書くときに実名やコテハンを明示すると、なぜ罵詈雑言の抑止力になるのか? ズバリ、私は「世間体」だと思う。この点についてブログ「綾繁重工杜内報」さんから、再度異なる意見が寄せられた。そこで今回は匿名と実名における人間心理について考察してみる。
人がネット上で文章を書くにあたり、その人の「心の居住まい」を左右するものは何か? 「綾繁重工杜内報」のいそはち氏は、エントリー「続・実名と匿名」の中でこう論じている。
「最初から完全に偽名・匿名で発信した場合と、ある程度身元の割れた、実名と紐付けされたハンドルネームなりで発信した場合とでは大きく記入者の心構えが異なるはず、という事はまず考えられると思います」(一部、改行した)
ここまでは「YES」である。ただし私は、ハンドルが必ずしも実名に紐付けられていなくても心構えは変わると考える。これはちょっとした意見の相違に見えるが、そうじゃない。何が抑止力になるかについて、私といそはち氏の決定的なちがいが実はここにあらわれている。
いそはち氏は、なぜ実名とハンドルの「紐付け」にこだわるのか? それは次の段落で明らかになる。以下、引用する。
「匿名掲示板ですら今の警察の手にかかれば、限界はあれど個人特定は可能という事が分かっているはずなので。(まだ犯罪予告などで逮捕される連中もいるが…)」(同)
つまりいそはち氏は「法的制裁」が抑止力になると考えているのだ。
だがちょっと考えてみてほしい。たとえばあなたは、どこかのブログのコメント欄に書き込むときに、「いまから書く内容は刑法に触れるかどうか?」なんてことを考えているだろうか? あるいはまた、「あっ。この表現は刑法に触れるから書き直そう」などとイメージするだろうか?
百歩譲って法的制裁が抑止力になるとしても、ネット上にあふれる誹謗中傷のたぐいは大半が削除、またはスルーで事なきを得ているのが現状だろう。おとがめなしだ。
書かれた側が名誉毀損(刑法230条・231条、民法709条・710条・723条)で「おそれながら」と訴え出るには、膨大なエネルギーがいる。「そこまでする気はない」というのが素朴な庶民感情である。
とすれば罵詈雑言を書き込んでも、司法が介入するなんてことはめったにないわけだ。これじゃあ当然、抑止力にはなりえない。
一方、私は冒頭で「世間体が抑止力になる」と書いた。いったいどういう意味か?
たとえば私は実名でブログを書いているが、これを読んでいるのは別に知人だけじゃない。ふだん仕事でおつきあいのあるメディア関係の方々や取材先、その他もろもろの人も目にしている。私が知らないだけで、思わぬ人が読んでいる可能性もある。
なんせ実名ブログだから、Googleで何かの検索中にたまたまココを見つけたとしても、「あっ、これ松岡さんじゃん」とすぐわかっちゃう。この状態でヘンなこと、まちがったことを書けば、「松岡さんて、こんな人だったのね」とたちまち白い目で見られてしまう。
「あんな人に原稿を依頼するのはやめよう」(非常にコワイ言葉だ。両手が震えてきたぞ)などと信用をなくしたら一巻の終わりだ。つまりひとことでいえば、これは「世間体」なのである。
別に私に限った話じゃない。たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。
すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。
だれにでも覚えがあるだろう。何かがきっかけですっかりキレまくり、ブログのコメント欄や掲示板にハチャメチャなことを書き込んだ。で、「送信する」ボタンを押しかけた瞬間、思いとどまったことが。
そのときあなたの頭によぎったものは何か? 「刑法に触れるから」ではないだろう。「人に見られるから」であるはずだ。
たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。
罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。
「世間体を気にする」といえば、なんだか形だけの体裁にこだわる形式主義みたいで評判がよくない。だが実はもっと深い意味がある。世間を考えれば人は行動を律するようになる。他人に迷惑はかけないし、いい評価を得ようと努力もする。
つまり「世間体を気にする」とは相手を思いやることであり、「こんなことを書いたら本人は傷つくかな?」とイメージすることだ。また人のために何かをし、尊敬されることでもある。人間が社会的な生き物である限り、自分の姿の映し絵である「世間様」はどこまでもついてくる。
世間体は古くて新しい言葉だ。地域共同体が存在し、まだ近所づきあいが活発だった時代には、世間からつまはじきにならないことが行動の指針だった。だがリアルの世界では、その世間体なる感覚は崩壊した。
そしていま、ネット界を律しているのが、ネットワークという名の「世間」なのである。
【関連エントリ】
『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』
