場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島
高校生の時、古文の教科書で”象潟”を知り、地図を見ればはるかに離れた秋田県の秋田市からも遠い場所だった。
その象潟に初めて地を踏むと感慨を覚えた。
かつての九十九もの島々は、今も浮島のように、
緑の田園の中に松林の小山として残されていた。
「秋田県の歴史」 今村義孝 山川出版社 昭和44発行
象潟の景色は古くから世に知られていたようである。
鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。
室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。
象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。
芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。
その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。
それゆえ、六郷氏も島守をおき島内・潟端の新田開発を禁止するなど、
その維持管理につとめた。
しかし文化元年(1804)滄海桑田の変がおこった。
象潟は陸地となり、
その面影は本荘藩の画工狩野永昌の画いた「象潟図屏風」に見られるだけとなった。
文化の大地震と蚶満寺
(Wikipedia)
象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、
文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。
象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。
訪問日・2022年7月11日