■あなたはクリスマスに1人でいられるか?
現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。
現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。
たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか?
バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか?
そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか?
他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。
■お茶の間で歌われた家族のためのコミュニケーション・ソング
だがコミュニケーション・ツールとして機能する音楽の系譜は、筆者のrmxtoriさんがおっしゃるような10年前だけでなく、もっと前の時代にも存在した。
たとえば450万枚以上を売り上げた子門真人の『およげ!たいやきくん』(1975年)は、当時まだ日本に存在したお茶の間で、家族みんなに歌われた。あるいは西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)もそうだ。
まだ小学生の息子からおばあちゃんまで家族全員が仲よく居間に並び、テレビを前に同じ歌を同じように口づさんだ時代だった。それは家族の関係性のためのコミュニケーション・ソングである。
ところが核家族化が進み、夫婦と1人の子供で構成される3人の家族においてさえ「お茶の間」はなくなった。
今では家族1人1人がそれぞれの個室で別のテレビを観ているか、そのテレビさえ消えてなくなっている。下手をすると各人が、自分の部屋でてんでにインターネットしていたりする。
これだけ人間の関係性が変われば、かつてのようなコミュニケーション・ソングは成立しないし、必要ない。
■パラレルなコミュニケーションの時代に生き残った音楽たち
だが家族で歌うためのテーマソングはお茶の間から消えても、コミュニケーション・ソングは生き永らえた。それがrmxtoriさんのお書きになった10年前の状況だ。
家族とは、「親と子」、「祖父と母」みたいな垂直のコミュニケーションである。一方、rmxtoriさんが例示した「学校や職場の友達同士」のそれは、パラレルなコミュニケーションだ。
垂直のコミュニケーションは世代間断絶を生みやすく、それゆえに70年代型のコミュニケーション・ソングは死んだ。なぜなら「宿主」だったスタンダードな家族像そのものが死滅したからだ。
それに対してパラレルなコミュニケーションには、年代差という絶縁体はない。だからより伝播力、浸透力が強い。
で、70年代から80年代をへて10年前に生き残ったのは、水平に伝わる90年代型のコミュニケーション・ソングだった。
恋人たちは同じ立ち位置と目線から、たがいに目と目で見つめ合う。そして彼らはドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌である『ラブ・ストーリーは突然に』(1991年)を聞き、ともに泣くことで2人の愛を確認した。
CDがドンドコ売れた90年代の幕開きである。
■CDが売れないってどこの世界の出来事なの?
rmxtoriさんが言及されてない古い時代を補足する形にはなったが、このへんの私の時代認識はrmxtoriさんのそれに近い。
ただし極めて個人的な実感を言えば、CDが売れないってどこの世界の出来事なの? という感じがする。不思議なものだ。
例えば私事で恐縮だが、私は昨年11月の2週間で、ブラッド・メルドーのCDを合計15枚くらいアマゾンとHMVで購入した。クレジット払いがきくネット通販は、金を浪費しちゃった感がない。だから気が向いたときにガーッと買ってしまう。私のCDの買い方は、いつもこんなふうだ。
とすれば結局、CDの売れ方は個によってちがうんじゃないだろうか?
マスコミを販促ツールにして策を弄する業界側は、自分たちが食うためにコンシューマを関係性の病に落とし込もうとする。わかりやすい例で言えば、バレンタインデーにチョコが売れたり、人々がクリスマスに1人でいられなくなる構造である。かくて業界側はマスコミを通して人々を洗脳し、モノを売り上げ収益を上げる。
で、コンシューマは90年代に引き続き今も関係性の病にかかったままなんだけど、音楽がそのためのツールたりえなくなったからCDが売れなくなったんだ、というのが元記事の論理だ。
だけど「あなたはクリスマスに1人でいるんですかぁ?」と煽られたって不安にならない個の確立した人もいる。そういう人は業界側が「かかれ」と念じる関係性の病にもかからない。で、結果的にCDを買わないという時代のトレンドともまるで無縁でいる。これは論理的にありえることだ。
【本日の結論】
CDが売れる、売れない、って実は世の中全体に言えることじゃなく、個によってちがう話ではないだろうか?
ある人は相変わらずバンバン買っている。だけどめっきり買わなくなった人も多い。だから総体としてCDの売り上げは落ちてしまった。
しかし今でも買ってる人にとっては、「CDが売れなくなった。音楽業界は覚悟する必要があるぞ」って、いったいどこの世界の話なの? てな感じだ。つまり音楽地図の上でロングテールのしっぽにいる人には実感がわかない。
もちろんボリュームゾーンになっているヘッドの部分は、そりゃうんざりするほど商業主義化してるんだろう。だけどヘッドの部分だけを称して「CDは売れなくなった。終わりだ」と言われても、しっぽの人たちには関係ないし同意もできない。
結論としてCDが売れる、売れない、って、やっぱり個によってまるで実感がちがうのだろう。
【関連記事】
『CDが売れない「本当の理由」』
(追記)この記事を公開した後、あちらの筆者rmxtoriさんが以下の最新エントリをお書きになっていることに気づいた。行き違いになったので追記だけしておく。
●くだらない踊り方『音楽の「質」の話とか』
前半でわかりやすい交通整理をされているので、興味のある方は一読をおすすめしたい。また後半で展開している複数の論点もおもしろい。私もあらためて記事を書き、このエントリに言及するかもしれない。(2008年1月6日)
現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。
現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。
たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか?
バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか?
そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか?
