しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡紡績の設立・発展②

2015年12月02日 | 江戸~明治
笠岡史談4号「笠岡紡績」より転記

笠岡紡績→福島紡績→敷島紡績(一時・敷島航空工業)と流動する中で、最初の笠岡紡績の話が少ない。乏しい資料からできる限り展開してみようと思う。

県議・村長・地方地主により設立、明治27年8月2日開業。

明治40年の状況、従業員606人、男84・女522、職工賃金男41銭・女23銭。
明治40年供給過剰により糸価低落、対支綿輸出激減。
明治41年極度の営業不振で中央資本の福島紡績と堤携やむなきに至った。
明治42年福島紡績は笠岡紡績を買収した。




(笠岡史談20号より)






笠岡史談20号「敷紡笠岡工場」より転記

明治42年福島紡績になった工場は数度の増錘を行い、明治45年今治から3.000錘を移設した。
大正10年新工場を増設した。大正13年以降は8.000錘の撚糸機をも擁し、別にコーマ―機(精流)を備えて、撚糸および40番手の細糸、高級メリヤスを生産した。
大正末と思われるが、
「総錘数14.000、男女工1000余を使役せり、生産額60余万貫、価格170余万円なり。目下増錘の計画あり」

昭和初期紡績業界も不況に見舞われた。
一時的に職員の半数と女寄宿舎の大部分を帰省させ、操業は200名程度の通勤者のみで行い寄宿舎、炊事などは閉鎖された。操業は午前6時から午後6時まで12時間労働を行い、休日は月2回(1日と15日)とした。
昭和3年福紡笠岡労働組合(総同盟)の結成式が笠岡のえびす座(大和座)で行われた。
昭和13年頃工場整備もほぼ完了、製紡機29.000錘、操業も軌道に乗った。
昭和16年の戦争開始より工場も不安定期にはいった。防府よりスフを移入し混紡機で綿・人絹・撚糸を紡出した。

昭和17年5月より極度に原綿が不足した。敷島紡績と改称した。
昭和19年2月軍部からの強い要請により木製飛行機の製造に従事することになり「敷島航空工業」と改称した。従業員も一千名を上回った。
木製飛行機の部品を作って呉の川尻の日東航空(日東紡績)に送った。一年余で終戦を迎える。

昭和21年2月、再び敷島紡績笠岡工場となった。
昭和22年4月から精紡機26.000錘で本格的な操業が開始された。
昭和25・26年は、朝鮮動乱で特需景気にわきフル操業を続けた。

昭和50年ごろ、綿糸は不況になった。
アクリル繊維、安い外国産におされ不況カルテルが結成された。
昭和52年10月5日、笠岡工場の閉鎖が公表された。
昭和53年3月25日、工場閉鎖。
従業員は昭和41年370、昭和52年260.
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