為政者とは別として、また言われなくても、
国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。
国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。
「少女たちの戦争」 中央公論新社 2021年発行
子供の愛国心 有吉佐和子
紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。
前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。
日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。
二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。
紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。
「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。
日本人は世界第一級の国民なのだ。
日本は一等国なのだ。
皆さんは、それに恥じることのない立派な日本人になる義務を持っている」
光輝ある二千六百年の歴史を講義したあとで、校長先生はすっかり興奮していた。
先生はツバを飛ばしながら,一等国民である私たちを激励したのであった。
しかし、そのとき全校生徒の示した反応が私にはそれから十数年後の今もって忘れられない。
彼らは、奇妙な顔をして、校長先生の顔を眺めていた。
それは詰まらない芝居の中で俳優一人がシャリンになって大熱演しているのを見ている観客とよく似ていた。
当時オランダの植民地だったジャバでは、白人は総てに優位だったし、経済的には華僑をしのぐ日本人が決して多くなかったのである。
全校生徒の頭の上を、校長先生の訓辞は白々しく流れていった。
・・・・
私たちは、日本から最近やって来た子供を囲んで、何やかや日本の話を聞き出そうとした。
日本をたつ日が雪だったなどと聞こうものなら、私たちは羨ましくて羨ましくて、抱きつかねば我慢がならなかった。
忠君愛国の、上半分を忘れて国を愛することは出来ていた。
私たちは、日本から最近やって来た子供を囲んで、何やかや日本の話を聞き出そうとした。
日本をたつ日が雪だったなどと聞こうものなら、私たちは羨ましくて羨ましくて、抱きつかねば我慢がならなかった。
忠君愛国の、上半分を忘れて国を愛することは出来ていた。
春は花が咲き、
秋は虫が鳴く、
冬は雪が降るといった、
四季の変化や折々の些細なことに、私たちの国を想う念はかきたてられた。