらが山壁に降り積もっていたものが、爆発と噴火の震動に耐え切れずに崩壊したためにおきた火砕流や土石流であり、火山の大半が失われる「山体崩壊」ではなかった。

 この時の火山灰や溶岩の噴出量はそれぞれ、およそ10億立方メートルと4.5億立方メートルと推定されている。一方黒斑山時代の山体崩壊で流下した土石流の体積は上記の4立方キロメートルすなわち、40億立方メートルであるから、その規模の巨大さが想像できる。この山体崩壊により黒斑山は2,800mから2,404mまで低くなっている。

浅間山2,568mの西に連なる現在の黒斑山2,404m(2013.4.28 撮影)と山体崩壊前の旧浅間山2,800mの予想図(作成筆者)

 本ブログ「浅間石(3)」で紹介した火山学者早川由紀夫群馬大学教授の2003年の言葉の一部を再度引用すると、
「・・・いまから2万4,000年前、浅間山がまるごと崩れました。崩壊した大量の土砂は北に向かって流れて吾妻川に入り、渋川で利根川に合流し、関東平野に出て、そこに厚さ10メートルの堆積層をつくりました。・・・つまり前橋市と高崎市は、浅間山の崩壊土砂がつくった台地の上に形成された都市なのです。

 浅間山のような大円錐火山が崩壊することはめずらしいことではありません。むしろ大円錐火山にとって、崩壊することは避けられない宿命のようなものです。ゆっくりと隆起してできる普通の山とちがって、火山は突貫工事で急速に高くなりますから、とても不安定です。大きな地震に揺すられたり、あるいは地下から上昇してきたマグマに押されたりして、一気に崩れます。

 2万4000年前の浅間山崩壊で発生した土砂の流れは、北側の群馬県だけでなく、南側の長野県にも向かいました。・・・浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいます。私たちはこのことをどう考えればよいのでしょうか。答えは、簡単にはみつかりそうもありません。いろいろな角度から研究を進める必要がありそうです。(早川由紀夫)上毛新聞に2003年9月4日に掲載された郡大だより65教育学部を、わずかに書き換えた」
とある。

 なお、南軽井沢ではこの泥流に湯川が堰き止められ、大きな湖が形成された(南軽井沢湖成層)。現在の軽井沢はこの湖に降り積もった離山火山が噴出した軽石の上にあるとされていて、軽石沢が軽井沢の語源とされている。

 ところで、過去に日本と世界で起きた「山体崩壊」について調べて見ると、次のようなものが見つかる。

2900年前・・・・富士山東斜面(静岡県/山梨県、現在の標高 3,776m)
紀元前466年 ・・鳥海山(山形県/秋田県、2,236m)
887年・・・・・八ヶ岳(天狗岳: 長野県、2,646m)
1586年・・・・・帰雲山(岐阜県、1,622m)
1640年・・・・・北海道駒ケ岳(北海道、1,131m)
1707年・・・・・大谷崩れ(静岡県、2,000m)および五剣山(香川県、375m)
1741年・・・・・渡島大島(江良岳: 北海道、737m)
1751年・・・・・名立崩れ(新潟県、100m)
1792年・・・・・眉山(長崎県、708m)
1815年・・・・・タンボラ山(インドネシア、2,851m)
1847年・・・・・岩倉山(虚空蔵山: 長野県、764m)
1858年・・・・・鳶山(富山県/岐阜県、2,616m)
1883年・・・・・クラカタウ(インドネシア、400m)
1888年・・・・・磐梯山(福島県、1,816m)
1911年・・・・・稗田山(長野県、1,428m)
1961年・・・・・大西山(長野県、1,741m)
1980年・・・・・セント・ヘレンズ山(アメリカ、2,550m)
1984年・・・・・御嶽山(長野県、3,067m)
2008年・・・・・栗駒山(宮城県/岩手県、1,626m)

 このうち、1980年5月18日に起きたアメリカ、ワシントン州のセント・ヘレンズ山の噴火とこれに伴う山体崩壊は記憶に新しいところである。富士山に似た2,950mの秀麗な山の姿が一変し2,550mになった。

セントへレンズ山の山体崩壊による変化(作成筆者)

 この時の火山噴出物量は10億立方メートル(ウィキペディア *1)と推定されていて、約40平方キロメートルの範囲に平均25mの厚さで堆積したとされている(*2)。黒斑山の山体崩壊(40億立方メートル)がどれほど大規模なものであったかが理解される。

*1:ウィキペディア フリー百科事典 2017年2月15日UTC
*2:高橋 保、新砂防,118, 昭56.2, PP24-34

 さて、セント・ヘレンズが似ていた本家・富士山に関しては、小山真人(こやま まさと)静岡大学防災総合センター教授(富士山火山防災対策協議会委員、火山噴火予知連絡会伊豆部会委員)が2012年に次のような発表をしている。

