しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県津山市

2021年07月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
加茂町史

昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋において日本軍は中国抗日民族統一戦線を率いる蒋介石軍に攻撃を開始した。
この事件は、いわゆる盧溝橋事件といわれ、日中全面戦争の口火となるものであった。
近衛内閣は戦争拡大のため軍隊を北京と天津周辺に集結させ、総攻撃を開始してこの年12月には南京を占領した。
この後、戦火は中国全土に広がり、ここに昭和6年の満州事変から数えて15年の長期にわたる日中戦争へ発展したのであった。

近衛首相は7月15日の地方官会議において訓辞を与えた。
この訓示を受け7月22日に岡山県市町村長会議では、
1・神社祈願の励行
2・動員準備の万全
3・出征軍人の歓送・慰問
4・軍事扶助、の4項項目をあげ、
近衛内閣の戦争政策に全面的に従うことを指示している。






「津山市史 第七巻」  津山市史編さん委員会  昭和60年発行

昭和12年7月7日夜、盧溝橋で中国軍との交戦が引き起こされた。
この事件が日中戦争の始まりである。
戦場は華北から華中へと広がり、日中両国は宣戦布告のないまま全面的な交戦状態になった。

中国国民政府は、中国共産党と組み、イギリス・アメリカの援助も得て、抗日をつづけた。
近衛内閣は、「国民政府を相手にせず。」と声明し、昭和15年、汪兆銘を推して中国に南京政府を樹立させた。
戦場が拡大するにつれて、応召者は数を増し、その都度に「祝出征」の幟を立て、日の丸の小旗を降って、
学校・町内会は総出の見送りをするようになった。



(街頭の千人針)

昭和12年9月25日、政府は、「国民精神総動員運動」を起こし、国を挙げて戦争遂行に当たることにした。
翌年4月1日には、「国家総動員法」が成立し、すべての物資・人的資源は、厳格な動員体制のもとにおかれた。
昭和14年4月、従来の防護団は警防団と改めた。
同年7月には国民徴用令が定められた。
下からも協力する組織として、昭和15年10月「大政翼賛会」を結成した。
各政党はこれに合流するため次々に解散した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  広島県福山市

2021年07月09日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「福山市史 原始から現代まで」  福山市  2017年発行

昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争へと発展しました。
入営中の現役兵だけでなく、現役を終えて通常の暮らしに戻っていた予備役・後備役あるいは補充兵役中の在郷軍人にも多数の動員がかけられました。

沼隈郡瀬戸村では7月15日の1人を皮切りに。7月28日には一挙に51人に召集令状が届きました。
出征兵士やその家族への同情、さらにはそれにむくいなければならないとの焦燥は、
各市町村毎に結成された銃後奉公会・軍人後援会・愛国婦人会・国防婦人会、あるいは青年団といった諸団体による「銃後」の援護活動となって展開されました。

たとえば瀬戸村の愛国婦人会では、昭和13年の1年間に
出征兵士の見送りに29回、
武運長久の祈願祭に18回、
戦傷者平癒祈願の百度詣りに9回、
村葬に3回参列したほか、
各種の慰問や労力奉仕などに日々追われています。


(福山城での南京陥落祝賀会)






「福山市史 下」  福山市史編纂会  昭和58年発行
 


日中戦争と41聯隊

昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
27日第二次動員が第5師団にも下命され、41聯隊も応召することになり、31日夕刻福山駅から出発していった。
第5師団の先頭部隊であった41聯隊は、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。
この後の転戦商況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。

山田部隊3.000人はただちに臨戦態勢に入り、8月の長城戦、9月の涞源城戦争、11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人、武器など多数押収)を与え、13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊はその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

南京で新年を迎え、1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
同月7日には泝州城攻略に向かった。いわゆる徐州作戦の開始。
徐州会戦は歌にも歌われ小説にも描かれているように、なかなかの苦戦であった。
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。