他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。
音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。
それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。
●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』
■お茶の間で歌われた家族のためのコミュニケーション・ソング
だがコミュニケーション・ツールとして機能する音楽の系譜は、筆者のrmxtoriさんがおっしゃるような10年前だけでなく、もっと前の時代にも存在した。
たとえば450万枚以上を売り上げた子門真人の『およげ!たいやきくん』(1975年)は、当時まだ日本に存在したお茶の間で、家族みんなに歌われた。あるいは西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)もそうだ。
まだ小学生の息子からおばあちゃんまで家族全員が仲よく居間に並び、テレビを前に同じ歌を同じように口づさんだ時代だった。それは家族の関係性のためのコミュニケーション・ソングである。
ところが核家族化が進み、夫婦と1人の子供で構成される3人の家族においてさえ「お茶の間」はなくなった。
今では家族1人1人がそれぞれの個室で別のテレビを観ているか、そのテレビさえ消えてなくなっている。下手をすると各人が、自分の部屋でてんでにインターネットしていたりする。
これだけ人間の関係性が変われば、かつてのようなコミュニケーション・ソングは成立しないし、必要ない。
■パラレルなコミュニケーションの時代に生き残った音楽たち
だが家族で歌うためのテーマソングはお茶の間から消えても、コミュニケーション・ソングは生き永らえた。それがrmxtoriさんのお書きになった10年前の状況だ。
もともと志の高くない音楽のユーザーとは、純粋な意味での音楽ファンではない。
彼らにとっては音楽は、所詮ツールであり、媒介だった。
10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした。(中略)
学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。
だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。 ●同
家族とは、「親と子」、「祖父と母」みたいな垂直のコミュニケーションである。一方、rmxtoriさんが例示した「学校や職場の友達同士」のそれは、パラレルなコミュニケーションだ。
垂直のコミュニケーションは世代間断絶を生みやすく、それゆえに70年代型のコミュニケーション・ソングは死んだ。なぜなら「宿主」だったスタンダードな家族像そのものが死滅したからだ。
それに対してパラレルなコミュニケーションには、年代差という絶縁体はない。だからより伝播力、浸透力が強い。
で、70年代から80年代をへて10年前に生き残ったのは、水平に伝わる90年代型のコミュニケーション・ソングだった。
恋人たちは同じ立ち位置と目線から、たがいに目と目で見つめ合う。そして彼らはドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌である『ラブ・ストーリーは突然に』(1991年)を聞き、ともに泣くことで2人の愛を確認した。
CDがドンドコ売れた90年代の幕開きである。
■CDが売れないってどこの世界の出来事なの?
rmxtoriさんが言及されてない古い時代を補足する形にはなったが、このへんの私の時代認識はrmxtoriさんのそれに近い。
ただし極めて個人的な実感を言えば、CDが売れないってどこの世界の出来事なの? という感じがする。不思議なものだ。
例えば私事で恐縮だが、私は昨年11月の2週間で、ブラッド・メルドーのCDを合計15枚くらいアマゾンとHMVで購入した。クレジット払いがきくネット通販は、金を浪費しちゃった感がない。だから気が向いたときにガーッと買ってしまう。私のCDの買い方は、いつもこんなふうだ。
とすれば結局、CDの売れ方は個によってちがうんじゃないだろうか?
マスコミを販促ツールにして策を弄する業界側は、自分たちが食うためにコンシューマを関係性の病に落とし込もうとする。わかりやすい例で言えば、バレンタインデーにチョコが売れたり、人々がクリスマスに1人でいられなくなる構造である。かくて業界側はマスコミを通して人々を洗脳し、モノを売り上げ収益を上げる。
で、コンシューマは90年代に引き続き今も関係性の病にかかったままなんだけど、音楽がそのためのツールたりえなくなったからCDが売れなくなったんだ、というのが元記事の論理だ。
だけど「あなたはクリスマスに1人でいるんですかぁ?」と煽られたって不安にならない個の確立した人もいる。そういう人は業界側が「かかれ」と念じる関係性の病にもかからない。で、結果的にCDを買わないという時代のトレンドともまるで無縁でいる。これは論理的にありえることだ。
【本日の結論】
CDが売れる、売れない、って実は世の中全体に言えることじゃなく、個によってちがう話ではないだろうか?
ある人は相変わらずバンバン買っている。だけどめっきり買わなくなった人も多い。だから総体としてCDの売り上げは落ちてしまった。
しかし今でも買ってる人にとっては、「CDが売れなくなった。音楽業界は覚悟する必要があるぞ」って、いったいどこの世界の話なの? てな感じだ。つまり音楽地図の上でロングテールのしっぽにいる人には実感がわかない。
もちろんボリュームゾーンになっているヘッドの部分は、そりゃうんざりするほど商業主義化してるんだろう。だけどヘッドの部分だけを称して「CDは売れなくなった。終わりだ」と言われても、しっぽの人たちには関係ないし同意もできない。
結論としてCDが売れる、売れない、って、やっぱり個によってまるで実感がちがうのだろう。
【関連記事】
『CDが売れない「本当の理由」』
(追記)この記事を公開した後、あちらの筆者rmxtoriさんが以下の最新エントリをお書きになっていることに気づいた。行き違いになったので追記だけしておく。
●くだらない踊り方『音楽の「質」の話とか』
前半でわかりやすい交通整理をされているので、興味のある方は一読をおすすめしたい。また後半で展開している複数の論点もおもしろい。私もあらためて記事を書き、このエントリに言及するかもしれない。(2008年1月6日)