養蚕業は相場に振り回されるが、貴重な農家の現金収入。これは昭和5~10年ごろの岡山県下の養蚕業。
この時期が日本の養蚕数の最盛期でもあった。
以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
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県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。
こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。
しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。
新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された。
この時期が日本の養蚕数の最盛期でもあった。
以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
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県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。
こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。
しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。
新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された。