しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

亀島山地下工場ほか

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
防空壕は各戸に一ヶ所設けられた割には遺構がない。
どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。

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「新編倉敷市史 6近代」

昭和18年春、
県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。
その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。


防空壕

日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された

倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。

そして市民は、白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくしバケツリレーの訓練に度々参加させられた。
元気な男性は戦場に駆り出され、残る女性や老人らが訓練の中心だった。

身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。
標的に藁人形を置き、ルーズベルト大統領らの絵を張って、敵愾心をあおられることもあった。


予科練試験

昭和18年8月1日、中等学校の高学年を対象に募集した甲種飛行予科練習生の募集試験が倉敷商業で行われ、中学生208人が受験した。
翌年秋からはもっと若い14歳以上の少年を少年航空兵として募集、あるいは17~18歳の若者を郷土防衛戦士として兵籍に入れる措置もとられた。




亀島山地下工場




(2008.11.1 倉敷市連島町・亀島山  👆👇)




1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。

「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」
基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。



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満蒙開拓青少年義勇軍

2020年09月11日 | 昭和20年(終戦まで)
満洲での最大の犠牲者が開拓者であったことは、間違いないが
開拓団や義勇軍は、回顧録のほとんどが犠牲になった部分のみを記して、
自らの侵略者の面を書いているのは、みたことがない。

結果的に悲劇になった原因は、
ソ連軍の侵攻、中国暴徒、住民より先に逃げた日本軍・政府役人。
渡満を進めた政府、町村長や校長先生。また、時代を読めなかった開拓者本人にも一因がある。



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「新編倉敷市史 6近代」

(語り)

内原訓練所から深夜の東京駅で下車。
真っ暗な宮城方面へ向かって遥拝。万歳三唱と海ゆかばを合唱。
夜明けとともに大阪近郊に着く。焼土と瓦礫の中にチョロチョロと燃えるものがみえる。放心した状態で此方を見ている人が点在しているのが無惨で、今去ろうとしている自分の国かと思うと、侘しさを感じた。
昭和20年5月18日、朝霧と霜柱の大地へ足を下す。
霜柱が深く、冷えと驚きだった。
自給自足が義勇隊だ。野菜は雑草の中から選ぶ。南瓜の種、大豆やトウモロコシも蒔いた。
・・・・・
日本の敗戦を知らされたが、噂で聞いていてショックは受なくも、日本の軍隊を恨んだ。
ソ連兵が数名、武装解除にきた。
分身以上に大切にしていた銃をたたきつけ山積みして引き渡した。

持ち物の提出を求められ、時計、万年筆などをものめずらしく見ながら全部を没収した。
武装解除後は中国人が何回となく襲撃に来て、支給されたばかりの物資を持ち去った。



敗戦と満蒙開拓団

敗戦を契機に満州での青少年の生活は一変する。
虚構の満州国はあえなく瓦解した。
一般開拓団、青少年義勇軍を問わず、彼らは日本政府と日本軍・関東軍に捨てられ、茫然自失した。
中国農民の土地を奪って入植していたのであり、逃げ出し引揚げる以外に道はなく、悲惨で冷酷な歴史が展開された。

ソ連参戦と同時に関東軍は国境に一部の兵力を残していち早く後退し、開拓農民と青少年を見殺しにしてしまった。
老幼婦女子の開拓団、義勇軍の青少年たちは、無防備の中で完全に取り残され、以後は命からがらの長い逃避行であり、修羅地獄であった。
葫蘆島を出航して内地に帰還した彼らは、多くの肉親・友人を失い、まさに中国侵略の犠牲であった。


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”ぜいたくは敵だ”

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
「新編倉敷市史 6近代」



パーマネント規制
倉敷署は、街頭で”パーマネント狩り”を実施。
倉敷理髪業組合も倉敷署で次の申し合わせをした。
①男子は丸刈り、角刈り、スポーツ刈りで、油類はつけない。
②女子の髪型は県連合指定の時局型七種のどれかとする。
さらに倉敷市では、
男は日傘やマフラーを使用しない。
女は毛皮の襟巻、高級ハンドバック、夏手袋を廃絶し、ジャズのレコードは使用しない--などを
申し合わせた。

政府は「ぜいたくは敵だ」の標語の下、警察などを動員して国民の不満や不安を抑え込んでいった。


昭和18年になると、
”敵性レコード”の一覧表を作成し、それに載るレコード演奏を禁止する一方、大政翼賛会は「海ゆかば」「愛国行進曲」など74遍を「国民の歌曲」に選定し、
国民歌唱運動を始めた。
倉敷市平和町の女子青年団がハリウッド俳優など、敵国人のブロマイドを回収・焼却する運動を始めると、
今の井原市大江地区にも波及した。
倉敷市川西町の遊郭で始まったイギリスやアメリカの人形の回収・焼却は、他地区の接客業にも拡大していった。


昭和19年各地が爆撃を受けた。
空襲の被害を語るのはデマと禁じられた。
警察はメガホン片手に毎日「デマにおびえないように」と訴えて歩いた。
事実を語る自由さえ失っていった。




農業の統制下

岡山県は昭和16年4月、農産物作付制限規制を交付して、果樹・桑・庭木などの新植を抑え、翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付けの制限は昭和18年いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
共同作業統制規制で管理・作業の共同化を進めた。
石油発動機から噴射機まで、使用方法を統制した。

農家は、
米・麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求めた。
食糧増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。



昭和14年12月、白米食が禁止された。
麦で代用。
うどん・そばも代用食励行された。
次第に、
コウリャンなどの雑穀・ジャガイモ・サツマイモ・脱脂大豆などが主食の4割を占めるようになった。


電灯
昭和16年、一戸一灯。
昭和17年、「夜10時以後絶対消灯厳守」、アイロンや電熱器は使用を自粛。映画館と劇場は週一回休日。



金属類がなくなる

昭和14年、各役場の鉄門・鉄柵がが姿を消した。
昭和16年、鉄と銅の第二次回収。寺院の梵鐘、鉄や銅製の釣り灯篭。学校の国旗掲揚台・鉄柵・二宮金次郎や楠木正成の銅像。
酒津配水池の鉄製吊り橋も取り外した。やがて郵便ポストも鉄製のものは回収され、木製や陶製に変えられた。
昭和18年、学童や警察官らの制服のボタン・食器類・鉄道の有休レール・自動車・橋梁・警鐘台・戸のレール・・・・と金属類の根こそぎ回収となった。



野生植物の繊維資源

昭和19年夏から野生植物を繊維資源として採集した。
クワやフジやアベマキの樹皮・野生チョマ(カラムシ)や竹の皮・ススキの穂・イ草の屑など。
フジやススキは目標の6倍集まった。
ススキの穂は航空用胴衣に入れるために特に学童が採取に励んだという。



戦争へ駆り立てられる

昭和13年「国家総動員法」を施行した政府は、国民を戦争へ動員する”総動員体制”を整えていった。
産業の面では軍需産業一辺倒。
中小商店を始めとする中小企業は閉じて、浮いた労働力を軍需産業へ振り向ける政策を押し進めた。
この企業整備で県下の小売店は8946店が廃業。
昭和18年9月、14~40歳の男子が
事務補助・車掌・販売店員・出改札係・理美容師など17の職種で働くのを禁止する。
昭和19年8月、「女子挺身勤労令」を公布した。
働かない若い女性に就職令を出し、それでも従わないと罪にする。若い女性は否応なく挺身隊員となって働かされることになった。


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