しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

野戦の便所

2022年02月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
(父の話)

穴を掘りそこが便所になる。
簡単な目隠し程度をする事もあるが、丸見えの事もある。
赤柴隊は民家を使うこともよくあり、・・・兵隊がくると民家は逃げていたので空家・・・大きな民家のを勝手に使っていた。
それは神戸の部隊やこはしょうらなんだ。じゃけい「岡山隊の後は便所が満杯」という、ようない評判じゃった。
岡山県のが神戸や、鳥取に比べする事が悪ぃ。
行進の途中では、用をすまし後は急いで隊の行列に戻らなくてはいけないので、それは転ぶようであった。

談・2000・4・30

・・・・・




昭和13年5月4日から22日にいたる間の従軍日記をまとめ、『麦と兵隊』と題して、
昭和13年8月号の「改造」に掲載した。
戦場のたんたんたる報告である。

麦畑に糞をたれに行く。
しゃがむと背の高い麦のために何も見えなくなってしまう。
誰もいないのかと思っていると、麦の中から煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼる。
汚い話だが兵隊のたれた糞を踏まないように注意して歩きながら、私は排泄されたものが殆ど血の混った赤い糞であるのを見て、胸つかれるものがあった。
それから赤い糞を残しながら、煙草を燻ぶらして悠々と帰って行く兵隊の姿を見た時、そこはかとなき感激を禁じ得なかった。
(5月9日)


そんな描写がつづき、糞をたれる兵隊という日常的な人間の生理によって、戦場の一面を描いた。
この一兵士の日記は、銃後の国民の胸をつよくとらえたのである。
ここには戦場が持つ残酷さ、悲惨さは避けられている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占領下の中国

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


・・・・・

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「占領地域の確保」

日本軍は、1938年武漢・広東作戦を実施した後、
占領地確保に重点を置いた持久戦態勢への転換を図った。
12月2日、大本営は
「占領地域を確保」し、「残存抗日勢力の制圧衰亡に勉る」にあるとし、
北支那方面軍司令官に対して、
「現に占領しある北支那地方の確保安定に任すへし」と命じた。

こうした日本軍の華北占領地確保に挑んだのは国民党の軍隊ではなく、共産党系の軍隊であった。
日中戦争開始後、中国では国民党と共産党の抗日民族統一戦線形成が実現し
(第二次国共合作)
1937年8月22日、華北方面の共産党軍すなわち紅軍は、国民革命軍第八路軍に改編された。
八路軍は日本占領地域の後方に抗日根拠地を形成する方針を取り、
日本軍支配地域を蝕むように形成されていった。

。。。。。。。

日本支配下の諸相

北平(北京)
1937年(昭和12)8月8日日本軍が北平(1938年北京と改称)に入場式をおこなった。
無血占領となった。
しかし以後日本が敗戦を迎えた45年8月までの丸8年間、北京は日本軍官の支配下に置かれ、
その下で住民は艱難辛苦を舐め尽くさねばならなかった。

軍・官憲による抗日勢力の掃討・弾圧に表れた。
八路軍兵士や抗日・反日分子として捕らえられた者には拷問を加えるのが常であったが、その行きつく先はほとんどが虐殺であった。
高官から末端まで権力にものをいわせた収賄が横行したが、
理不尽とはわかっていても袖の下で、身内の生命を救い出したり、生業を維持した。


動員
天津・済南・徐州・南京・武漢・広州等、
日本軍が都市を陥落させるたびに、北京市民は「歓呼拍手して感謝」させられた。
日本軍入城が伝わると、北京市民は動員され、慶祝会や提灯行列に参加させられた。
アジア・太平洋戦争に突入後は東南アジアの各都市が陥落するたびに同様の動員がおこなわれた。

飢餓
北京では、日本軍の封鎖により周辺地域から搬入がままならず
日本軍の穀物備蓄や、投機的な穀物買い占めや、干ばつなどで、
米は十数倍になり41年頃には店頭から姿を消した。
戦争末期には大部分がトウモロコシの皮や芯・どんぐり・もみがら・糠の類になっていった。
もはや人間の食糧とは言い難いものであった。
北京の中国人は飢餓状態、あちこちの街角に飢餓者が横たわるありさまとなった。


「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行


・・・・・





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行軍と食糧

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


・・・・・

行軍

二年、三年といった出征期間のうち、
実際の銃撃戦などの交戦状態にあった期間はそう長くはなかった。
まして、前線ではなくて、おもに後方にあった輜重部隊などは交戦の機会はより少なかった。
来る日も来る日も行軍の日々を体験した兵士は少なくなかった。
正規の装備は25~30Kgほど、時には食糧などにより50㎏ほどにも膨らむことがあった。
兵はその装備を担いで、列をなして延々と徒歩で行軍した。
予想される敵との交戦地域を目標として、1日30キロ前後を進むことはざらであった。
敵襲の恐れがあれば、夜行軍となることもある。
暗黒の世界を疲労や睡魔と闘いながらひたすら歩くのである。
気象や地形の悪条件が加われば、そのつらさは並大抵ではなかった。
雨がつづけば、道は、道と呼べないただのぬかるみになる。
。。。

