しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「二島で妥結するな」 1955年歯舞・色丹

2021年01月20日 | 昭和31年~35年
高名な外交官・松本俊一とソ連マリクとの交渉は、欲張った日本外務省の失態で歯舞色丹が戻らなかった。
その後は時計が止まったように65年が過た。


・・・・・・・

「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行

「二島で妥結するな」

昭和29年末に首相に就任した鳩山一郎は、日ソの国交回復に乗り出した。
昭和30年(1955)、全権に松本俊一を任命し交渉を開始した。

抑留者や北洋漁業など、ソ連側には切り札が多かった。
焦点の領土問題は難航した。

だがソ連側全権のマリク大使は驚くべき発言をした。
「ほかの問題が片付けば、歯舞・色丹を引き渡してもいい」
フルシチョフが決め、マリクに指示した「譲歩」案だった。

これに対し外務省は8月27日、松本に新たな訓令を発した。
国後・択捉についてもできる限り返還に努めよ。
つまり「二島で妥結してはならない」との内容だった。

松本は30日の交渉で四島返還を提案した。
マリクは態度を硬化させ、この日を境に交渉は暗転した。


松本は10月6日の読売新聞紙上で、
「国後・択捉は突如としてでてきた問題。
最初からなら考え方もあるが、最後に出てきから非常にやりにくい」と語っていた。

翌56年2月、日本政府は
「放棄した千島列島に国後、択捉は含まれない」との解釈を打ち出した。
折り合いがつかなくなった交渉は3月20日、自然休会となった。






鳩山は事態の打開に自らのソ連訪問を決意する。
自民党は9月20日、「歯舞・色丹の即時返還」「国後、択捉の継続交渉」を党議決定した。





鳩山、河野らは56年(昭和31)10月7日羽田を出発。12日モスクワに着いた。
病身の鳩山に代わり、実質的な交渉には河野があたった。
領土問題では意見の一致をみず、
歯舞、色丹については平和条約締結後に日本に引き渡されることが盛り込まれた。
自民党内では歯舞・色丹の即時返還さらなかったことに、厳しい批判が出た。だが自民党総務会では「やむなし」と結論づけた。

日ソ共同宣言は、衆院で全会一致、参院で採択、12月12日批准書交換が行われた。
政界引退を決めていた鳩山は12月20日、内閣総辞職した。


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