場所・佐賀県唐津市東城内
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「近代日本の出発」 板野潤治 新人物文庫 2010年発行
与謝野晶子が厭戦派婦人の代表であったとすれば、
主戦論派の婦人代表は愛国婦人会の奥村五百子(おくむらいおこ)であった。
東本願寺派の僧侶の娘であった奥村は、
義和団事件にさいして東本願寺の出兵慰問使として清国におもむき、
帰国後の明治34年3月、
軍人遺族や傷病兵の救援を目的とする愛国婦人会を組織した。
皇族や華族を役員としたこの会は、日露戦争中には20万人近い会員を擁する一大婦人組織となっていた。
与謝野晶子はこの愛国婦人会の活動に批判的で、
「御者」や「馬丁」を引きつれて下手な包帯巻きをする
「立派な令夫人」たちの行動を
「あなかしこ、私などの知らぬこと、願わぬこと」
と記している。
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奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を演じた映画になるほどの人だった。
創立した「愛国婦人会」は、背景に軍人や軍国主義があるため、奥村の再評価は難しいように思える。
奥村 五百子(おくむら いおこ)
(Wikipedia)
弘化2年5月3日(1845年6月7日)-明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。
経歴
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。
同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。
北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。
愛国婦人会(あいこくふじんかい)
戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。
1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月24日に創立した。
初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。
1920年、会長に下田歌子が就任。1927年、会長に本野久子が就任。1937年時点で、会員数311万人余に達し、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていた。
1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。
翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。
活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。
関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。
また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。
初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長した。
各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。
撮影日・2014年1月11日
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