食糧事情

兵士にとって行軍は基本的には過酷なものであった。
それに輪をかけたのが、食糧事情の悪さであった。
日本軍が「現地調達」主義を取り、十分な補給体制をとらなかったことについてはすでに多くの指摘がある。
日中戦争以後は前線の日本兵は飢餓戦場をさまよいながら戦争をしていたともいえよう。
補給態勢がおそまつなため食糧難に陥った兵士は「現地調達」によって活路を開こうとした。
しかし日常的に可能なわけでない。
農作物を取りたい放題の時期の農村を行軍しているのでもなければ、
食糧は人家・集落にたどり着けねば手にはいらない。すでに日本軍の略奪を経験した村では、物資も人も避難していた。
略奪を厳禁する部隊もあったが、その場合でも軍票で購入する形式がとられた。
実質的な略奪と異ならなかった。
・・・
水と食事
兵士は水筒に水を入れて行軍を開始するが、大切に飲んでもせいぜい数日しかもたない。
喉が渇ききった兵士は、川やクリーク、道端の水たまり、民家の桶に遺された水。
運よく収穫期の水田地帯にでもいれば主食は取り放題であっても、副食はやはり乏しかった。時折姿を見せる野犬は貴重な副食となった。
野菜もえられず、馬用の餌まで手を出さざるをえないこともあった。
・・・

戦争栄養失調症
徐州会戦に参加した兵士のなかから、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するケースが多発した。
関東軍の軍医らが病理検査や解剖などを重ね、死亡原因の特定に務めた。
見解はアメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分かれたが、
「戦争栄養失調症」という新たな病名が付けられた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。
大陸打通作戦に参加した軍医は、回想する。
「当時栄養失調と呼んだ病気の中のあるものは重症脚気であり、また全身の機能の衰えであった。
それらの原因が、肉体的な激しい労働と偏った食糧、その絶対量の不足によったものは言うまでもない」
中国の南部ではマラリアに感染する兵士も多かった。
兵にキネーネという特効薬が配られているが、十分な量ではなかった。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行
・・・・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日中戦争の泥沼化

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争の泥沼化

徐州

1938年春、華北と華中の結節点ともいえる要衝、江蘇省徐州に中国軍50~60万人が集結した。
その殲滅を企図した大本営は、大規模な包囲殲滅戦である徐州作の実施を4月7日に命令した。
しかし日本軍(6個師団余り約20万人)は中国軍をほとんど補促することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。

大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、
その攻略が戦争終結に結びつくと期待されたのである。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1.000キロほど揚子江をさかのぼったところにあった。
重慶を攻撃するためには航空機による爆撃しかなく、
そのためにも武漢の攻撃は必要とされたのである。
また7月末には武漢に加えて軍需物資の入口となっている広東省を攻略する方針を決定した。
30万人の兵力を投入して8月22日に発動された武漢作戦は、
10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
武漢を攻略したものの、中国軍主力は退却しており目的は果たせなかった。
10月12日、広東では上陸作戦が実施された。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事動員力は限界に達しつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大していったのである。



「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行

・・・・・


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重慶爆撃

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


・・・・・

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行


重慶爆撃

1938年(昭和13)12月25日、
日本軍は首都重慶にたいする爆撃命令を発した。
目標には「重慶市街」「「中央公園」が掲げられ、軍事目標主義から逸脱した爆撃が意図されていた。
重慶爆撃は都市恐怖爆撃、あるいは敵国民の抗戦意思破壊という、まったく新しい航空戦力運用の思想を開示するものだった。
第一期の重慶爆撃は1938年12月26日から39年10月7日まで30数次にわたって実施され、39年だけの被害者数は死者4.000~5.000人前後に及んだ。
第二期の重慶爆撃は、
40年5月~8月、日数32日に及んだ。
焼夷弾1.000発が投下された6月28日昼の爆撃では「市内、阿修羅の巷と化し全市火炎に覆われた」。
40年の重慶の空爆被害は、死者4.149人、負傷者5.411人とされる。
・・・
日本政府は「重慶政府は将に壊滅に陥らんとするに至り」との認識を持った。
・・・・
日本の対中爆撃に対する国際的批判が高まるなか、
日本の国際法学者は自国の立場を擁護する論陣を張った。
立作太郎は、日本軍は軍事目標を爆撃している。
都市は高射砲を備えていれば「事実上の防守状態」となり、攻撃は合法状態であると日本軍を正当化した。

・・・・






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦死と遺骨と靖国神社

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)




・・・・・
戦死と遺骨

中国戦線での兵士の戦死は、どのように遺族にもたらされ、その後その死はどのように扱われていったのであろうか。

徐州南方約200キロの正陽関攻略戦で、1938年6月9日神奈川県出身の伍長が戦死した。
4日後の13日、家族に弔電が舞い込んだ。
同じ日「壮烈なる戦死を遂げた」という電報が届いた。

15日、新聞に戦死が報じられた。
6月16日付けで、小隊長が戦士に至る経緯を3.000字余りでしたため父母あて送っている。

6月20日付けで部隊長が1.000字足らずで同様の手紙を送った。
7月12日付けで戦死通告が父あてに発せられた。
これは戦死の場所と時刻、死因が記された事務的なものである。

