ちょっと前にブログ「~大ブロ式~」さんからご指名でトラバをもらってたんだけど、反応しそこねてた。で、2点に絞って反応してみる。1点は「参加型ジャーナリズム」なるものが、いわゆる衆愚に陥る可能性について。もう1点は民主主義と衆愚のあやうい関係についてだ。
まず初めにお断りしておくが、私自身はことさら「ジャーナリズム」なる言葉を使う気はあんまりないし、それについてうんぬんするつもりもない。このエントリーはあくまで「~大ブロ式~」さんのトラバに対するリアクションだ。
さて「~大ブロ式~」さんの『ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論』を読むと、「~大ブロ式~」さんが考える発端になったのは、私が湯川さんの「参加型ジャーナリズム」にツッコミを入れたエントリーを読んだのがきっかけらしい。
で、以下、2点だけ、みんなで考える材料を作るために、あえて問題提起をしておきたい。田原総一郎風にいえば、「あえて暴論を言います」ってやつだ(笑)。
【1】~大ブロ式~『(1)「ジャーナリズム」の定義』
まあそりゃユーザー自身が情報の優先順位を決める、って方法もアリだとは思うよ。だけどそうなると必然的に、私が上記のエントリーで書いたように最大公約数のネタが誌面にならぶことになる。でも私自身は「みんなが同じように興味のあるお題」ってあんまり読む気がしない。
「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。
もうひとついえることは、テレビや雑誌はもう十分に、いかにもユーザー自身が「価値がある」と判断しそうなテーマで作られてる、ってことだ。つまりマスコミの商業主義である。
ブロードバンド・コンテンツといえば、どこもかしこも韓流を大々的に取り上げるし、実際にそういう紙面構成・サイト構成をした媒体が売れる。2月になればそこらじゅうがバレンタイン・デー特集だらけだし、これから10月になったら温泉特集なわけよ。見ててみな、必ずそうなるから(笑)。
で、こういう造りの媒体が現実に「売れる」というのは、すなわちユーザー自身が価値判断をしてそれを「買ってる」ってことなわけだ。
つまり現状は、たまたま編集者やらライターやらがメディアの側にいてコンテンツを作ってるわけだけど、内容的にはもうゲップが出るほどユーザー自身の価値判断にもとづいて誌面が作られてる、ってことね。だって現にそれで「売れてる」んだから。
ゆえに「価値判断はユーザーがすべきだ」というほりえもんさんの言葉って、別に革命的でもナンでもない。というよりむしろ彼の発言は、とにかく人気のあるテーマを扱って売れる部数をふやそう(商業主義)=すでにいまマスコミが採用している既定路線の拡大再生産にすぎない。
【中間まとめ】
メディア側の最大の関心事は、売れるかどうか? である。彼らは売れるものを作るために、ユーザーに支持されそうなテーマ選び、切り口の設定をする。売れるとはすなわち、ユーザー自身の価値判断そのものにほかならない。
政治家は有権者の「映し絵」である、って言葉がある。それはマスコミだって同じだ。メディア側があたかも、ユーザー自身の価値判断とは異なる何かを作っているかのように感じるのは、大いなる幻想である。
次は第二のポイントだ。
【2】~大ブロ式~『(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである』
ただし私の個人的な意見を言えば、「誰もが参加できるジャー○○ズム(あえて伏字)」って、実はインターネットそのものなんだけどね。私の考えでは。
それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。この点にスポットを当て、最後にひとつだけ問題提起しておこう。
「~大ブロ式~」さんや湯川さんのマスコミ民主化理論を突き詰めていくと、必ず「衆愚なるものが抱える問題点」に行き着く、ってことだ。これって民主主義の永遠のテーマみたいなもんで、私の知る限りじゃカンタンな処方箋はない(あったらゴメン)。