昭和13年7月山田は少将に昇進のうえ広島陸軍幼年学校長に転任し、後任に納見大佐が来任した。
こののち日中戦争は文字通り泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍のゲリラに悩まされながら、
軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年まで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。


福山では41聯隊勝利の報がもたらされるたびに、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。
戦死者は
「男子の本懐、聖戦の死」、「護国の人柱」、「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、「肩身が広い」、「家門の名誉」などと、夫や息子の戦死について語らされるようになった。
戦傷者は
「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、戦病死はごく小さな扱いしかされなくなった。





「福山市引野町史」 福山市引野町史編纂委員会  ぎょうせい 昭和61年発行

支那事変

昭和12年7月7日から昭和20年8月15日までの、日本と中国との戦争で、当時の日本側の呼び方は「支那事変」であった。
両国が全面的な戦争状態に入った、昭和12年の盧溝橋事件以後を一般に日中戦争と呼んでいる。
当時の日本政府は、第三国からの軍需物資の輸入が困難になることを恐れて、宣戦布告を行わず、
戦争ではなく事変だとのたてまえをとり、戦争が上海に拡大した昭和12年9月2日「支那事変」と呼ぶことに決定した。
なお、昭和16年12月8日太平洋戦争に拡大すると、
政府は12月12日「支那事変」を含めて、この戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことにした。
大東亜戦争の開戦にともない、南方に兵力・資材を引き抜かれた中国戦線の日本軍の勢力は弱体し、
戦線は崩壊寸前となった状態で敗戦を迎えたのである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県真庭市

2021年07月09日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「村誌 美甘」  美甘村誌編纂委員会  山陽印刷  平成2年発行


張学良は蒋介石を逮捕し、中共軍と合同して抗日戦に立ち上がることを要求した。
この頃中国民族は、日本軍の行動に強い反発を感じ、抗日意識が極度にたかまりつつあったので、
蒋介石も中共との内戦を捨て、抗日戦争に立ちあがらざるを得なくなった。
満州をもぎとられ、華北を侵略された中国人民は、ここで一致団結して抗戦に立ち上がり、日本軍を追い出さぬ限り、中国は滅亡するという認識のもとに戦うことを決意していた。

日本の政府、軍部はこの強い抗日意識を無視し、一撃を加えれば直ちに敗走する支那兵とあなどり、2個師団を増派して重大決意を表明した。
北京、天津を攻略した陸軍は、首都南京をめざして南下し、海軍飛行隊は8月15日南京に爆撃を加え、激戦苦闘4ケ月の末ようやく南京を陥落させたが、国民政府は武漢に移り抗戦をつづけた。

大軍を投じて武漢・広東を占領して戦争を終わらせようと考えたが国民政府は重慶へと逃げ込んだ。
このあたりから日本は、日中戦争に足を踏み入れ、広大な中国全土に渉って戦線を展開し、推せば引き、ひけば押す、中共のゲリラ戦に悩まされ、差しも引きもならぬ泥沼の戦争に足を踏み入れていったのである。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県勝田郡

2021年07月09日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「勝央町史」  勝央町  昭和59年発行

 
昭和12年7月7日支那事変(日中戦争)の勃発にともない、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、
挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国家精神総動員運動を始めた。
北支へ上陸し津浦線を南下した岡山の赤柴部隊の戦闘が新聞に勇ましく報道されたのもこの年であり、
宮中に大本営が日清戦争以来設置された。
戦争は北支から上海へ、南京へと進展、11月13日には南京を占領し、内地では祝賀行列が盛んに行われた。

「昭和12年事務報告書」に次のとおり記している。
昭和12年7月7日北支事変勃発し7月下旬本村にも多数の応召兵あり、村内各種団体は一致し武運長久及盛大歓送をなし軍人をして安じて出発せしめたり。

