SNSとブログのちがいは何か? mixiに代表されるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、「あいづちコミュニケーション」の世界だ。趣味や職業、価値観が同じ人たちがコミュニティに集い、「うんうん、そうだよね」と他人にあいづちを打つ。一方、ブログの性格はトラックバックが象徴している。ブログは自分の意見を表明し、トラバを使って「あなたはどう思いますか?」と問いかけるのに向いている。つまり議論志向である。
まずmixiとブログを機能のちがいで分析してみよう。
mixiでは「プロフィール」がとても重要な意味をもつ。プロフィール欄には「趣味」、「職業」、「自己紹介」、「好きな映画」、「好きなスポーツ」、「好きな音楽」などの細かいカテゴリーがある。で、ユーザはそれぞれのカテゴリーに自分の嗜好をくわしく書き込む。
ユーザはプロフィール欄で「自分はこんな人間です」とキャラクターを明かし、自分の「好き」をずらりとならべるわけだ。
そして他人のプロフィールを見て歩き、自分と同じものを好きな人を探す。その人が気に入ったら日記にレスをつけたり、メッセージを送ったりする。
あるいは「同じ職業の人」や「同じ業界の人」を見つけて情報交換したり、仕事上のネットワークを作ろうとする。
おかわかりだろうか? mixiのキーワードは、「同じ」、「好き」、「共感」なのである。
mixiの「コミュニティ」機能はその典型だ。mixi上では、「私は○○が好きだ」、「オレはこう考える」などをテーマに、ユーザが自分好みのコミュニティを作る。で、設定されたテーマに賛同する人だけが、そのコミュニティに加入する。当然、コミュニティのメンバーには、価値観の大きなちがいはない。
任意のコミュニティに集う人たちは、「○○はいいよねえ」、「うんうん、オレも好きなんだよなあ」と、人と同じであることの幸せをわかちあっている。「好み」を媒介にしてみんなが共振しているわけだ。
つまりmixiではすべてのコミュニケーションが、同じものを好きな人同士のあいづちをベースに成立している。いわば「ファンクラブ志向」のコミュニケーションである。
リアルの世界における例をあげよう。たとえばAというミュージシャンのファンクラブがあったとする。ここにはAというミュージシャンを好きな人だけが集まる。ファンクラブにおいては、「Aはすばらしい」という定義が絶対的な真理である。
当然、「オレはAがきらいだ」なんていう異論や、価値観のちがいを唱えるヤツはいない。そもそもファンクラブはそういう場ではない。
この「同じ」と「共振」を接着剤にしたコミュニティのあり方は、日本の社会構造にとてもよく似ている。おらが村で尊ばれるのは、なにより和の精神である。波風を立てないことが重視され、意見がちがえば議論ではなく、調整型(談合)の政治で解決される。
mixiはとっても日本的なシステムなのだ。
じゃあ一方、ブログはどうか?
ブログの最大の特徴はトラックバックだ。「オレはこう思う」と自分の考えをハッキリ書き、引用元のブログにトラバを打つ。あるいは同じテーマを論じているブログにトラバを送る。
このとき送られるトラックバックは、かならずしも賛同の意味であるとはかぎらない。
もちろん、「あなたが書いていることに私はこう共感します」というトラバも送られるだろう。またブログだってmixiと同じように、嗜好が同じ人たちがコミュニケーションすることはできる。
だけどブログの世界はmixiとちがい、同じ価値観の人だけが集まる閉じたコミュニティじゃない。
だから当然、こんなトラバも送られる。
「あなたはこう書いているけど、私の考えはちがいます。私はあなたと異なり、△△は○○だと思います。この私の考えに対し、あなたはどう思いますか?」
ここで議論が生まれる。トラックバックという機能は、議論をするのにとても向いているのだ。
mixiがファンクラブ志向のメディアであるのに対し、ブログはいろんな価値観の人が化学反応を起こす議論志向である。ただし正確にいえば、「議論をする」という性質がワン・オブ・ゼムとして備わったツールである、ということだ。
とすればこんな結論になる。
