防空壕は各戸に一ヶ所設けられた割には遺構がない。
どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。
・・・・・・・・・・・・・
「新編倉敷市史 6近代」
昭和18年春、
県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。
その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。
防空壕
日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された
。
倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。
そして市民は、白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくしバケツリレーの訓練に度々参加させられた。
元気な男性は戦場に駆り出され、残る女性や老人らが訓練の中心だった。
身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。
標的に藁人形を置き、ルーズベルト大統領らの絵を張って、敵愾心をあおられることもあった。
予科練試験
昭和18年8月1日、中等学校の高学年を対象に募集した甲種飛行予科練習生の募集試験が倉敷商業で行われ、中学生208人が受験した。
翌年秋からはもっと若い14歳以上の少年を少年航空兵として募集、あるいは17~18歳の若者を郷土防衛戦士として兵籍に入れる措置もとられた。
亀島山地下工場
(2008.11.1 倉敷市連島町・亀島山 👆👇)
1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。
「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」
基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。
どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。
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「新編倉敷市史 6近代」
昭和18年春、
県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。
その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。
防空壕
日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された
。
倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。
そして市民は、白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくしバケツリレーの訓練に度々参加させられた。
元気な男性は戦場に駆り出され、残る女性や老人らが訓練の中心だった。
身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。
標的に藁人形を置き、ルーズベルト大統領らの絵を張って、敵愾心をあおられることもあった。
予科練試験
昭和18年8月1日、中等学校の高学年を対象に募集した甲種飛行予科練習生の募集試験が倉敷商業で行われ、中学生208人が受験した。
翌年秋からはもっと若い14歳以上の少年を少年航空兵として募集、あるいは17~18歳の若者を郷土防衛戦士として兵籍に入れる措置もとられた。
亀島山地下工場
(2008.11.1 倉敷市連島町・亀島山 👆👇)
1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。
「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」
基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。