出征兵士に贈る千人針が作られ、国中に内閣情報部が選んだ「愛国行進曲」が流れた。



昭和13年
「日本軍の一撃で中国は屈服する」といった甘い見方はふっとび、戦争はいよいよ熾烈、
5月19日徐州、
10月27日には武漢三鎮を占領した。
高取村内から1人戦死、3人が負傷した。
応召も相次ぎ2人以上の応召軍人を出した家庭三戸が県知事から顕彰された。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  広島県

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「広島県史 近代2」  広島県  昭和56年発行


日中戦争の勃発

満州事変後、華北への勢力拡大をはかり、アメリカ・イギリスとの対立を強めて国際的孤立化の道をたどりつつあった日本は、
抗日・反帝国主義運動が高まる中国で、昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋において衝突事件をおこした。
事変は拡大の一途をたどり、全面的な日中戦争に発展した。
7月10日には、広島の第5師団など内地3師団の華北への派兵を決めた。
ところが、この日、現地の北京では停戦協定が成立していた。
協定調印の報を受けた中央では関東軍および朝鮮軍よりの増援部隊のみを派遣することをきめ内地師団の動員を留保した。
しかし、その後現地で日中間に事件がおこったこともあって、7月27日には動員を命令した。
兵士は順次宇品港から華北の戦線に向けて出征していった。

中国側でも徹底抗戦の決意が全民族的な規模で高まってきたので、いまやとどまるところを知らない拡大の道を歩み始めていた。

8月13日戦火は上海にも飛び火し、15日政府は
「支那軍の暴戻を膺懲」するため
「今や断乎たる措置をとるに已むなきに至れり」
との声明を発表した。

9月2日には、拡大した戦争に即して「北支事変」を「支那事変」と改称することにきめた。

11月20日大本営が設置され、南京占領の翌月、
13年1月には「国民政府を対手とせず」との政府声明を発表した。
こうして、戦いは長期戦に発展していったのである。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県苫田郡

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「奥津町史・下巻」  奥津町  平成17年発行


盧溝橋事件と呼ばれる日中両軍の軍事的衝突は、真に平和を希求する姿勢があったなら、
日中戦争はなかったかもしれない。
しかし日本では満州国成立後、華北分離工作が画策されていた。
中国の華北5省(河北・山西・山東・チャハル・綏遠省)を中国から分離させて、
日本の支配下に組み入れ。この地域に親日政権を樹立させた。

こうした動きに対して、中国共産党は昭和10年に8.1宣言を発表し、
国民党に内戦停止と抗日救国のために統一戦線の結成を呼び掛けた。
西安事件により中国では国共合作による統一戦線が成形された。

昭和12年7月7日、夜間演習で1名の点呼者がいない、
連隊長牟田口大佐は直ちに部隊の出動を命じた。
不明の兵は翌日帰還したが、この事件が終わりなき日中間の全面戦争の原因になった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県小田郡

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「矢掛町史」 矢掛町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和57年発行



昭和12年7月に勃発した日華事変は挙国一致とか尽忠報国などの言葉とともに拡大を続け、
次々に大規模な軍事動員が行われ、出征した郷土部隊の奮戦ぶりが「赤柴部隊の活躍」として
華々しく新聞の号外で伝えられた。


(赤柴部隊の号外)



また、出征軍人に送る「千人針」を求める婦人や武運長久を祈る神社参拝の群れが多くみられ、
駅頭では出征軍人を送る日の丸の旗の波や、
手に手に日の丸の小旗をうちふる小学生たちの「万才」の声がしばしばわき起こったのである。

矢掛町でも同年8月29日には銃後の守りを固くする義務から銃後後援会ならびに軍友会が結成され、
3月には県の満蒙開拓青年義勇団も第一次隊171名が訓練所へ出発している。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  広島県庄原市

2021年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「庄原市の歴史」  庄原市  ぎょうせい  平成17年発行