同じ価値観を他人と共有したい人にはSNSが向いている。逆に以前のエントリーでも書いたように、異なる価値観をたがいに持ち寄り議論することで、自分がいままで想像もしなかったような新しい発見をしたい人はブログをやればいい──。
(※もちろんこれはどっちが正しい、どっちがまちがっている、という問題じゃない。人間同士のコミュニケーションやリレーションシップに何を求めるか? のちがいにすぎない)
ところがコトはそうカンタンにいかない。mixiは、だれかの紹介がなければ入れない敷居があるシステムだ。
一方のブログは、だれでもカンタンに立ち上げることができる。おまけに世間では、「ブログがすごいブームだ」ってことになっている。「じゃあオレもやってみようか」と思うのが自然だろう。
で、本来ならばmixi的なファンクラブ志向のコミュニケーションが向いている人、またはそういうコミュニケーションをしたい人が、SNSとブログのちがいをハッキリ意識することなく、ブログで情報発信するようになる。
だから議論志向のブログをやっていながら、こんな考えをもつ人も出てくる。
【言説A】「ブログでは価値観のちがいを表明してはいけない」
これはファンクラブ志向の典型だ。こうした心理には、日本的な慣習も影響している。自分の考えを表明すれば、ムラ社会に「波風が立つ」からだ。
こう考える人にとっては、議論はただのモメゴトの種にすぎない。ゆえに「他人の意見に合わせるのが正しい」という選択をし、mixi的な「あいづちコミュニケーション」をする。この行動原理は、生産的な議論が苦手な日本人が編み出した生きるための知恵といえるかもしれない。
【言説B】「○○が好きだ、というのはその人の自我そのものだ。それに異議を唱えるのは、相手の人格を傷つけることになる」
客観的なものの見方をする習慣がない日本では、こんな発想をする人が多い。「○○が好き」であることと、「自分自身」を分けて考えられないからだ。「○○が好きであること」を自我から切り離し、「○○が好きな自分」を外側から客観的に見られないのである。
このタイプの人は、「単なる嗜好」にすぎないものが常に自我と同一化している。だから「自分の好きなもの」を否定されると、あたかも自分自身が傷つけられたかのように感じてしまう。
話をまとめよう。【言説A】や【言説B】はファンクラブ志向の発想だ。日本人に多いこのタイプの人がブログ上で意見対立すると、生産的な議論になりにくい。客観的なものの見方に慣れてないために、自分の「意見」や「嗜好」を、自我とは別のものだと認識できないからだ。
で、異なる価値観に出会うと、主観的な感情の波に飲み込まれる。気を悪くする。その結果、誹謗中傷やあげ足取り、あるいは議論に勝つことだけにこだわってしまう。なぜなら「自分の考え」が自我と同一化しているこのタイプの人にとって、議論に勝つことは自我を守ることを意味するからである。
ブログ上の議論で精神的なダメージを受けるのは、とても不幸なことだ。本来なら傷つく必要もないことに、傷ついてしまっているからだ。
だがものごとに対する認知の仕方や思考法を変えれば、異論をぶつけられたってなんでもない。自分とはちがう意見を感情的にならずに受け止め、冷静にロジカルな議論ができるようになる。【言説A】や【言説B】のような発想に陥りがちな人は、自分自身を外側から客観的に観察することから始めてみてはどうだろうか。
まずmixiとブログを機能のちがいで分析してみよう。
mixiでは「プロフィール」がとても重要な意味をもつ。プロフィール欄には「趣味」、「職業」、「自己紹介」、「好きな映画」、「好きなスポーツ」、「好きな音楽」などの細かいカテゴリーがある。で、ユーザはそれぞれのカテゴリーに自分の嗜好をくわしく書き込む。
ユーザはプロフィール欄で「自分はこんな人間です」とキャラクターを明かし、自分の「好き」をずらりとならべるわけだ。
そして他人のプロフィールを見て歩き、自分と同じものを好きな人を探す。その人が気に入ったら日記にレスをつけたり、メッセージを送ったりする。
あるいは「同じ職業の人」や「同じ業界の人」を見つけて情報交換したり、仕事上のネットワークを作ろうとする。
おかわかりだろうか? mixiのキーワードは、「同じ」、「好き」、「共感」なのである。
