しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ゼロの文学

2022年05月07日 | 昭和20年(戦後)
軍国主義におもねれば別だが、
作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。
岡山に疎開していた永井荷風が、
終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。





ゼロの文学


新聞は戦争記事でうまった。
男は国民服とゲートルをつけ、
女性はモンペをはくことになった。
そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。

徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、
時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。
谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。
永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。

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昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。


太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行



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岡山市に疎開していた荷風の終戦翌日の日記は、これからの日々に自由や希望があふれ出ている。

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「荷風を追って」--1945夏・岡山の80日  三ツ木茂  山陽新聞社 2017年発行

この日、東久邇宮に大命は下った。
荷風は筆をとり、元中央公論社社長の嶋中雄作に手紙を書き、
岡山県勝山町の谷崎潤一郎にも礼状を認めた。
この夜の月がおそらく最も輝いていたであろう。


(昭和20年)
 八月十六日(木)
晴、郵書を奈良県生駒郡法隆寺村に避難せる嶋中雄作に寄す、
また礼状を勝山に送る。月佳なり。



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朝顔の咲かない夏

2022年05月07日 | 昭和21年~25年
子どもの頃の夏休み、どこの家にも朝顔とヒマワリは咲いていた。
花が終わると種をとり、それを翌年咲かせていた。それが毎年つづいていた。

しかし朝顔の咲かない夏があった。
昭和20年頃から24年頃までだろうか。





季節感の回復  昭和21年5.12  天声人語

日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。
つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、
それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。
目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。

花や緑も何年かぶりに接する心地がする。
平和になって季節感をとりもどしたのである。
五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。

本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国体を護持するとか、
あのまま続けていたら、コロネット作戦、オリンピック作戦をまたずとも、
原子爆弾で国も山河も亡びつくしたに相違ない。


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朝顔  昭和21年8.26  天声人語

朝顔は清潔可憐な花である。
その朝顔がこの夏,都鄙(とひ)をとわずどこの庭先にも見られなかった。
この花が姿を消したのは、食糧事情が窮迫し家庭菜園がはやりだしてからである。
朝顔のみならず、草花という草花が、われわれの庭から追放されてしまった。

日本人が花を愛さなくなったからではない。
花を愛する余裕が物心両面ともになくなったのである。
咲く花は、食える実の生る花ばかりである。
南瓜、茄子、胡瓜は、空地という空地に花盛りだった。
生きるか死ぬかのせっぱつまった心境で、咲かせた花である。

しかし南瓜の花も案外いい香りをもっているのを発見した。
武者小路実篤氏は好んで芋の絵を描くが、
自分で作ってみると、
じゃが芋や南瓜のたたずまいにも、驚嘆に値する美を見出すのである。



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