「参加型ジャーナリズム」って要するに、大マスコミ(資本家)が独占しているジャーナリズムの世界に共産主義革命を起こし、ジャーナリズムを民衆(労働者階級)の手に取り戻そう、みたいな話でしょ? たとえていえば。つまりジャーナリズムの民主化みたいなことだよね。
で、革命を起こしたあとに、人々はジャーナリズムを民主主義にのっとって運営しようとするわけだ。ところが民主主義による意思決定っていうのは、最終的には多数決になる。もちろんその前提として、いろんな意見をもつ人々があれこれ議論したあとで決を採るわけだけど。
さてここで民主主義と衆愚のあやうい関係が浮上する。これは民主主義につきまとうパラドックスみたいなものだ。
たとえば100人中、99人の人が「韓流はおもしろい」ってことになれば、誌面は民主的に韓流一色になる。99人が「10月だから温泉に行きたい」と考えれば、誌面は同じく民主的に「温泉特集一色」になる。
そういう画一的な世界って、おもしろいの? てな話である。
で、そんな状況を打ち破るのがインターネットなわけだが、この話を続けると以前書いたことの繰り返しになるのでここではふれない。興味がある人は以下のエントリーをお読みいただきたい。
『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』
「主義」と名のつくものに、完全無欠なものなんてない。民主主義って絶対的な真理だと思ってる人も多いだろうけど、民主主義にも必ず弱点はある。それが衆愚に陥る可能性だ。
チャーチルいわく、「民主主義は最悪のシステムだ。しかし、それ以外のどのシステムよりもましだ」。要はそういうことなのである(どういうことだ?)。
話をわかりやすくするために、極端な例をあげよう。仮に100人中、99人がこう考えたとする。
「オレらの国は、いま経済が傾いてるよなあ。こりゃもう戦争をして植民地を作るしかテがないわ」
これで民主的に、戦争が始まる。
【本日の結論】
世の中には、絶対的な真理なんてない。だからつねに疑う心をもて。目の前で繰り広げられてる言説は、はたして「正しい」のか? 自分の頭を使って、客観的に考えろ。
それこそが、ジャーナリスティックな生き方である。
まず初めにお断りしておくが、私自身はことさら「ジャーナリズム」なる言葉を使う気はあんまりないし、それについてうんぬんするつもりもない。このエントリーはあくまで「~大ブロ式~」さんのトラバに対するリアクションだ。
さて「~大ブロ式~」さんの『ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論』を読むと、「~大ブロ式~」さんが考える発端になったのは、私が湯川さんの「参加型ジャーナリズム」にツッコミを入れたエントリーを読んだのがきっかけらしい。
で、以下、2点だけ、みんなで考える材料を作るために、あえて問題提起をしておきたい。田原総一郎風にいえば、「あえて暴論を言います」ってやつだ(笑)。
【1】~大ブロ式~『(1)「ジャーナリズム」の定義』
だがより本質的に考えるなら変わっているのはジャーナリズムの「定義」ではないのだとオレは思う。変わっているのは基準やそれを決める主体の方だ。ほりえもんさんのこの言説に対しては、私は以前書いたエントリーですでにツッコミを入れてるので、そちらをご参考に。内容が重複するから、ここではカンタンにまとめておこう。
そして今言われているジャーナリズムの変化が本当に変革と呼べるような大きなものであるのなら、そこで変わろうとしているのはまさしく「主体」の方であると考えられる。
・「誰が」情報の格付け、優先順位を決めるのか
問題はここだ。
そしてここまで考えればライブドアの堀江社長の言った「価値判断はユーザーがすべきだ」というのは正しくジャーナリズムに対する革命的な言葉であった事が分かる。
まあそりゃユーザー自身が情報の優先順位を決める、って方法もアリだとは思うよ。だけどそうなると必然的に、私が上記のエントリーで書いたように最大公約数のネタが誌面にならぶことになる。でも私自身は「みんなが同じように興味のあるお題」ってあんまり読む気がしない。
