日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。
そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。
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三八式歩兵銃
「日本軍事史」吉川弘文館 2006年発行
三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、
米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」
「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」
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「三八式歩兵銃」(センデンビラ)
諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。
その後、各国は競って科学の研究に没頭し科学兵器に一大進歩を見たことは世界各国の知るところであります。
然るに諸君が自動小銃に対し●●式の小銃で闘はねばならないのは何故でせうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰ってかかることが出来ませうか。
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(Wikipedia)
三八式歩兵銃
日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、
有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において
、帝国陸軍の主力小銃として使用された。
三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、
同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。
このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。
あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、
また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。
この改良は順調に進み、
本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)5月に制式制定された。
部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。
本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。
以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。
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