江戸時代は、年貢米による石高制の社会だったが、
では、その年貢米はどのように運ばれたのだろう。
田んぼで稲刈り→百姓家で米俵→庄屋へ運ぶ→代官所・城下の米蔵・湊の蔵→大坂・江戸、と思う。
庄屋に集まった米俵は→一番近い川か海の湊まで馬の背で運ぶ→舟で指定の湊の米蔵に運ぶ。
茂平に当てはめると、
茂平の湊から笠岡の代官所指定の米蔵に収納する。(ここまでは庄屋の責任)
笠岡湊から大坂・江戸の幕府米蔵まで運ぶ。(ここは代官所の責任)
だったのだろう。
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「美星町史・通説編」 美星町 昭和52年発行
年貢米の輸送
年貢米の輸送は大仕事であった。
九名村から、納められる年貢米は明治3年頃は玉島へとしたものである。
九名村から水内川舟場まで3里、
水内から玉島港まで7里半。
水内から玉島経由笠岡まで17里半であった。
連れの人足賃5日分、途中支度2人分、宿泊料5日分など、
輸送する年貢米のことを廻米というが、
その廻米にかかる村々の出費、「村がかり」となるわけである。
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「吉備路と山陽道」 土井・定兼共著 吉川弘文館 2004年発行
美作国山間部の年貢米
河岸まで馬や荷車で運び、そこから高瀬舟で川を下った。
流域各所に河岸があり、
それぞれの河岸に集められた年貢米は関係村落から庄屋が出勤して厳重に数量チェックした。
高瀬舟には船頭・水夫とともに上乗りと称する庄屋が同乗して川を下った。
大体四、五艘から多い時には十艘の船団を組み、
夜には繋いで番をした。
吉井川・旭川の河口湊で海船に積み換えられて、江戸・大坂へ向かった。
玉島港
高梁川では、新見からの高瀬舟は松山河岸までしか下れず、
それより下りの高瀬舟に積み換えられた。
継船制という。
天保11年(1840)、新見河岸から松山へは月に6度、
3と8がつく日の午前8時に出船と決まっていた。
成羽川では明和3年(1766)東城から玉島まで直行できる高瀬舟は4艘と定め、
物資は年貢米の他に、たたら製鉄や銅・鉛・煙草・檀紙などの産物が高梁川を下った。
河口で海船と連結出来た場所が玉島港である。
松山藩主水谷勝隆は玉島港を問屋稼ぎ場として公認した。
水谷氏は玉島港周辺の新田開発を進めると同時に、
船穂村から長尾を経由して玉島に至る高瀬舟の運河「高瀬通し」を設け、
玉島には蔵屋敷が設けられている。
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「江戸時代の瀬戸内海交通」 倉地克直 山川弘文館 2021年発行
米の輸送
海上交通の中心はモノの輸送である。
室町時代にも瀬戸内でのモノの輸送は盛んであったが、その多くは米か塩であった。
それが江戸時代になると質量とも大きく変化する。
多様なモノが大量に輸送されるようになった。
米が中心であることは変わらない。
岡山藩
江戸時代前期の城米輸送は、塩飽船がほぼ独占していた。
前年の秋から春までに、町船四艘で江戸へ藩米5255俵を運んだ。
岡山船、片上船、鴻池船が運んだ。
津山藩
高瀬舟から直ぐに海船に積み、少しでも陸に上げない、と命じている。
備前船が江戸へ運んだ。
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Web「古文書ネット」
年貢は個人ではなく村に課せられ、農民たちが分担して耕作し年貢を納めます。
米は秋に収穫され、納める年貢米は村の蔵である郷蔵(ごうぐら)に保管。
ちなみに小倉藩の蔵納めの期限は旧12月10日です。
年貢米を回送するための船積場所を津出場(つだしば)と言います。
津出場まで五里以内の運送は農民負担で、それ以上には五里外駄賃(ごりがいだちん)が支給されます。
廻船
幕府から江戸へ年貢米を運ぶ(廻米)にはかなりの日数を要し、享保二年(1717)旧9月の定めにより、
関東地方の翌年正月をはじめとして、越後・越前・能登・出羽などは旧7月を期限としています。
浅草の米蔵
江戸浅草の米蔵へ年貢米を納入の時は、代官が蔵奉行の仕方を立合い、見届ける義務がありました。
現在は、蔵前という地名だけは遺っています。
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「日本の町並み」 山川出版社 2016年発行
橋津藩倉
橋津集落の橋津川沿いには、鳥取藩の藩倉として利用されていた土蔵が3棟残されている。
橋津村は年貢米の集積地となっており、
藩倉は土壁が厚く塗られた土蔵造りであるが、床下部分には土壁を設けないことで通風を確保するという独特な構造となっている。
撮影日・2020年10月13日 鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津
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「海の交流」 中国地方総合文化センター 2012年発行
西廻り航路と東廻り航路
幕府の年貢米廻送のため、東廻り航路と西廻り航路が開拓された。
東廻り航路
それまでは荒浜(宮城県)から廻船で銚子まで運び、そこから川船に積み換え、利根川をさかのぼって江戸に運んでいた。
そこで瑞賢は房総半島に向かい、相模三崎に立ち寄って西南風を待ち、直接江戸湾に入るという東廻り航路を開いた。
西廻り航路
出羽国の城米を江戸に送るには、津軽海峡を経て太平洋に出、江戸に達するコースが一番近かった。
しかし津軽海峡の通過には危険も多かった。
そこで日本海を南下し、瀬戸内海を経て江戸に達する航路が注目された。
瑞賢は、
最上川の舟運を利用して城米を酒田に運び、そこから廻船に積み換えて海路をとった。
これが西廻り航路で、途中の寄港地に選ばれたのは、
佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、石見の温泉津、長門の下関、摂津の大坂、
紀伊の大島、伊勢の方座、志摩の安乗、伊豆の下田である。
そこに番所を設けて手代を配置し、航路安全を図った。
大型廻船は塩飽船が丈夫で最も多く採用された。
船も塩飽水夫も高く評価された。
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海路の歴史
江戸時代には全国的な航路網が整えられ、
江戸と経済の中心であった大坂間には、菱垣廻船、樽廻船と呼ばれた定期便が就航する。
17世紀半ば過ぎ、東北地方の幕領米を江戸・大坂に運ぶため、二つの航路が開拓された。
東廻り・・・東北~太平洋~房総~江戸
西廻り・・・東北~日本海岸~下関~大坂
さらに18世紀後半には蝦夷地の松前までのびた。これは北前船とよばれ、
日本海岸に沿って西下、コンブ・サケなど蝦夷地の特産を大坂に運び、明治中期まで活躍した。
「すぐわかる日本の歴史」 小和田哲男 東京美術 平成12年発行
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