「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。
もうひとついえることは、テレビや雑誌はもう十分に、いかにもユーザー自身が「価値がある」と判断しそうなテーマで作られてる、ってことだ。つまりマスコミの商業主義である。
ブロードバンド・コンテンツといえば、どこもかしこも韓流を大々的に取り上げるし、実際にそういう紙面構成・サイト構成をした媒体が売れる。2月になればそこらじゅうがバレンタイン・デー特集だらけだし、これから10月になったら温泉特集なわけよ。見ててみな、必ずそうなるから(笑)。
で、こういう造りの媒体が現実に「売れる」というのは、すなわちユーザー自身が価値判断をしてそれを「買ってる」ってことなわけだ。
つまり現状は、たまたま編集者やらライターやらがメディアの側にいてコンテンツを作ってるわけだけど、内容的にはもうゲップが出るほどユーザー自身の価値判断にもとづいて誌面が作られてる、ってことね。だって現にそれで「売れてる」んだから。
ゆえに「価値判断はユーザーがすべきだ」というほりえもんさんの言葉って、別に革命的でもナンでもない。というよりむしろ彼の発言は、とにかく人気のあるテーマを扱って売れる部数をふやそう(商業主義)=すでにいまマスコミが採用している既定路線の拡大再生産にすぎない。
【中間まとめ】
メディア側の最大の関心事は、売れるかどうか? である。彼らは売れるものを作るために、ユーザーに支持されそうなテーマ選び、切り口の設定をする。売れるとはすなわち、ユーザー自身の価値判断そのものにほかならない。
政治家は有権者の「映し絵」である、って言葉がある。それはマスコミだって同じだ。メディア側があたかも、ユーザー自身の価値判断とは異なる何かを作っているかのように感じるのは、大いなる幻想である。
次は第二のポイントだ。
【2】~大ブロ式~『(2)はてなブックマークは(市民)参加型ジャーナリズムである』
ここで改めて一番最初の記事の湯川さんへの松岡さんの突っ込み「質を問うことと誰もが平等に参加できる事の矛盾」に答えたいです。要するにはい、矛盾はないです。
誰もが参加できるジャーナリズムとはソーシャルブックマークの事である。そこでは基本的には誰もが平等に一票の影響力を持つ事ができる。だが「たくさんブックマークされる記事」やそれを書く人は極わずか。そこでは当然にして質が問われる。
という事。(まぁ質が高いから多くブクマされるわけではないのだけど)
これで何の矛盾もないと思うのだけどどうだろうか。
ただし私の個人的な意見を言えば、「誰もが参加できるジャー○○ズム(あえて伏字)」って、実はインターネットそのものなんだけどね。私の考えでは。
それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。この点にスポットを当て、最後にひとつだけ問題提起しておこう。
「~大ブロ式~」さんや湯川さんのマスコミ民主化理論を突き詰めていくと、必ず「衆愚なるものが抱える問題点」に行き着く、ってことだ。これって民主主義の永遠のテーマみたいなもんで、私の知る限りじゃカンタンな処方箋はない(あったらゴメン)。
「参加型ジャーナリズム」って要するに、大マスコミ(資本家)が独占しているジャーナリズムの世界に共産主義革命を起こし、ジャーナリズムを民衆(労働者階級)の手に取り戻そう、みたいな話でしょ? たとえていえば。つまりジャーナリズムの民主化みたいなことだよね。
で、革命を起こしたあとに、人々はジャーナリズムを民主主義にのっとって運営しようとするわけだ。ところが民主主義による意思決定っていうのは、最終的には多数決になる。もちろんその前提として、いろんな意見をもつ人々があれこれ議論したあとで決を採るわけだけど。
さてここで民主主義と衆愚のあやうい関係が浮上する。これは民主主義につきまとうパラドックスみたいなものだ。
たとえば100人中、99人の人が「韓流はおもしろい」ってことになれば、誌面は民主的に韓流一色になる。99人が「10月だから温泉に行きたい」と考えれば、誌面は同じく民主的に「温泉特集一色」になる。
そういう画一的な世界って、おもしろいの? てな話である。
で、そんな状況を打ち破るのがインターネットなわけだが、この話を続けると以前書いたことの繰り返しになるのでここではふれない。興味がある人は以下のエントリーをお読みいただきたい。
『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』
「主義」と名のつくものに、完全無欠なものなんてない。民主主義って絶対的な真理だと思ってる人も多いだろうけど、民主主義にも必ず弱点はある。それが衆愚に陥る可能性だ。
チャーチルいわく、「民主主義は最悪のシステムだ。しかし、それ以外のどのシステムよりもましだ」。要はそういうことなのである(どういうことだ?)。
話をわかりやすくするために、極端な例をあげよう。仮に100人中、99人がこう考えたとする。
「オレらの国は、いま経済が傾いてるよなあ。こりゃもう戦争をして植民地を作るしかテがないわ」
これで民主的に、戦争が始まる。
【本日の結論】
世の中には、絶対的な真理なんてない。だからつねに疑う心をもて。目の前で繰り広げられてる言説は、はたして「正しい」のか? 自分の頭を使って、客観的に考えろ。
それこそが、ジャーナリスティックな生き方である。
内容に関してはおおよそ異論はないです。元々認識としては松岡さんの方に近いと思ってはいたので。
ただ【1】の引用部分はその後にこれではもう一歩足らないと書いたわけで自分の最終的結論は情報の格付けをする新しい主体は「個」である、という話になるわけです。でだからこそいわゆるランキングとはてなブックマークがいかに違うかという話をしてるので
>それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。
とあっさり言われてしまうと凹みます。
でこの個であるということの意味がイマイチうまく書けてないな~というのがあったんですが
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050906#p01
こちらの「圏外からひとこと」のessaさんの記事が参考になるかと思います。というかオレはなりました。凄く近いこと書いてるな~と思ったらご本人からも同意コメントもらえたので要するにこういうことなんだろうと思います。
あとオレも民主主義はってか「主義」は嫌いですよ~
それをいかに乗り越えるかって話なんだと思ってるんすけどね・・・
>自分の最終的結論は情報の格付けをする新しい主体は「個」である、という話になるわけです。
全面的に同意です。で、ものごとをジャッジする主体が「個」であるならば、マスコミごときが何を言おうがシカトしてればいいって話ですよね。ところが現実には、それらは「売れている」んです。私はこの矛盾点について書き、問題提起しています。「ではなぜ人々は買うのをやめないのか?」ということですね。
>でだからこそいわゆるランキングとはてなブックマークがいかに違うかという話をしてるので
>>それからおっしゃる通り、「はてブ」も「人気ブログ・ランキング」のたぐいと同じく、必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない。
>とあっさり言われてしまうと凹みます。
これは意味がよくわかりません(^^;
>それをいかに乗り越えるかって話なんだと思ってるんすけどね・・・
はい。私もまさにその視点で書いています。では、私が書いたことを以下にわかりやすく説明しますね。
「個」を主体にした民主的なシステムを作りました、と。ただしそのシステムにだって必ず弱点はある。それが「衆愚」に陥る可能性だ。だから「個」を主体にした民主的なシステムを作った場合には、常に個々人が「いま、このシステムは衆愚に陥ってないかどうか?」に自覚的であるべきだ。「いま、このシステムは衆愚に陥ってないかどうか?」を、1人1人がいつも頭の片隅に置いておくこと。そして自分の頭で考えてそれをジャッジできるだけの感性を磨いておくこと。すなわちそれが「民主主義(の弱点を)いかに乗り越えるか?」に対する回答である。
私が書いたことの主旨は、こういうことです。これで意味はわかりましたか?