『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』
『小倉さん、印象操作はほどほどに』
『【匿名論争始末記】トラックバックスパムと議論の「呼びかけ機能」のあやうい関係』
人がネット上で文章を書くにあたり、その人の「心の居住まい」を左右するものは何か? 「綾繁重工杜内報」のいそはち氏は、エントリー「続・実名と匿名」の中でこう論じている。
「最初から完全に偽名・匿名で発信した場合と、ある程度身元の割れた、実名と紐付けされたハンドルネームなりで発信した場合とでは大きく記入者の心構えが異なるはず、という事はまず考えられると思います」(一部、改行した)
ここまでは「YES」である。ただし私は、ハンドルが必ずしも実名に紐付けられていなくても心構えは変わると考える。これはちょっとした意見の相違に見えるが、そうじゃない。何が抑止力になるかについて、私といそはち氏の決定的なちがいが実はここにあらわれている。
いそはち氏は、なぜ実名とハンドルの「紐付け」にこだわるのか? それは次の段落で明らかになる。以下、引用する。
「匿名掲示板ですら今の警察の手にかかれば、限界はあれど個人特定は可能という事が分かっているはずなので。(まだ犯罪予告などで逮捕される連中もいるが…)」(同)
つまりいそはち氏は「法的制裁」が抑止力になると考えているのだ。
だがちょっと考えてみてほしい。たとえばあなたは、どこかのブログのコメント欄に書き込むときに、「いまから書く内容は刑法に触れるかどうか?」なんてことを考えているだろうか? あるいはまた、「あっ。この表現は刑法に触れるから書き直そう」などとイメージするだろうか?
百歩譲って法的制裁が抑止力になるとしても、ネット上にあふれる誹謗中傷のたぐいは大半が削除、またはスルーで事なきを得ているのが現状だろう。おとがめなしだ。
書かれた側が名誉毀損(刑法230条・231条、民法709条・710条・723条)で「おそれながら」と訴え出るには、膨大なエネルギーがいる。「そこまでする気はない」というのが素朴な庶民感情である。
とすれば罵詈雑言を書き込んでも、司法が介入するなんてことはめったにないわけだ。これじゃあ当然、抑止力にはなりえない。
一方、私は冒頭で「世間体が抑止力になる」と書いた。いったいどういう意味か?
たとえば私は実名でブログを書いているが、これを読んでいるのは別に知人だけじゃない。ふだん仕事でおつきあいのあるメディア関係の方々や取材先、その他もろもろの人も目にしている。私が知らないだけで、思わぬ人が読んでいる可能性もある。
なんせ実名ブログだから、Googleで何かの検索中にたまたまココを見つけたとしても、「あっ、これ松岡さんじゃん」とすぐわかっちゃう。この状態でヘンなこと、まちがったことを書けば、「松岡さんて、こんな人だったのね」とたちまち白い目で見られてしまう。
「あんな人に原稿を依頼するのはやめよう」(非常にコワイ言葉だ。両手が震えてきたぞ)などと信用をなくしたら一巻の終わりだ。つまりひとことでいえば、これは「世間体」なのである。
別に私に限った話じゃない。たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。
すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。
だれにでも覚えがあるだろう。何かがきっかけですっかりキレまくり、ブログのコメント欄や掲示板にハチャメチャなことを書き込んだ。で、「送信する」ボタンを押しかけた瞬間、思いとどまったことが。
そのときあなたの頭によぎったものは何か? 「刑法に触れるから」ではないだろう。「人に見られるから」であるはずだ。
たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。
罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。
「世間体を気にする」といえば、なんだか形だけの体裁にこだわる形式主義みたいで評判がよくない。だが実はもっと深い意味がある。世間を考えれば人は行動を律するようになる。他人に迷惑はかけないし、いい評価を得ようと努力もする。
つまり「世間体を気にする」とは相手を思いやることであり、「こんなことを書いたら本人は傷つくかな?」とイメージすることだ。また人のために何かをし、尊敬されることでもある。人間が社会的な生き物である限り、自分の姿の映し絵である「世間様」はどこまでもついてくる。
世間体は古くて新しい言葉だ。地域共同体が存在し、まだ近所づきあいが活発だった時代には、世間からつまはじきにならないことが行動の指針だった。だがリアルの世界では、その世間体なる感覚は崩壊した。
そしていま、ネット界を律しているのが、ネットワークという名の「世間」なのである。
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