明治に道らしい道はなく、
文明開化で馬車や荷車が通り、道は更に悪路になった。
政府は鉄道の敷設を進めたので、
道路は昭和30年頃まで、江戸時代とたいして変わらない状況のままとなった。
大正の末年、鴨方往来(浜街道)が旧山陽道から国道2号線をとって変わったが、
なんと車両通行さえおぼつかない国道2号線だった。
高梁川が一本の川となり、その高梁川に霞橋の架橋完成に合わすように、周辺の国道2号線はバスが通れる程度の道となった。
昭和3年のことである。
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「道Ⅱ」 武部健一 法政大学出版局 2003年発行
明治維新
明治2年、諸道の関門(関所)の廃止が通達された。
その翌年より、本陣・脇本陣が廃止、助郷制度廃止、飛脚が廃止された。
しかし、
明治3年(1870)に人力車の開業、明治9年自転車の輸入が開始されるなど、
馬車の通行がさかんになると、
ケンペルなどが称賛した日本の街道も、たちまちその脆弱性を露呈した。
道路の痛みは激しく、改良の必要性は非常に高いものでもあった。
しかし、
明治政府の目は鉄道に向いていた。
早くも明治2年に東京と京都・大阪間を結ぶ計画を決定した。
明治19年の「道路築造保存方法」
道路の表面は割石で築造し、
馬車の通行が頻繁でない場合は砂利でもよいと、
馬車の通行が道路設計の基本になっている。
明治の道路
明治は、その後半で20世紀を迎えるのだが、
ちょうどその頃、自動車が輸入された。
最初は裕俗な上流階級のステータス・シンボルとして始まった。
乗合自動車(バス)、貸自動車(ハイヤー)が次第に大衆化し全国に広がり、
大正8年、道路法が制定された。
自動車が道路設計の基準として登場した。
大正8年道路法
初めて自動車交通が設計対象の一つになった。
このころ自動車台数は11.000台、
まだ馬車などが圧倒的に多かった。
両にらみの構造基準となった。
歩道と並木
もともと道路構造の基準に歩道という概念そのものが存在していなかった。
明治に残されていた並木の規定も姿を消した。
規定が現れたのは1970年(昭和45)である。
少なくとも規定上では、完全に忘れられたのである。
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画像は大正末年~昭和35年頃までの国道2号線(岡山県笠岡市笠岡~広島県福山市大門町)
浜街道(笠岡街道・福山街道)
撮影日・2020.3.19
笠岡市笠岡
笠岡市金浦
笠岡市用之江・天神鼻。ここで新旧の道が合流する。 手前が旧浜街道、お堂を挟んで新・浜街道
旧浜街道(笠岡市用之江)
旧浜街道(福山市大門町)
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「美星町史 通説編」 美星町 昭和51年発行
町への道
明治後期以降に、
荷馬車、牛馬などが使われるようになる。
大正後期、美山村では
「近ごろ、道路の改修が着々と行われ、
村内いたるところ、荷車の通じること喜ぶべし」
とあり、
歩き時代の古い道の拡張がなされた。
こうした町への道も現在では「山道」とか「小道」と呼ばれるものとなり、
今は通る人もほとんどいない。
運搬
「オイコ」は女子の運搬用具として山仕事や家庭用品・農産物の運搬に使用された。
肩に担ぐものは「テンビン棒」がよく利用され、
笠岡の西浜(ようすな)や寄島からの魚の行商人、鴨方からのそうめんの運搬には、なくてはないない運搬用具であった。
大小便のたごを担ぐにも使用した。
大八車(荷車)は米・麦の俵、薪炭・木材などの重量のある物資の輸送に利用された。
大正10年に井笠鉄道が矢掛まで延長された。
大正14年井笠鉄道の乗り合いバスが開通した。
行商
行商人は、
笠岡西浜から魚、
井原から肉類、
出雲からノリ、わかめ、するめ
などを売りに来ていた。
総社、富山から薬を売りに来ていた。
仲買人
アイの仲買人がやってきていた。
アイづくりの次はハッカの栽培と養蚕が盛んになった。
売り出しと買物
割木、松葉を20貫くらい、天秤で担いで井原の向町や西江原の今市へ売りに行った。
種油、わかめ、こんぶや、
盆正月には、ゆかた、手拭、あさうらぞうり、扇子、コンペー糖などを買ってきた。
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「道の文化史」 中国地方総合研究センター 2013年発行
明治
明治9年、国道四号(東京~長崎)に組みいれられた。
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大正
(Wikipedia)
大正9年、国道二号線(大阪~下関)となった。
大正15年、路線変更し、旧鴨方往来が国道となる。
昭和
戦後に自動車通行量が増加すると、笠岡市民が「日本一狭い国道」と称するほど狭隘で屈曲した悪路で、県道に降格した旧山陽道が1960年代初頭まで東西の主要交通路を担った。
地図上で変更後経路の国道収載は戦後以降である。
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用之江~大門間は昭和初期、新道が完成した。バスが通れる道幅になった。
新道・福山市野々浜
新道・福山市大門駅(駅前が舗装されたのは昭和40年代になってから)
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「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
道
鴨方町の南北へ通じる道としては、安倉街道(寄島街道)がある。
また、遥照への道がある。地蔵峠から矢掛へ通じていた。
しかし、今日でも少し残っている旧道をみてもわかるように、
車力も通るのに困るほどの狭い道であった。
東西の旧国道は、里見川に沿って通っており、
道幅も狭く、しかも、曲がりの多い道であった。
この国道の他に、昔の鴨方往来が東西に通っていた。
この道も、旧鴨方の家並みのあるところは広い道であるが、
そこを出ると細い道となっている。
昔の道は、人が歩くのが中心の道だったので、
道幅も、二尺から三尺(一尺は約30cm)程度のものが多かった。
このような道でも
人々にとっては生活道路だったので、いろいろと工夫していた。
例えば、鴨方往来には鴨方川にある土橋は有名であった。
当時としては立派な橋であった。
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「矢掛町史」 矢掛町
交通路
平野部を横断する東西交通は、旧山陽道・小田川の水運などで至便であったが、
南北交通は急峻な山地にさえぎられ、困難を極めた。
笠岡へ至る道は、
小田の観音橋を渡って南へ向かうため、峠もなく、
荷馬車、牛車、大八車で容易に行くことができた。
特に難儀をしたのは、
鴨方・玉島との交通であった。
鴨方へは徒歩のほか越えることは難しかった。
玉島へは明治40年代、切通しがつくられ峠が越えられるようになった。
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