いやこれが分かってなかったです。ここが重要と言うかどうなのかが謎だったので。
そういうことならおっしゃってる意味は分かります。
でも気になるのは
>でも私自身は「みんなが同じように興味のあるお題」ってあんまり読む気がしない。
「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。
この文章なんですけどこれは単に松岡さんの個人的な意見ということでしょうか?それとも松岡さんが想定している新しい個というのはこういうものだということでしょうか?
あえて暴論というとオレはこれがひょっとすると暴論かなと思います。
それ以外はオレも全面的に同意です。
>これは意味がよくわかりません
あとこれについてはいわゆるランキングと違うという話がオレの話の肝なので同じということだけ書かれると誤解されるかなと思ったので書きました。その後に湯川さんの話といっしょくたにされてもいますので。一生懸命その違いを書いたわけなのでw
「いま、韓流がホットですよぉ」とか、「モヒカン族と非モテが、いまやネット界じゃトレンドになってますよぉ」なんていわれても興味がわかないのだ。
>この文章なんですけどこれは単に松岡さんの個人的な意見ということでしょうか?
はい、そうです。ですから私は「私自身は」と書いてるわけです。
>あとこれについてはいわゆるランキングと違うという話がオレの話の肝なので同じということだけ書かれると誤解されるかなと思ったので書きました。
これは、
1 読者が「おもしろい」と感じたときに投票するタイプの「人気ブログ・ランキング」のたぐい
2 「はてなブックマーク」
上記の1と2が、「ちがう」という意味ですよね? 私はどちらも同じ問題点をもっていると感じたので、このエントリーでそれを指摘したのです。その問題点とはすなわち、「必ずしも質が高いものにたくさんの点数がついてるわけじゃない」ってことですね。
いや~でも同じように感じてる人は結構多いように思うんでそれもありかと思ったんすけどね。やっぱ違いますかー。それじゃ少なくともオレにとってはこの記事はけっして暴論ではないです。
>上記の1と2が、「ちがう」という意味ですよね?
そうです。でオレの場合問題にできるのは出てきた結果でなくプロセスだと思ってるのではっきり言えば結果については殆ど納得はいかないというか大半は多分興味ない。共有すべき情報というのはそういうものだと思ってるので。
ということで言及どうもでした。今回はコメント欄で失礼しましたです。
当然面白いはずはない(それも疑う必要あり?)のですが、
今、すでにそうなっているような気もいたします。
かなり画一化されてきている、と。
「韓流」一つにしてもそうですし、
「記者クラブ」という制度でも批判されているのに手放さない、という話もあるようですし、その記者クラブの拾ってくる情報一つにしても相当画一化されているようですし。
ただ、圧力・自主規制等があればあたりまえのように起こることなんですよねぇ。
ネットを規制する、という話も徐々に出てきているようですし。
>世の中には、絶対的な真理なんてない。だからつねに疑う心をもて。
>目の前で繰り広げられてる言説は、はたして「正しい」のか?
>自分の頭を使って、客観的に考えろ。
> それこそが、ジャーナリスティックな生き方である。
うらやましいですよねぇ。
目の前にあるすべてを疑う、というのは膨大な数です。
それをすべて疑えるのですから、相当時間ありそうですねぇ。
例えの99は極端ではないんですよね。
今の日本はそれが三割で十分。
今回の自民大勝以前から、野党の意見は総て無意味の
レッテルが貼られ、与党内多数の意見が全国民の総意
のように扱われているから。
1億人中の9999万人が望んでいるなら、それも仕方がないと民主主義の帰結として受け容れられても、今の国民の半数以下の意見で総てが決められてしまう現状(その意見も詐欺的に集められたもの)で、この極端な例に該当してしまいかねないんですよね。
ネットか既存メディアか…という話題が、今では何とも虚しく感じてしまいますわ。
「選択と集中」は国としても必要なので、一概に今の選挙制度が悪い…とは言いませんよ。私は。