 「富士山の噴火と言えば、300年ほど前の江戸時代に起きた「宝永噴火」をイメージする人が多いだろう。宝永噴火は開始から終了までの16日間に、マグマ量に換算して7億立方メートルもの火山灰を風下に降らせた大規模で爆発的な噴火だった。同種の噴火が将来起きた場合の首都圏への影響については、10月9日の藤井氏執筆の本欄を参照してほしい。

 しかしながら、富士山が過去に起こした噴火は多種多様であり、必ずしも次の噴火が宝永噴火に類似するとは限らない。ここでは富士山が起こしうる別種の大規模災害として、「山体崩壊」を指摘しておきたい。

 山体崩壊は、文字通り山体の一部が麓に向かって一気に崩れる現象であり、その結果生じる大量の土砂の流れを「岩屑(がんせつ)なだれ」と呼ぶ。富士山では、不確かなものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたことが知られており、最新のものは2900年前に東側の御殿場を襲った「御殿場岩屑なだれ」である。その際に崩れた土砂量は、宝永噴火を上回る約18億立方メートルである。

 岩屑なだれの速度は時速200キロメートルを越えた例が海外の火山で観測されており、発生してからの避難は困難である。首都圏にもっとも大きな影響が出るのは、北東側に崩壊した場合であろう。大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。

 同様なケースが実際に約1万5000年前に生じた。この時に相模川ぞいを流れ下った大量の土砂は「富士相模川泥流」と呼ばれ、相模原市内の遺跡などで今もその痕跡を見ることができる。

 このように山体崩壊は広域的かつ深刻な現象であるが、現行の富士山のハザードマップでは想定されていないため、それに対する避難計画も存在しない。「想定外」となった主な理由は、約5,000年に1回という発生頻度の小ささである。

 しかし、たとえ発生頻度が小さくても、起きた時の被害が甚大である現象に対して全く無防備だとどうなるかを、昨年私たちは嫌と言うほど見せつけられた。東日本大震災と福島原発災害である。しかも、最近の研究によって、宝永噴火の際にも地下のマグマの「突き上げ」による宝永山の隆起が起き、山体崩壊の一歩手前まで行ったことが明らかになった。

 幸いにして、こうした明瞭な前兆をともなう山体崩壊は、山の変形を監視することによる予知が可能である。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップと避難計画がない現状では、40万人もの人間をすみやかに遠方に避難させることは困難である。山体崩壊による甚大な被害が予想される静岡・山梨・神奈川の3県は、それを考慮した避難対策を早急に作成すべきである(東京新聞2012年10月31日コラム「談論誘発」)から引用)」。

 ここに示されているように、富士山の直近の山体崩壊である2,900年前の「御殿場岩屑なだれ」の規模は 18億立方メートルと推定され、冒頭紹介した黒斑山崩壊時の40億立方メートルの約1/2の規模である。

 小山教授は、富士山で山体崩壊が起きた場合のおおよその被災範囲(厚い土砂で埋められる範囲)を、過去に発生例がある北東側・東側・南西側の方向別にそれぞれ描いている。

小山真人教授による富士山山体崩壊時の土石流の流下予想図
(http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.htmlから許可を得て引用)

 黒斑山の山体崩壊が発生した2.4万年前の時代は日本では石器時代の終わりごろにあたる、縄文時代は1.6万年前から始まるとされているから、その少し前の出来事になる。

 弥生時代は今から3,000年前に始まるとされているので、富士山の山体崩壊は弥生時代のできごとであったことになる。当時の人々にどのような打撃を与えたのであろうか。

 仮に現在の社会でこうした山体崩壊が起きるとどういうことになるか。上記のとおり、小山真人教授は、富士山が北東側に崩壊した場合には40万人が被害を受けると推定している。また、浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいるということである。

 その想定被害は驚くべきものである。巨大地震や津波の被害を受けたばかりの我々には、その記憶がまだ生々しいが、場合によってはこれをはるかに上回る被害が予測されているということになる。

 先日NHKのTV番組ヒストリアで、群馬県榛名山の噴火で8kmほど離れた麓の渋川村が火砕流に飲み込まれた様子が発掘により明らかになったことを放送していた。

 村人の多くが済々と避難した後、火山の噴火を鎮めようと祈りを捧げていたとも考えられているが、何らかの目的で後に残った村の長(王)が逃げる間もなく家族と共に火砕流に飲み込まれていった。

 現在南海トラフ沿いで、マグニチュード8~9級の巨大地震の発生が懸念されている。最悪の場合には、東日本大震災を大幅に上回る被害が出る恐れがあるとされているのであるが、地震だけではなく、火山噴火やこれに伴う山体崩壊にも目を向ける必要があるとの指摘に、改めて関心を払うべきなのかもしれない。


 












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浅間山の四季

2016-12-30 00:00:00 | 浅間山
新幹線で軽井沢駅に降り立ち、さて浅間山の雄姿は?と思い北の方を眺めても浅間山は見えない。

改札口を出て北口に向かい浅間山を探しても、北西方向に見えるのは離山(はなれやま 1256m)だけで、浅間山(2568m)はこの離山のうしろにすっぽりと隠れていて、ごく一部が見えるだけである。

浅間山を見るためには、東西南北いずれかの方向に移動しなければならないのである。

浅間山の見えるところに住みたいというのが理由の一つで、当地に移住を決意した妻と私だが、それもあって季節ごとに浅間山の姿を写真に収めてきた。

年末にあたりそれらの写真を一挙公開してみようと思う。

先ずは、その離山の山頂からの浅間山。今年1月に妻と初めて山頂まで登り、そのとき撮影した一枚。途中カモシカが悠然とうずくまっているのに出会ったが、人には慣れているのか、まったく動こうとしなかった。


離山(はなれやま 1256m)の山頂からの浅間山(2016.1.11 撮影)

浅間山が美しく見える場所はどこだろうか?ということで、あれこれ探して見たが、南軽井沢の発地からの姿が裾野まできれいに見えるのでここを定点として撮影することにした。

この定点から撮影した季節ごとの写真は次のようなものである。


定点からの浅間山(2014.3.22 撮影)


定点からの浅間山(2014.4.28 撮影)


定点からの浅間山(2015.6.29 撮影)


定点からの浅間山(2015.7.14 撮影)


定点からの浅間山(2015.9.28 撮影)


定点からの浅間山(2015.10.10 撮影)


定点からの浅間山(2016.10.27 撮影)


定点からの浅間山(2013.11.17 撮影)


定点からの浅間山(2015.12.20 撮影)

発地の定点以外の写真は次のとおり。


馬取地区からの浅間山(2015.1.12 撮影)


馬取地区からの浅間山(2016.2.15 撮影)


信濃追分駅からの浅間山(2014.3.22 撮影)


上田市方面からの浅間山(2015.4.15 撮影)

上田方面からは黒斑山に隠れてしまい、一部しか見えない。


嬬恋にある「しゃくなげ園」からの浅間山(2015.5.27 撮影)

このしゃくなげ園の方向から見ると、浅間山の頂上付近にある山小屋のような形の1000トン岩がよく見える。

この巨大な岩は1950年9月の噴火の際に出現したもので、高さ5m以上あり、重さは3000トンといわれている。

嬬恋方面から見ると浅間山の新しい噴火口がよく見える。


嬬恋方面からの浅間山(2015.12.20 撮影)

東側の浅間牧場方面から見るとまた違った形に見える。


浅間牧場方面から見た浅間山(2015.12.20 撮影)

浅間山の特徴である条線が美しい。

この場所から、カメラ(CASIO EX-100)のアートモードで撮影すると山肌が強調されて、不思議な写真になった。


浅間牧場方面からカメラのアートモードで撮影した浅間山(2016.11.4 撮影)


今年7月に軽井沢町開催のブログ作成講習会に参加したのをきっかけにこのブログを始め約半年続けてきました。これまでご愛読いただき有難うございました。来年も継続していくつもりでいますのでよろしくお願いします。では、皆様よいお年を。


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浅間山とミュー粒子

2016-10-28 00:00:00 | 浅間山
 このところミュー粒子の利用に関する話題が2件新聞に紹介された。

 その一つは、10月19日の新聞紙上で紹介されたもので、宇宙線「ミュー粒子」の測定により、エジプト・ギザのクフ王のピラミッド内部に未知の空間があることを国際共同研究チームが確認したという発表である。日本からは名古屋大学などが参加している。

 ここでは、「ピラミッドの中心に向かって幅1~2メートルくらいの通路のようなものが造られている可能性がある」という調査結果を発表している。


ギザ・クフ王のピラミッド内部にある新たな空間の存在を報じる新聞記事(2016.10.19 読売新聞)

 もう一つは、高エネルギー加速器研究機構などが撮影を試みたもので、福島第一原子力発電所2号機内の溶け落ちた核燃料を宇宙線「ミュー粒子」を使って初めて撮影したという発表である。

 「燃料の多くが溶け落ち、圧力容器の底部にたまっている様子がわかった」、「溶け落ちずに残った燃料を含め、計180~210トンが今も炉心や底部にあることが分かった」というもので、この画像をもとに、炉内に残っている燃料の取り出し方法の選定につなげたいとしている。

 こうした方法で、原子炉内部に残っている燃料量がかなり詳細なところまでつかめるというのは驚きであり、すばらしいことだ。


福島第一原子力発電所2号機の内部の状態を報じる新聞記事(2016.7.29 読売新聞)

