『自助論』
サミュエル・スマイルズ著、竹内均訳、三笠書房(知的生きかた文庫)、改訂版2002年(四六版もあり)
『論語と算盤』
渋沢栄一著、KADOKAWA/角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、2008年
(書影は、わたくしの手元にある旧カバーのものです)
さまざまな既成の枠組みが揺らぎ、激変に晒され続ける現代の社会。そのような状況にあると、人間として基本的に持っていなければならないであろうことが、往々にしてなおざりになってしまうようなところがあります。
されば、現代と同じく社会の仕組みや人間の生き方が大きく変わっていく中にあって、人間として大切な知恵を見失わずに、希望や意欲を持って生きていくことを説いた先人の書物を読んで、生きるための糧とするのもいいのではないでしょうか。
産業はもちろん文化の面でも、「ユニオン・ジャックの翻るところに太陽が没することはない」とまで言われたほどに勢いがあった頃のイギリスで書かれた、著述家サミュエル・スマイルズの代表作が『自助論』です。さまざまな分野の歴史上の人物を取り上げ、それらの人物たちがいかなる努力と創意を積み重ねて成功へと至ったのか、その道のりをたどりながら、自助努力によるによる自己実現を説いた一冊です。
無為な生き方を厳しく戒め、忍耐と勤勉、自己修養こそが人生を切り拓いていくのだ、と訴える語り口は、直球すぎるくらい直球です。「飲酒は、誘惑の中でも最悪の部類に入る」と飲酒の害を強調し、「節酒ができないなら酒を断つべきだ」とまで言い切るくだりなど、酒呑みの端くれとしては身が縮まる思いがしたりいたします(まあ確かに、飲み食いに「しか」興味がないというのもどうかとは思いますけれども・・・それにしても、ねえ)。
むろん、本書に書かれていることをそのまま実行したからといって、本の中に取り上げられた人物たちのような成功が得られるとは限りません(これは、いわゆる「自己啓発書」や「なんとかの成功法則」ものを読むときには、忘れないほうがいい視点だと思います)。
とはいえ、人間としての基本がないがしろにされがちな昨今だからこそ、
「どんな逆境にあっても希望を失ってはならない。いったん希望を失えば、何ものをもってしてもそれに代えることはできない。しかも、希望を捨てた人間は人間性まで堕落してしまう。」
というような、直球にして力強い語り口が響いてくることも確かです。自分を見失いそうになったとき、気持ちが沈んだり低きに流れようとしているようなとき、本書は心の糧となってくれることでしょう。
また、時間の浪費を戒め、「一時間といわず、一日のうち十五分でもいいから自己修養に向けよ」と、時間を有効に活用することの効用を説いたくだりにも、大いに教えられるものがありました。そう、ダラダラとつまらないことに浪費するような時間があるんだったら、それを少しでも有益なことに振り向けたほうがいいに決まっていますからね。
この『自助論』は、明治4年に中村正直の訳により『西国立志編』の題名で刊行され、当時の人びとに大きな希望を与えたといいます。こちらも講談社学術文庫で読むことができますが、現代の読者には古めかしい感じの文語体は読みづらいところがあるでしょう。完訳というわけではないのですが、かつて科学誌『ニュートン』の編集長としても知られていた竹内均さんが訳した三笠書房版が読みやすくてオススメです。
明治から大正時代にかけて、500を越える多数の企業の創立に関わるとともに、日本女子大学や理化学研究所の設立にも関わった、日本の実業界や資本主義の父、渋沢栄一。その渋沢が折に触れて行っていた講話、講演を書物にまとめたのが『論語と算盤(そろばん)』です。
わたくしの手元にあるのは、サブプライム問題にリーマンショック、相次ぐ企業の不祥事などで、国内外で企業や経済のありかたが問われるような動きが相次いでいた2008年に、角川ソフィア文庫で刊行された文庫版です。『論語』をベースにした道徳と倫理観で、企業活動と社会貢献のバランスがとれた経営を説いた渋沢の哲学に、再評価の機運が高まっているのを受けての復刊だったといえるでしょう。
本書はもちろん、企業やビジネスのありかたを問い直し、考えるためにも読まれるべき名著でありますが、個人の生きかたについても大いに示唆を与えてくれるところも多々あります。
とりわけ強く惹きつけられたのは、スマイルズの『自助論』とも共通する、自助努力によって自分で自分の道を切り拓いていくことの重要性を説いたくだりです。ちょっと長くなりますが、ここに引かせていただきます。
「世の中のことは多く自働的のもので、自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、大概はその意のごとくになるものである。しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、却(かえ)って手前の方から、ほとんど故意に侫(ねじ)けた人となって、逆境を招くようなことをしてしまう。それでは順境に立ちたい、幸福な生涯を送りたいとて、それを得られる筈(はず)がない。」
「ある書物の養生法に、もし老衰して生命が存在しておっても、ただ食って、寝て、その日を送るだけの人であったならば、それは生命の存在ではなくして、肉塊の存在である。ゆえに人は老衰して、身体は充分に利かぬでも、心をもって世に立つ者であったら、すなわちそれは、生命の存在であるという言葉があった。人間は生命の存在たり得たい。肉塊の存在たり得たくないと思う。これは私ども頽齢(たいれい=心身ともに衰えた年齢のこと)のものは、始終それを心掛けねばならぬ。まだあの人は生きておるかしらんといわれるのは、蓋(けだ)し肉塊の存在である。もしそういう人が多数あったならば、この日本は活き活きはせぬと思う。」
超高齢化が進行し、成熟社会になってきているといわれる今の日本。他者から何かをしてもらうことを「当たり前だ」と思い、心をもって世に立とうとしないような「肉塊の存在」が、老いも若きも問わず増えてしまっているのではないでしょうか。
もちろん、世の中には個人の努力や勤勉さだけでは、どうにもならないことがあるというのも現実です。他者や国からの助けを借りなければならないほど追い詰められたときには、ためらうことなく助けを求めることも、また大事なことだと思います。とはいえ、安易に他者や国をアテにしてばかりいる姿勢からは、なにも生まれてはこないであろうことも確かでしょう。
やはり、まずは自分で自分を助けることが基本にあってこそ、充実した人生を送ることができる、ということを、忘れないようにしなければ。これからも『自助論』と『論語と算盤』を座右に置いて、自己点検のために繙いていきたいと思います。
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