日中戦争

昭和12年7月7日、日中両軍は盧溝橋で衝突し日中戦争がはじまる。
同月後半から8月にかけて多数の兵員召集が行われた。

西日本各県では、早くは7月13日ごろから、赤紙の報のあるたびに町村民が集い、27.28.29日に至ってピークに達する。
たとえば、広島県比婆郡敷信村では人口三千人の小村だが、一度に44人に赤紙が配られ、7月29日奉告祭と送別式をおこなって庄原駅まで見送り、
福山41聯隊へ送り出した。

広島第5師団(広島・浜田・山口・福山)は太平洋戦争に至るまで戦死者の多い師団として知られていた。
将校の生き残りも少ない。

大量の兵員が広島駅に到着し、宇品港から中国大陸に向かうので、8月1日には広島駅北側の陸軍東練兵場に接して軍用ホームが二本増設され、
同日歩兵11聯隊(広島)歩兵41聯隊(福山)の主力部隊は宇品港から「北支」へ向かった。


大陸へ派遣される部隊は広島市の大通りを小旗を振る市民の間を勇壮に行進し、宇品港へ向かった。
軍歌にあるごとく「歓呼の声」と日の丸の旗に送られて前線に向かった。
それは日清戦争以来変わらぬ軍都広島の出陣風景であった。

12月には首都南京を占領し、「南京大虐殺」と呼ばれる世界を震撼させる大事件を起こし、
30万人を下らない中国人を虐殺したが、国民が知ったのは第二次大戦後のことであった。
いまだに「南京大虐殺」は存在しなかったと主張する人々もあり、なお「現在の問題」である。






(南京城壁)



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県都窪郡

2021年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「早島の歴史2」 早島町史編集委員会  1998年発行


昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。
しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。
そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。


昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。
そして、人々の生活も軍事最優先とされた。
こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。
早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。

男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。
そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。
婦人会員の実行すべき申し合わせ事項として、
一、非常時の国家に報いるために、はたまた一家の更生のために一層勤労努力致しましょう。
二、経済の組織化計画化を図り、之が実行を期しましょう。
三、分に応じ社会奉仕をしましょう。
四、経済生活と道徳生活を一致させましょう。

その下に数項目からなる細かな目標を定めている。
ととえば、
子女の教育に留意し御国に役立つ善良な第二の国民をつくろうとか、
非常時を自覚し一日のうち一時間長く働こうとか、
宅地を利用して野菜や鶏・兎を育てようとか、
日常生活の細部にわたって目標が掲げられていた。


昭和12年8月、大日本国防婦人会都窪郡早島町分会が組織された。
宣誓決議には

本町よりも勇士を多数戦場に送っていることは、ひそかに誇りとし歓びとするところでありまして、
本町民たるもの挙町一致、
常に皇軍の武運長久を祈り、不断に銃後の務に欠くることなきを念ひ、努力を続ける次第であります。

その後、三つの婦人団体は昭和17年全国的に統合され「大日本婦人会」として再発足した。
早島町でも、モンペ服装にて国防訓練に貯蓄に援護に会員一同団結して活動する会員数1779名の早島支部が発足した。

昭和12年8月、政府は全ての国民を戦争に協力させるために国民精神総動員実施要項を策定した。
早島町でもこれを受けて、10月13日から一週間を強調月間とし、
各戸ごとに国旗を掲揚して、
13日・時局生活の碑、
14日・出動将兵への感謝の日、
15日、非常時経済の日、
16日、銃後の守りの日、
17日、神社参詣殉国勇士を讃える日、
18日、勤労報国の日、
19日、非常時心身鍛錬の日、
と定め、行事の励行に努めさせた。


(倉敷高等女学校勤労奉仕隊 早島小学校)



思想防衛団

また、思想統制も強化され昭和13年10月には「早島町思想防衛団」が組織された。
共産主義や反国家思想による銃後錯乱に備えるものであった。
団長は町長、副団長には助役と小学校長が就任した。
町内を16の班に分けそれぞれに班長を置いた。
その活動は思想動向の調査にあり、人々は心の中まで監視されるようになった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴支膺懲(ぼうしようちょう)