mixiの「コミュニティ」機能はその典型だ。mixi上では、「私は○○が好きだ」、「オレはこう考える」などをテーマに、ユーザが自分好みのコミュニティを作る。で、設定されたテーマに賛同する人だけが、そのコミュニティに加入する。当然、コミュニティのメンバーには、価値観の大きなちがいはない。
任意のコミュニティに集う人たちは、「○○はいいよねえ」、「うんうん、オレも好きなんだよなあ」と、人と同じであることの幸せをわかちあっている。「好み」を媒介にしてみんなが共振しているわけだ。
つまりmixiではすべてのコミュニケーションが、同じものを好きな人同士のあいづちをベースに成立している。いわば「ファンクラブ志向」のコミュニケーションである。
リアルの世界における例をあげよう。たとえばAというミュージシャンのファンクラブがあったとする。ここにはAというミュージシャンを好きな人だけが集まる。ファンクラブにおいては、「Aはすばらしい」という定義が絶対的な真理である。
当然、「オレはAがきらいだ」なんていう異論や、価値観のちがいを唱えるヤツはいない。そもそもファンクラブはそういう場ではない。
この「同じ」と「共振」を接着剤にしたコミュニティのあり方は、日本の社会構造にとてもよく似ている。おらが村で尊ばれるのは、なにより和の精神である。波風を立てないことが重視され、意見がちがえば議論ではなく、調整型(談合)の政治で解決される。
mixiはとっても日本的なシステムなのだ。
じゃあ一方、ブログはどうか?
ブログの最大の特徴はトラックバックだ。「オレはこう思う」と自分の考えをハッキリ書き、引用元のブログにトラバを打つ。あるいは同じテーマを論じているブログにトラバを送る。
このとき送られるトラックバックは、かならずしも賛同の意味であるとはかぎらない。
もちろん、「あなたが書いていることに私はこう共感します」というトラバも送られるだろう。またブログだってmixiと同じように、嗜好が同じ人たちがコミュニケーションすることはできる。
だけどブログの世界はmixiとちがい、同じ価値観の人だけが集まる閉じたコミュニティじゃない。
だから当然、こんなトラバも送られる。
「あなたはこう書いているけど、私の考えはちがいます。私はあなたと異なり、△△は○○だと思います。この私の考えに対し、あなたはどう思いますか?」
ここで議論が生まれる。トラックバックという機能は、議論をするのにとても向いているのだ。
mixiがファンクラブ志向のメディアであるのに対し、ブログはいろんな価値観の人が化学反応を起こす議論志向である。ただし正確にいえば、「議論をする」という性質がワン・オブ・ゼムとして備わったツールである、ということだ。
とすればこんな結論になる。
同じ価値観を他人と共有したい人にはSNSが向いている。逆に以前のエントリーでも書いたように、異なる価値観をたがいに持ち寄り議論することで、自分がいままで想像もしなかったような新しい発見をしたい人はブログをやればいい──。
(※もちろんこれはどっちが正しい、どっちがまちがっている、という問題じゃない。人間同士のコミュニケーションやリレーションシップに何を求めるか? のちがいにすぎない)
ところがコトはそうカンタンにいかない。mixiは、だれかの紹介がなければ入れない敷居があるシステムだ。
一方のブログは、だれでもカンタンに立ち上げることができる。おまけに世間では、「ブログがすごいブームだ」ってことになっている。「じゃあオレもやってみようか」と思うのが自然だろう。
で、本来ならばmixi的なファンクラブ志向のコミュニケーションが向いている人、またはそういうコミュニケーションをしたい人が、SNSとブログのちがいをハッキリ意識することなく、ブログで情報発信するようになる。
だから議論志向のブログをやっていながら、こんな考えをもつ人も出てくる。
【言説A】「ブログでは価値観のちがいを表明してはいけない」
これはファンクラブ志向の典型だ。こうした心理には、日本的な慣習も影響している。自分の考えを表明すれば、ムラ社会に「波風が立つ」からだ。
こう考える人にとっては、議論はただのモメゴトの種にすぎない。ゆえに「他人の意見に合わせるのが正しい」という選択をし、mixi的な「あいづちコミュニケーション」をする。この行動原理は、生産的な議論が苦手な日本人が編み出した生きるための知恵といえるかもしれない。