 これら2つの報告内容はいずれも、直接観測することが困難な場所についてのものであり、現在のところこのミュー粒子を利用した方法の他には有効な方法が見つからないようだ。

 ところで、ミュー粒子といっても我々一般人には馴染みが無く、一体なんだろうかということになるが、ミュー粒子は現在12種類あるとされている物質を構成する素粒子の一つで、その中でもレプトンという6種類ある粒子の仲間に属するという。

 今回利用しているミュー粒子は、銀河系のはるかかなたで起きた超新星爆発で加速された一次宇宙線が地球大気と反応することで生成するとされているものである。


地球に降り注ぐ宇宙線から、ミュー粒子が発生する様子を示す概念図(東京大学 田中宏幸教授の資料を参考にして作成)

 このほか、ミュー粒子は陽子線加速器内でも生成することができ、各種研究に利用されていて、ガン治療への応用研究も進められているという。

 この陽子線加速器で作られるものと区別して、今回ピラミッドや原子炉での観測に用いられたミュー粒子は宇宙線「ミュー粒子」として新聞紙上でも表現されている。

 そのミュー粒子を利用して物体の内部の画像を得る方法とは一体どのようなものであろうか。

 ミュー粒子は貫通力の高い素粒子で、密度の低い物質なら簡単に通り抜け、逆に物質の密度が高ければ通り抜けにくくなる。

 従って、ミュー粒子が飛んできた方向と数を測定すれば、その方向にある物体の密度分布が分かるというのが原理になる。

 X線による透視撮影の巨大版ということになろうか。ミュー粒子の透過性を利用して撮影するこの手法は、「ミュオグラフィ」と呼ばれている。

 私がこのミュー粒子によるピラミッドや原子炉の内部を観測したという記事に目をとめたのは、以前同じ技術が浅間山のマグマ観察に用いられたという情報に接したことがあったからだ。

 ミュー粒子を用いて世界で初めて火山内部の透視に成功したのは、東京大学地震研究所教授 田中宏幸氏で、2007年に、科学雑誌『Nature』や新聞各紙でも取り上げられ、とても大きな反響を呼んだといわれる。

 この頃使用されたのは、粒子が通過すると写真乾板が感光して飛跡を記録する原子核乾板で、これにより浅間山観測に導入できるようになり、2006年火山のミュオグラフィに成功した。

 しかし、回収・現像・読み取りの作業が必要な原子核乾板は、時々刻々と変化する火山のモニタリングには向かないため、FPGA(field-programmable gate array)という書き換え可能な集積回路の採用に進み、大容量FPGAでオンライン観測システムを構築し、火山付近に検出器を設置したまま遠隔操作で撮影を続けることが可能になった。

 実際、省電力・分割可搬型可能な装置が浅間山に設置され、2009年2月2日の浅間山噴火が記録されている。


2009年2月2日前後のミュオグラフィー画像(2009年2月12日 報道発表資料より、発表者:田中宏幸 東京大学地震研究所 火山噴火予知研究推進センター特任助教(当時))

 噴火直前の1ヶ月間と、噴火直後の1週間のデータを用いて、浅間山内部の密度変化を解析して、2月2日の浅間山の噴火は、熱で膨張した水蒸気が噴出し、火口に堆積していた古い溶岩などを吹き飛ばした現象であると解釈できると報じている。

 さらにこれまではミュー粒子では10日~40日に1枚しか撮影できなかった画像が改良されて、3日に1枚の撮影ができるようになり、動画表現も可能になっている。

 2013年には数日単位でコマ撮りし、薩摩硫黄岳のマグマが上下に動く様子が捉えられている。

 2015年6月11日、気象庁地震火山部は浅間山の噴火警戒レベルを従来の1から2に引き上げると発表し、この噴火警戒レベル値は現在も継続されている。

 浅間山では、2015年4月下旬頃から山頂直下のごく浅いところを震源とする体に感じない火山性地震が多い状態が続いていたことと、二酸化硫黄の放出が増加し、その放出量は同6月8日の観測で1日当たり500トン、6月11日の観測では、1700トンと急増していた。

 これらのことから、浅間山では火山活動が高まっていると考えられ、火口周辺に影響を及ぼす小規模な噴火が発生する可能性があったためだ。

 この発表の直後2105年6月16日には実際に降灰を伴う小噴火が起きていて、こうした状況は現在も続いている。


わずかに噴煙を上げ続ける嬬恋方面から見た浅間山(2015.12.20 撮影)

 火山内部のマグマの様子がわかれば、困難とされる噴火予知にもつながるとても重要な研究である。身近にこの世界最大規模の噴火の歴史を誇る(?)浅間山を控えた軽井沢住民としてはとても興味深い話である。
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