しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

開戦決意

2021年12月07日 | 昭和16年~19年
昭和16年の日米交渉だけをみれば、開戦原因はアメリカにある。
そこになぜ至ったのかをみれば、開戦原因は日本にある・・・と、自分は思っている。




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「岩波講座・日本歴史21」   岩波書店 1977年発行 


開戦決意

米英蘭の対日資産凍結と石油禁止が実施されると、まず海軍のなかから日に12.000トンづつ石油がなくなり、戦わずして屈服に追い込まれると対米開戦論がおこった。
7月29日、永野軍令部総長は「この際打って出るの外なし」と上奏し天皇を驚かせた。
陸軍でも対ソ開戦が薄れるにつれ対米開戦論が強まった。
参謀本部は8月9日「11月末を目標として米英作戦準備を促進す」る方針を立案した。
日本の新聞もABCD包囲網を連日非難するようになった。

他方、近衛内閣は戦争の危機を前に日米交渉の促進に懸命になった。
政府は統帥部と相談していては間に合わないとして独自に動き始めたのである。

陸軍は、
三国枢軸堅持
大東亜共栄圏遂行
撤兵せず
の三条件を固守する。

9月6日には秘密裡に御前会議が開かれ、
10月下旬を目標に戦争準備をする。
10月上旬になっても外交交渉の目途がない場合には対米英蘭開戦を決意する。

外交上の要求としては、
日本が仏印以外に武力進出しないかわりに、
米英はビルマルートの閉鎖、対中国援助打ち切り、日本の物資獲得への協力をもとめると強めた。
これらの要求が達成される見通しはまったくなかったから、事実上の開戦決意である。

これと並行して首脳会談の交渉案が立案されていた。
10月2日アメリカはもっと事前同意を要求する回答だった。

東条陸相の、
「撤兵でアメリカに屈すると支那事変の成果を壊滅する。満州国をも危なくする、朝鮮統治も危なくする」
と交渉打ち切りを要求した。
内閣不統一で第三次の近衛内閣は退陣する。

宮中では第四次近衛内閣が優勢であった。
宇垣内閣も有力で、宇垣自身も工作した。
天皇も重臣も陸軍を抑えることで対立が深刻化し、部分的にせよ中国からの撤兵は方向転換できにくかった。
重臣会議で宇垣・東条が推薦され、御前会議を白紙に戻す条件で東条が決まった。

野村大使を助けるためあらたに来栖三郎大使をアメリカに派遣した。
ハル長官は悠長な交渉態度をとった。
中国蒋介石は対日経済封鎖を解除しないようアメリカに訴えた。

日本の攻撃を知っていたハルはハルノートを野村大使に手交した。
日本に満州事変以前への復帰をもとめるものである。
12月1日の御前会議は「帝国は米蘭豪に対し開戦す」と決定した。

おりからドイツ軍は12月6日に始まるソ連軍の反攻を受け敗北を喫していた。
12月8日の真珠湾攻撃はアメリカを開戦へと一致させ、第二次世界大戦へ参戦した。
1942年1月1日には、米英ソ中を中心とする26ヶ国によって連合国宣言が調印された。


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「日本軍事史」  高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館  2006年発行

対米開戦の決意

対米戦争が広大な太平洋上での戦争である以上、
海軍が対米戦は不可能といえば本来戦争はできないはずであった。
しかし、海軍は決してそうはいわなかった。
一部の強硬派をのぞき多くの者が内心では勝利の見込みに乏しいと思っていたのだが、長年アメリカと戦うからといって多額の予算を獲得しておきながら、
いざとなったら戦争はできないなどとは、官僚機構として存在意義に関わることであり、到底言えなかったのである。
「総理が判断してなすべき」だと発言して責任を回避したのも、こうした事情にある。

そんな海軍にとって石油の禁輸は重大な意味をもった。
対米戦に内心反対でありながらそれを押し通せなかった近衛首相は10月16日、
内閣総辞職の途を選んだ。

11月26日、
「支那及び仏印」からの撤兵、
汪兆銘政権の否認、
三国同盟の死文化などを記したハルノートを突きつけられ、
12月1日ついに開戦を決定するに至った。

もし撤兵となれば、陸軍が過去4年間にわたって国民に負わせた犠牲はいったい何のためだったのかということになる、
だから絶対不可というのである。



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