【言説B】「○○が好きだ、というのはその人の自我そのものだ。それに異議を唱えるのは、相手の人格を傷つけることになる」
客観的なものの見方をする習慣がない日本では、こんな発想をする人が多い。「○○が好き」であることと、「自分自身」を分けて考えられないからだ。「○○が好きであること」を自我から切り離し、「○○が好きな自分」を外側から客観的に見られないのである。
このタイプの人は、「単なる嗜好」にすぎないものが常に自我と同一化している。だから「自分の好きなもの」を否定されると、あたかも自分自身が傷つけられたかのように感じてしまう。
話をまとめよう。【言説A】や【言説B】はファンクラブ志向の発想だ。日本人に多いこのタイプの人がブログ上で意見対立すると、生産的な議論になりにくい。客観的なものの見方に慣れてないために、自分の「意見」や「嗜好」を、自我とは別のものだと認識できないからだ。
で、異なる価値観に出会うと、主観的な感情の波に飲み込まれる。気を悪くする。その結果、誹謗中傷やあげ足取り、あるいは議論に勝つことだけにこだわってしまう。なぜなら「自分の考え」が自我と同一化しているこのタイプの人にとって、議論に勝つことは自我を守ることを意味するからである。
ブログ上の議論で精神的なダメージを受けるのは、とても不幸なことだ。本来なら傷つく必要もないことに、傷ついてしまっているからだ。
だがものごとに対する認知の仕方や思考法を変えれば、異論をぶつけられたってなんでもない。自分とはちがう意見を感情的にならずに受け止め、冷静にロジカルな議論ができるようになる。【言説A】や【言説B】のような発想に陥りがちな人は、自分自身を外側から客観的に観察することから始めてみてはどうだろうか。
O型らしさなんですよね。血液型「的」に言うと。
日本人の6~7割のAO型、BO型、OO型。
小泉の冷酷とも言える政策ベースへの改革は、
観念的に言うと、その反対。
AA型、BB型、AB型の心地よい世界。
それはここで言うブログらしさでもある。
雰囲気に流されるO型らしさも手伝って、この改革に
賞賛を送っているが、自ら首を絞めていてちょっと滑稽。
AO型BO型はそれを許容しえるけれどOO型は辛いよ。
まぁ4割の勢力だ。いつか盛り返すでしょうけれど。
自由へと振れた戦後。
初めそれはB型と非B型の対立だった。それにAA型の
窮屈さに離反したO型がB型に同調してA型と非A型の
対立へとすり替わった。結果、今の「古い自民党」的な
談合社会になった。
小泉改革の是非は抜きにして、昨今のAA型的価値観の
回復。復古の姿で表れるそれら流れを、条件付きで
支持しています。
ブレーキを忘れずに、踏みながら進んで下さいまし。
批判が来ることを想定できていないから、いざ批判された時に火に油を注ぐような対応をしてしまう。
ブログを開かれたコミュニティとして見ている人間と閉じたコミュニティとして見ている人間が何らかのきっかけで接触すると、大抵は閉じたコミュニティ志向の側が発火することになる気がします。
血液型で来ましたか(笑)。妙訝さん説によると今はAA型の社会なんですね。なんとなくそういう気もするけど……やっぱよくわかんないや(笑)
>ブレーキを忘れずに、踏みながら進んで下さいまし。
ありがとうございます。なんかとってもうれしいです。
■黒影さん
旧来のインターネットの感覚では、「それ」がネット上に存在する時点で、もう自動的に「開かれたもの」だった。ところがそこに「閉じたコミュニティ」に対するニーズが生まれ、それを実現するシステムや技術が登場した。で、いまはこの2つがネット上に共存しています。この2つの間を行き来している人もたくさんいる。そこで大切なことは、「いま、自分はどっちの場にいるのか?」に対して自覚的であることじゃないかな、なんて思っています。これって、どっちがいい悪いの問題じゃないですからね。
フォーラム、ブログ、輪を伴ったブログ=SNS・・・と言う仕組み自体がルールとしての規範を決めている面は確かにあると思っています。
創造性と言う視点から見れば・・・
● 明確になった方向性が純化する・・SNSや日本的集団主義(内集団ひいき)だから改善か?
● 新たな発想を生み出す・・・ネットでの異質のぶつかり合いが起こり、間テキスト性が働く・・・と考えています。だから関係性は薄い方が良い・・・