2021年07月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
昭和12年、盧溝橋事件にはじまる日中戦争の原因は、多くの学者や政治家や旧軍人がいろんな説を述べているが、
いまひとつはっきりしない。
管理人が思うに、日中戦争は、
中国が「日本のいう事をきかない」ので、膺懲した、という単純な原因のように思える。





暴支膺懲(ぼうしようちょう)

日本の歴史 第15巻」  大門正克著 小学館 2009年発行

昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した。
盧溝橋事件である。
ここから長きにわたる日中戦争が続くことになる。

その前年西安事件がおき、国共内戦は停止していた。
日本の軍部は中国側の民族的抵抗を軽視し、民族的蔑視のもと華北制圧を強める。

昭和12年6月4日に国民と軍部の強い支持を得て、近衛文麿内閣が成立した。
政府は不拡大の方針をとったが、陸軍は「一撃」を加えれば中国側はたやすく屈服するとした強硬論が有力で、
政府も傾き華北へ派兵が決定された。

8月には上海でも衝突(第二次上海事件)、戦線は拡大する。
盧溝橋事件では日本は宣戦布告はせず、事変(支那事変)と位置づけた。
戦争目的は「暴戻支那の膺懲」と述べた。
「ヨーチョー」である。

9月第二次国共合作。
12月、日本軍は首都南京を占領。
捕虜を始め、一般住民が多数虐殺された。

昭和13年1月
「国民政府を相手にせず」という声明を発表。
徐州作戦、武漢・広東作戦を経て日中戦争は長期持久戦となる。

昭和13年12月、近衛首相は欧米列強による支配からアジアの解放、日満華の連帯をうたった「東亜新秩序」の建設を声明した。
これ以降、中国との戦争は東亜の平和、安定をめざすためと説明された。

昭和14年4月、近衛内閣は国家総動員法を公布した。この法により、議会の承認なしに物資や労働力など統制できるようになった。






「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


近衛文麿の登場

貴族院議長公爵近衛文麿が、
「国内がたがいに軍官民に対立してたたかっているのを一掃する」と、
国民の期待をになって6月4日、第一次近衛内閣を組織した。
しかし、組閣して一か月後には、日中間の全面戦争が開始された。
軍部は、西安事件以来中国に高まった抗日民族統一戦線をつぶそうと考えていた。

昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋で軍事衝突が起こった。
中国への軍事的侵略を待ち望んでいた日本軍は、ただちに中国軍にたいして攻撃を開始した。

7月28日、華北へ続々と軍隊を派遣し、中国軍にたいして総攻撃を開始した。
29日までに北京・天津および付近の要地を占領。
8月13日、海軍は上海で戦闘を始めた。
8月15日近衛首相は、
「日本は今まで我慢に我慢を重ねてきたが、もはやゆるしておけなくなった。
支那軍の乱暴で道理にはずれた行為をこらしめるために断乎たる処置をとる」
という声明を発表し、中国との全面的な戦闘開始を宣言した。

近衛内閣は、戦争はこれ以上拡大しないとたえず声明を繰りかえした。
しかし、実際は中国全土へ戦線は拡大していった。

杉山元陸相は、
日中戦争は二ヶ月で片づけると天皇に大言していたが、中国軍隊と民衆の強い抵抗の前で苦戦をつづけた。
11月5日上海の危機をきりぬけ、
12月13日、首都南京を占領した。
日本軍は近代戦史上最大といわれる大虐殺をおこなった。
虐殺された数は、
東京裁判では11万9千人とされ、エドガー・スノーによれば上海・南京の進撃中に30万人の中国民衆が殺されたといわれている。
とくに、日本軍の中国婦人にたいする暴行事件は2万件を数え、その1/3が白昼おこなわれた。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする