すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

読売新聞「ヒゲ記者」事件で考える匿名と実名の功罪

2005-05-16 23:50:22 | メディア論
 JR西日本を恫喝した読売の「ヒゲ記者」が実名を晒された事件を機に、匿名と実名それぞれの功罪が議論になっている。記者の署名制度については前々回のエントリーでふれたので、今回はネット上における匿名・実名問題を考えてみよう。

 まず「匿名」の定義は以下の通りだ。

「自分の実名を隠してあらわさないこと。また、実名を隠して別の名を用いること」(三省堂「大辞林 第二版」より引用)

 これをネットのコミュニケーションにあてはめれば、匿名なるものは大きく分けて「無記名」(完全な匿名)、「自分がいつも使ってるHN」、「捨てハン」(そのときだけ使う名前)の3種類になる。

 また匿名問題を考える場合には、書き込むときの「シチュエーション」も合わせて検討する必要がある。こっちは無限にパターンがあるが、代表的なモデルケースをあげればこんな感じだ。

1 他人の行動や言動、持論に反論したり、それについて議論する(対立しがち)。

2 客観的なことがら(出来事や概念など)について、他人と議論する。

3 他人にアドバイスする。

4 何かに関する感想を述べ合う。

5 内部告発する。または外部の人間が告発する。

 では、上にあげた匿名の種類とモデルケースについて、順列組み合わせでセットにしてみよう。ただし匿名問題は人によってまるで意見がちがう。よって、これはあくまで私個人の考えであることを前置きしておく。

 まず他人の行動や言動、持論に反論するときはどうか? この場合、相手がネット上で実名を掲げているなら、自分も実名で反論するのが望ましい。

 たとえばAさんが実名で「○○は××である」と持論を言うとき、Aさんは実名を出すことでリスクを背負っている。リスクとは言い換えれば、「自分の言動に責任をもつ」ということだ。実名でテキトーなことを書いたり、事実とちがうことを主張すれば、Aさんはヘタすると社会的生命を失う可能性すらある。いいかげんなことができないのだ。

 一方、そのAさんに対し、Bさんが匿名で反論するのはカンタンだ。もし自分の主張がまちがっていても、Bさんは匿名だから何も失うものはない。裏を返せばBさんは、いいかげんな言説を意図的にぶつけ、Aさんのイメージを貶めることさえできる。

 この点について考えるいい材料になるのが、ブログ「綾繁重工杜内報」の「いそはち」氏の問題提起だ。「いそはち」氏はエントリー「弁解…のようなもの」の中で、こう書いている。

「自分が思うに、何かしらの情報発信を行う者はその責任を負う義務があり、その情報の発信者の記載は(例えば、署名)必要とは感じます。が、それが実名である必然性は、果たして? ということ。

 例えば私が事実と異なる情報を流布したことで、その責任を問われる事態となった場合、警察の捜査によって自分の身元特定がなされます。それで充分なのではないかと」(一部、改行した)

 一見、正論なのだが、実はこれは「シチュエーション」による話だ。

 たとえば実名を掲げて書いているAさんに関して、Bさんがあることないこと悪意の言説をふりまいたとしよう。で、仮にBさんが刑事犯になって逮捕されたとする。だがいったんついてしまったAさんのマイナスイメージは、払拭するのがすごくむずかしい。

 極論すれば、Bさんが逮捕されようがされまいが、Aさんにとってそんなことは関係ないとさえいえる。

 匿名問題とは関係ないが、JR品川駅で手鏡を使い、女性のスカートをのぞいたとして逮捕された植草一秀・元早大大学院元教授の例を考えればわかりやすい。仮にまったくの冤罪だったとしても、植草元教授が「偏見の目」で見られないようになるまでの道のりは限りなく遠い。

 また実際には、警察沙汰にならない範囲で、かつAさんが致命的なダメージを蒙るケースはたくさんある。

 あるいは「イメージ」ではなく、物理的な実害を考えてみよう。Bさんとのやり取りが原因で、Aさんが職を追われたとする。この場合、そのあとでBさんが逮捕されたとしても、Aさんが復職するのはむずかしいだろう。またBさんが刑法に触れない悪意の仕掛けをし、けれどもAさんが失職する可能性などいくらもある。

 リスクをしょって言動に責任を負う実名のAさんと、テキトーなことをやっても被害がない完全匿名のBさん。どだいこの2人が議論するのは、どうしたってフェアじゃないのだ。

 また害うんぬんだけじゃない。Bさんが匿名であることにより、議論全体の「確からしさ」や「話し合いが有意義であること」が担保されないケースは当然出てくる。

 たとえば脳機能学者の苫米地英人氏は、このところ立て続けに匿名の弊害を考察するエントリーを公開されている。氏の場合は匿名についてかなり厳格にお考えになっているようだ。それらのうちジャーナリズムやコメント削除についても書かれているものを、参考までにひとつだけあげておく。

「ブログ、実名か虚名か?」

 何度も同じテーマでお書きになっていることから考えれば、相当、思われるところがあるのだろう。

 ただ、私の場合は氏の考えに大筋うなずきながらも、どこか人間を信じたい部分がある。たとえ実名と匿名が入り乱れても、なんとか何も問題が起こらず有意義な場ができないものか、と思ってしまう。

 またもうひとつ、ネットにおける実名制度にどこまで現実味があるか? の問題もある。現状、みんながみんな、実名でネットをするというのは、やはり現実的じゃないだろう(将来的にはそうなるのかもしれないが)。

「実名には実名で」を絶対条件にすると、ものを言えなくなる人がたくさん出るはずだ。ネットはせっかく広く開かれた世界なのに、それではネット上で議論できるチャンスが減ってしまう。

 また第3の理由として、匿名でなければ実現できない「意味あること」や、「匿名ゆえの面白み」というのもネットにはある。これについては後述する。

 で、次善の策として、実名のAさんに反論するなら最低限、Bさんは「自分がいつも使っているHN」や「自分のブログ等のURL」を明示すべきだと私は考える。もちろんHNやURLは詐称できるし、本人確認なんてできない。だからあくまで紳士協定みたいなもんだ。

 では「本物」のHNやURLを出すのは、どんな意味があるのか? たとえばHNやURLを明かした上で誹謗中傷したり、いいかげんなことを主張すれば、BさんはそのHNやURLを二度と使えなくなる可能性がある。

 で、HNを作り直して友だちに告知したり、サイトを引っ越すハメになる。これってめんどくさいし、お金がかかる場合もある。もし私ならゴメンだ。こういうリスクを背負うぶん、Bさんは自分の言動に「確からしさ・誠実さ」を心がけるようになるはずだ。

 前出の「いそはち」氏は同じエントリーで、「早い話、ハンドルネームと実名が紐付けされていればいいんですよ」とする。この考えに近いかもしれない。だがもっと踏み込めば、コミュニケーションの確からしさや生産性さえ確保できれば、「実名に紐付けられなくてさえいい」のである(もちろん私の個人的な考えだ)。

 実名やHN、URLはあくまで「手段」であり、目的は「議論を有意義、かつ生産的なものにすること」である。だから目標を達成できるなら、手段は別にHNやURLでなく何かほかの新しいシステムでもいい。

 理想論にすぎないと笑われるかもしれないが、もっと言うなら仮にすべての人が公明正大で生産的な話し合いをしたいと願ってさえいれば、しくみなんて何もなくたってOKなのだ。

 とはいえ現状、現実的な解は「なんらかの名称」だから、それについてもう少し考えてみよう。

 次に想定できるケースは、実名ではなくHNで持論を述べる人に反論したり、彼と議論するときだ。これにはもちろんHNでいいだろう。まあ実名を出したきゃ、本人の勝手である。

 で、このときHNは、議論する相手を識別するための「記号」として機能する。「無記名」では、いったいだれが反論してきたんだかわからない。たがいに意見交換するのが不便でしょうがない。また実名ではなくHN 対 HNなら立場は対等だ。とすればこの場合、HNは議論の利便性を高めるための符号になる。

 それなら上に上げた「2」はどうか? 誰かの持論に対してでなく、客観的なことがら(出来事や概念など)について第三者的に議論する場合だ。

 これだと「1」とくらべて、相手の尊厳を傷つける可能性は低くなる。ただしやり取りがヒートアップすれば別だ。揚げ足取りになったり、誹謗中傷になるんじゃ時間のムダだ。やっぱり相手が実名ならば、「いつも使っているHN」でやり取りするのがベストだと思う。

「3」の「誰かにアドバイスするとき」も、HN 対 HNでOKだろう。実名の人に善意でアドバイスしようとしてるのに、「オレは実名だからあんたも実名でアドバイスしろ」なんてのはギャグだ。善意にもとづきアドバイスが行われる限り、別に「無記名」でもいいかもしれない。とはいえ1回だけのやり取りでは済まず、継続的にレスしあうなら識別記号はあったほうが便利だろう。なら捨てハンでもええわな。

 また「4」の何かに関する感想を言い合う場合も同じだ。ただしこれについては「無記名」で、かつ、脊髄反射しあってこそ成立する「面白いコミュニケーション」、「匿名ならではの瞬間芸」ってのはありえる。だから私は名前にこだわる必要はないと思う。

 というか私はとにかく「面白いこと」が大好きなので、実名にしたせいでこのテの芸やユーモアが絶滅するんだとしたら、とっても残念なのだ。

 実のところ、ホントに面白い人が定期的に私のブログのコメント欄にやってきたとする。で、無記名でなきゃできないめちゃんこオモロイ芸をかまして笑わせてくれるなら、まあ10回に1回くらいは別のヤツに無記名でボロクソ叩かれてもしようがないかな、とすら思っている(あっ。や、聞かなかったことにしてくれ)。

 さて、最後に「5」の不正を告発する系の番だ。こいつは匿名じゃなきゃできないケースのほうが多いだろう。だから名無しはアリ。あくまで告発者の安全を保証するのが最優先だ。ただしこれは内部告発なのか、外部の人間なのかにもよる。また実名で告発しても被害を蒙らない場合もある。だからいちがいにはいえない。ケース・バイ・ケースだ。

 まとめると、その人固有の名称(実名やHN)には2つの機能がある。1つはコミュニケーションに責任をもたざるをえなくなる「お札(おフダ)」としての働き。そしてもう1つは相手を識別しやすくするための記号性である。

 現状、実名でブログをやってる人は、ビジネス目的以外ではごく少数だ。だからみんな、前者の「お札」機能はピンとこないかもしれない。けど、実際に実名で書くとホント実感するぞ(笑)。現に私なんか、いったん書いた下書きを「こりゃヤバイな」と思って書き直すこともけっこうあるしな。

 私の場合は仕事で署名原稿をさんざん経験してるが、ブログと仕事の文章じゃぜんぜんちがうんだよ、感覚が。なんかブログだと、催眠術にかかったようになぜか匿名で書いてるような気分になるんだ(これがネットの魔力か? でも仕事でWebにも書いてるしなあ)。

 んで、公開してから、「あっ、この原稿って、現実世界で知り合いの○○さんが読むかもしれないじゃん。とするとアレがああなってこうなって……うへ、やべっ」みたいな瞬間があるんだわ。ホント、危ない橋を渡ってるよなあ、わし(笑)。

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