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宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『言論統制というビジネス』 語られざる新聞の黒歴史から見えてくる、戦時中と変わるところのない日本メディアの本質

2021-11-26 06:44:00 | 本のお噂

『言論統制というビジネス 新聞社史から消された「戦争」』
里見脩著、新潮社(新潮選書)、2021年


これまでずっと「軍部による言論弾圧の被害者」として語られることの多かった新聞メディア。しかし、実は新聞業界が自ら積極的に戦時統制を推し進めて言論の自由を狭め、一致して戦争を煽ることで利益を上げて生き残ってきた・・・という事実を発掘し、検証した一冊です。
時事新報社の記者からメディア史の研究者に転じた著者・里見脩さんは、数多くの史料や証言にあたりながら、「上からの統制と下からの参加」によって進んでいった言論統制の実態を、丹念にあぶり出していきます。

本書の軸として取り上げられているのが、戦時中の国策通信社「同盟通信社」の社長だった、古野伊之助という人物です。古野は内閣情報局から補助金を受け、国策遂行のためのニュース配信を進めるかたわら、新聞業界のみならず通信社、さらには映画業界の統合、統制にも深く関わったりするなど、戦時のメディア統制に深く関わりました。
その古野を軸として、本書は戦時中の新聞メディアが辿った言論統制の過程を、興味深いエピソードを織り込みながらも抑えた語り口で提示していきます。古野が推し進める新聞の統合に反発した読売新聞の正力松太郎との対立劇。「満州国」における新聞統制の経験が、日本における言論統制にも活かされたという事実。各都道府県の新聞社が統合され「一県一紙」という現在の形になるまでの紆余曲折・・・。
この本に盛り込まれた新聞の黒歴史の数々には、読んでいてあぜんとさせられるばかりでありました。たとえば朝日新聞は自らの社機で陸軍の索敵行動に参加したり、兵器の献納運動を「真っ先に、且つ大規模に展開した」り・・・。かくもあからさまな形で戦争に協力しておきながら、よくぞ戦後になって「平和を愛する良心的新聞」みたいなスタンスをとれるもんだなあ、と呆れるばかりであります。
戦意高揚を煽ることにより、新聞は部数を伸ばして多大なる利益を得ることとなりました。朝日新聞や毎日新聞はもとより、後発だった読売新聞も大躍進しましたし、統制によって全国紙の地方進出が抑えられたことで地方紙もまた、「統制特需」ともいえる恩恵を受けることとなりました。まさしく「戦争は新聞を肥らせる」(本書のプロローグより)のです。

戦時中の言論統制の産物として生み出されたさまざまなものが、現在の新聞業界にそっくり繋がっているということも、本書で知ることができました。記者クラブ制度もそのひとつです。
もともと記者クラブは明治期に、日清・日露両戦争において戦争支持の世論形成のために新聞の利用を意識した政府側と、「情報の仕入先」の開設を望んだ新聞側との「利害の一致」のもとで始まったといいます。そして太平洋戦争時、新聞メディア自身による統制団体「日本新聞会」によって行われた記者クラブの再編により、記者たちは自ら動くこともなく「ただ発表を待つ」だけの横着な存在に堕してしまうことになります。現在もことあるごとに指摘されている記者クラブ制度の弊害は、すでにこの時から始まっていたというわけです。
現在も続いている新聞社の多くもまた、「一県一紙」を目指した戦時統制のもとで統合されたことによって生み出されました。日本経済新聞や産経新聞、東京新聞、さらには中日新聞や北海道新聞、西日本新聞などの大半の地方紙・・・。
とりわけ地方紙は、統合によって資本力が強化されて経営基盤を確立できた上、用紙やインクも安定供与されるなどの「特権」を享受することもできました。にもかかわらず、多くの地方紙の社史は「特権」享受の事実には言及せずに、自らを言論統制の「被害者」の立場に置いて、圧迫だけを強調する記述にとどまっているのだとか。これもまた、実にいい気なもんだなあと呆れざるを得ません。
今の新聞メディアの構造と病理は戦時体制から生み出され、現在へ繋がってきているのだということが、本書を読むことでよくわかりました。

進んで国家と結び、「もたれ合う」関係を形成し、それによって特権を享受し、組織の維持、拡大を図ろうという意識・・・。そのことを緒方竹虎(朝日新聞の副社長から内閣情報局の総裁に収まり、古野とも親しい仲だった)は戦後になって「新聞資本主義」という言葉で表現しました。本書の著者である里見さんは、この「新聞資本主義」が「現在においても五輪報道やコロナ禍報道などで繰り返されていると感じる」と指摘します。
思えば、朝から晩まで新型コロナがらみの報道一色となった、昨年から今年にかけての新聞やテレビ(いうまでもなく、ほとんどのテレビ局は新聞とも資本関係で繋がっています)の状況は、なんとも異様かつ異常としか言いようのないものでありましょう。「新規感染者数」が毎日毎日、それこそ大本営発表のごとくいまだに繰り返し報じられ、「自粛」や「新しい生活様式」による「コロナとの戦い」も声高に叫ばれ続けています。
あたかも、戦って殲滅すべき敵を「鬼畜米英」から「新型コロナ」に変えたかのように思える、新聞やテレビの異様な過熱気味の報道ぶりも、「新聞資本主義」意識に基づく戦時体制下のメディアの延長線上にあると考えれば、さもありなん、と頷かざるを得ません。
五輪報道も然り。開催前はさんざん、コロナ騒ぎを理由に五輪開催を批判的・否定的に報じておきながら、いざ開催されるや「感動をありがとう」的な五輪報道一色。かくも節操の欠けたメディアが、ジャーナリズムがこうの「言論の自由」がこうのと、よくぞ言えるものだと呆れるばかりです。
本書のエピローグで、里見さんはこう記しています。

「戦時期は異常で特異な状態にあった。しかし、その極限状態で行われたことは、現代と無縁ではなく、むしろそこに現代の日本メディアの体質が凝縮されていると見るべきではないか。歴史は、終戦を境に断絶しているのではなく、継続しているのである」

戦時期のような異常で特異な状態が断絶することなく、現在の日本メディアの体質として凝縮されている・・・。そうであるならば、そのようなメディアが流すニュースを無批判なまま鵜呑みにしていいのかどうかを、受け手であるわたしたち一人一人が冷静になって考える必要があるのではないか・・・そう思うのです。

語られざる新聞の歴史を発掘し、事実を提示して検証することで、現在のメディアの本質と報道姿勢、そしてその受け手であるわたしたちのメディアとの向き合い方をも鋭く問いかける、労作にして良書だと申し上げていい一冊でありました。
とはいえ、自分たちに都合の悪いことは言わない書かない載せない新聞メディアが、このような本を取り上げることは、まず期待できないことでありましょう。なのでせめて、こういう場で一人でも多くの方々に広まってほしいと願います。


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