8月5日工兵隊で慰霊祭をして、その日遺族のもとに帰り地元の駅では住民たちに出迎えられた。

8月29日、地元の村で葬儀が営まれた。
葬儀委員長は村長で、村の在郷軍人会、青年団、郡・県の各界からも参列あり、小学児童も含めて500名を超える参列者であった。
陸軍大臣・参謀総長・教育総監からの弔電もあった。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



・・
招魂式

靖国神社による戦死者の招魂式が催された。
1941年3月、Sの遺族のもとに
靖国神社臨時大祭委員長・海軍大将永野修身名で案内がもたらされた。
招魂式は4月23日午後7時30分から
臨時大祭は4月24日から28日まで
参拝できる範囲は、
「妻子、相続人、父母、祖父母」など「血縁の近きもの」から2名まで。
英霊は14.976柱、参列した遺族は3万余り。
遺族の居住地は、沖縄県、朝鮮、台湾、関東州、「満州国」、および外地まで及んだ。

列車、連絡船など運賃は無料。
参拝遺族には明治神宮絵画館、上野公園の博物館・動物園などの無料参観券が送られた。
歌舞伎座・明治座・新橋演舞場・東京宝塚劇場などでは「慰安会」、
4月29日からは靖国神社境内で昼間は相撲、夜間は活動写真が催された。
金品は、各家庭に15円。陸海軍省から記念品。
宿泊料補助として一人当たり21円、車賃5円、パンや弁当や写真や絵ハガキも贈呈。
代々木練兵場での天皇行幸の観閲式には「特別の場所」が用意された。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



・・・・・


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件 そして父は戦場へ征った

2021年07月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父は農家の4人兄弟の長兄。
兄弟4人は戦前・戦中・戦後を死ぬことなく生きた。写真4人のうち、妹と末弟は健在。





父は入営後、
徐州戦争と武漢会戦に征った。
除隊後、3度目の入営中に終戦。
戦後は農業、95歳で没っした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県笠岡市

2021年07月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「笠岡市史 3巻」  笠岡市史編さん室 ぎょうせい 平成8年発行


連帯意識と隣組制度
昭和12年(1937)7月7日、日中戦争の勃発に伴い、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、
挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国民精神総動員運動を始めた。

第10師団
日中戦争勃発と同時に第10師団は北支に派遣される。
大規模な動員令により、予備役・後備駅に同時召集令が出された。
村は興奮・緊迫状態になる。
応召兵全部を兵舎に収容しきれず、衛戍地の各所にあふれた。
そして逐次北支へ向けられる。
国の隅々、各家、各人、戦争を直接肌に感じ、ただならぬ雰囲気が漂った。


昭和14年「興亜奉公日」を設定し、「毎月1日を国民挙って戦場の労苦をしのび、自粛自制の気持ちを実際の生活に具現する」一日とした。
岡山県もこれを受け、各市町村、小・中等・青年学校、警察署長宛てに通牒を発し、
一億一心奉公の誠を尽くし、強力日本建設の源泉となる一日になるよう指示した。

市町村は管内の官公庁、神社、寺院、銀行、会社、工場、各種団体に対して、興亜奉公日の趣旨徹底のため、印刷物の配布掲示を要請し、
毎月1日は、各戸国旗を掲げ、神社参拝をして皇軍有志の武運長久を祈り、
前線に慰問袋を送るよう奨励するとともに、
華美なる化粧、服装を廃止し、簡素なる食事などさまざまな規制をした。

岡山の歩兵10聯隊は、津浦線を南下し、徐州戦を始めとして多くの激戦を経て犠牲者を出した。


笠岡市戦没者
満州・上海事変(昭和6.7年)、13人。
日中戦争、197人。徐州会戦・太原・杭州・漢口攻略戦ほか。
太平洋戦争、2.127人。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県倉敷市

2021年07月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「真備町史」 真備町史編纂委員会 山陽印刷 昭和54年発行



日華事変

昭和12年7月7日、盧溝橋爆破事件により日華事変はじまる。
この戦争は、いつはてるともなく、
太平洋戦争に突入した昭和16年を経て、
とうとう20年終戦まで支那大陸で続いた。

この時、岡山歩兵第10聯隊は岡山駅頭で見送られ、塘沽に上陸。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県高梁市

2021年07月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「成羽町史」 成羽町史編纂委員会 山陽印刷 平成8年発行


2・26事件後の日本は、ひたすら戦争拡大に向かって突き進み、翌昭和12年7月7日、
盧溝橋における一発の銃声によって日中戦争に突入することになった。
7月末には郷土部隊(岡山の歩兵第10聯隊 赤柴部隊)にも動員令が下り、成羽町出身の兵士も数多く従軍していった。
昭和12年秋からの成羽町報は、町内出身将兵の果敢な奮戦を讃え、銃後の体制強化を図る、戦意高騰記事で埋められるようになり、
戦争熱が一層増幅されていったのである。




(暴支膺懲の大任に当たる成羽出身の兵、”忠勇義烈”の兵)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする