子供の頃、サーカスを二度目たことある。
4月の「福山とんど祭り」で二度見た、
木下サーカスと三好サーカスだった。
その頃、芝居の劇団よりは規模が大きな見世物小屋といった感じでみていた。
木下サーカスはオートバイが地球儀の中で爆音を鳴らすので鼓膜が破れそうだった。
三好サーカスは分福茶釜と同じ綱渡りの曲芸をよく覚えている。
その芸は、自分と同じくらいの年齢の少女がしていた。
あの子は学校に行っているのだろうか?
人さらいに遭って、サーカスに連れてこさされたのだろうか?
そのころ、茂平には時刻を知らせる放送塔ができて、その時々の流行歌を流していた。
3ヶ月が半年ほど、マヒナスターズが歌う「番頭はんと丁稚どん」で、大村崑ちゃんの台詞がはいっていた。
~おっ母ぁ、わてはお店をしくじって、サーカスにはいりました~
社会の底辺を感じさせる悲しい歌だった。
子供ごころにサーカスには哀しいイメージがつきまとった。
昭和31年に日本のサーカス団は20以上あったようだ。
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「夢つないで 木下サーカス120年」②
山陽新聞 2022年5月31日
明治から昭和にかけて激動の時代にサーカスを率いた唯介は、さまざまな苦難に遭遇した。
日中戦争が始まった37(昭和12)年、サーカスの看板でもあった4頭の象を手放すことになった。
国内が戦時色に染まっていくなか、大型動物の貨物輸送が難しくなる上、空襲などで逃げ出したらパニックになるとの理由からだった。
日本が太平洋戦争に突入し、戦局が厳しさを増すと、男性団員たちは次々に召集された。
1943(昭和18)年には、興行先の鳥取市で鳥取大地震が起き、当時、興行を仕切っていた弟の幸治をはじめ団員7人が犠牲となる不幸が重なった。
それでもサーカスの灯は絶やさなかった。
女性を中心とした団員たちが劇場を回って舞踊などの芸を披露。
人々にいっときの安らぎを提供した。
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「木下サーカス四代記」 山岡淳一郎 東洋経済新報社 2019年発行
丸テントの「革命」
何が、サーカスの成長を阻んでいるのか光三は考え抜いた。
江戸期よりの「丸太掛け小屋」を脱却し、「洋式の丸テント」に変えようと決断した。
体育館やホールでは大きさがまちまち、団員の空間感覚が狂い、演技がしずらい。
危険度が高まる。
サイズが一定の丸テントがあれば、どれほど便利だろう。
丸太をそろえ、鳶職をそろえて掛け小屋を組む。だから収益の4割は歩方がとる。
場所の選定も、歩方よりも新聞社と組んだ方が世間的なとおりがよい。
光三は太陽工業に丸テントの製作を伝えた。
2.000人も収容する巨大テントの製作は社運を太陽工業の社運を懸けたチャレンジだった。風速40mに耐え、軽くて持ち運べるテントを完成させた。
節目を重んじた初代唯助
岡山の表町、天瀬に幾つもの映画館、旅館、大衆浴場、料理屋などを建てて「千日前」と称される歓楽街に変えた。
済生会岡山病院の建設の為に広い土地も寄付している。
晩年は書に親しんだ。
木下サーカスの礎は唯助によって築かれた。
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