しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

農家と養蚕

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
養蚕業は相場に振り回されるが、貴重な農家の現金収入。これは昭和5~10年ごろの岡山県下の養蚕業。
この時期が日本の養蚕数の最盛期でもあった。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。
こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。
しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。
新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川小で国防婦人会が発足式

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
「非常時」とは、盧溝橋事件後または日米戦争時で使われた言葉と思っていたが
以外に早く昭和8年(1933)に使用されていた。
この年に「非常時女子訓練運動」が始まった。

「爆弾三勇士」も「国連脱退」もこの年。
そして「国防婦人会」が結成された。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

国防婦人会結成

服装はカッポウ着、活動は兵士の送迎と千人針、献金と戦争協力の奉仕活動。
荒木陸相夫人を本部長に「大日本国防婦人会」と決まった。
陸軍省の管轄下で、分会方式をとり学区、町内単位とともに工場分会、芸妓などの分会と下部大衆を組織していった。
4月9日、県下初の国防婦人会設立総会が北川村の北川小学校で行われた。
5月6日、第一回大日本国防婦人会関西本部大会があり出席。
6月25日、福島紡績笠岡工場分会が発足。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労研マントウ

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
父や母が食べていたローマン(労研マントウ)は名の通り、労働研究から生まれた。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

ローマンと倉敷労働科学研究所

1931年(昭和6年)、労研マントウ、略してローマンの名で売り出された蒸しパンが人気を呼んだ。
これは倉敷労働研究所が中国人が常食するマントウを改良考案した代用主食だった。
1930年製法と栄養価を「労働科学研究」に発表した。その一方で、全国40の業者を指定、指導して製造販売を許可した。
1935年ローマンの指定業者は80人となった。

倉敷労研は1921年(大正10)倉敷紡績社長大原孫三郎が万寿工場内に創設した。
深夜の紡績工場の騒音と塵埃の中で働く12~15才の少女らを見せて、彼女らの労働条件改善の基礎研究を依頼した。
労働生理、心理、体質、衛生、栄養の労働現場での多様な調査研究を行った。
ローマンは研究の産物だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廃娼運動

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
昭和3年頃廃娼運動が盛り上がっている。
業者が反対して、婦人運動家が賛成するのはわかるが、肝心の娼妓の意思や意見がわからない。廃止後の処置や時代柄、無理であったような気がする。


以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社


xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

1928年(昭和3年)廃娼運動の進展

農村の疲弊のため遊廓に売られてい行く女性は後を絶たず、不況の進行と共に深刻さを増した。
公娼制度廃止が法律案として初めて帝国議会に提出されたのは、1927年2月で、賛成署名代議士は100余人に達した。
全国貸し座敷業界の代表が続々上京し反対運動を展開、一方廓清会や矯風会も激しい示威運動を開始した。
1928年全国廃娼同志大会が東京で開催され、全国から300余人が参加した。代議士星島二朗が議会内推移を説明した。
県下では禁酒会館において廃娼連盟岡山県支部をはじめ仏教方面、禁酒会方面など各界から有力者を集め、廃娼大運動の準備会が開かれた。宗教党派を超えて全国一斉に廃娼の請願書を提出、一挙に目的達成を目指した。
この年12月県議会を前に廃娼運動は活発となり、埼玉県・福井県では議案が通過した。
岡山県会では出席者32人中反対22人で否決された。
当日は県下の貸し座敷業者100余人、女将20余人が傍聴席に座り、廃娼反対論に喜び過ぎて議長に注意された。
同じ日、福島県は満場一致で通過、秋田県も通過した。

昭和3年年末調査
東西・中島 座敷数123 娼妓465
下津井       11   36
日比        17   85
九蟠        2    3
牛窓        3    13
玉島        15    35
笠岡        16    68
倉敷        16    89
津山        19    71


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする