しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦終了

2023年06月22日 | 昭和20年(終戦まで)

 

沖縄戦、

敵は米軍だったが、日本軍も味方とは言えなかった。

 

・・・


雑誌「歴史人」 2022年6月号 


沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、
彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。
というのは、
アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。

沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。
ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。
彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。


・・・


「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行


沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。

6月22日、牛島中将は司令部で自殺した。「日本兵は命あるかぎり戦い続けよ」と遺言した。
軍人・民間人含めて20万人が犠牲となった。
沖縄県民は、なんと4人に1人が死んでいる。

 

・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


捨て石にされた沖縄

大本営は、沖縄戦を本土決戦のための前哨戦、いわば「捨て石」作戦と位置づけていた。
沖縄守備軍の任務とは、沖縄にある人と物を使って本土決戦までいかにねばり、時間稼ぎができるかというその一点だけだったのである。
海も空もアメリカ軍が島をとりかこんでいて、もうどうしようのない状況だった。
ただ人間の命を時間稼ぎのためだけに消耗するという戦いを強いられた。
4月22日、ソ連軍はベルリンに突入し、30日ヒトラーは自殺、
5月7日ドイツは連合国に無条件降伏する。
ソビエト軍兵力の東方への輸送が3月ころから始まった。
ドイツ崩壊の前後、大本営ではソ連参戦防止のための対ソ外交について議論が重ねられた。

 

沖縄玉砕

5月下旬までに、沖縄の日本軍の主力部隊はほぼ壊滅していた。
日本軍は、まともな武器も兵もないため、ゲリラ戦で抵抗を続けた。
嘉数高地から浦添をへて、首里へいたる中部戦線は、わずか10キロ。
この10キロで、日本軍は64.000人戦死。アメリカ軍も26.000人死傷という死闘がくりひろげられた。
ここで日本軍は、自爆攻撃によってアメリカ軍にたちむかっていった。


陸の特攻作戦である。
爆弾箱を、自分の腕にかかえて突進したのである。
海も空もアメリア軍に握られた日本軍は、外からの補給は絶望的で、
それをあくまで精神力でのりきろうとしていた。
5月22日ごろ首里陥落。
軍民ともに最後まで闘い、本土決戦までの時間を稼ぐ「玉砕」を選択したのであった。
日本軍による住民犠牲は、わかっている数字だけでも数百件。
アメリカ軍によるものの4倍ともいわれている。
犠牲者数15万人という凄惨な結末だった。

 

・・・

「教養人の日本史・5」 藤井松一  現代教養文庫 

硫黄島を攻略した米軍は、最後の決戦場を沖縄に求めて兵力を結集し、
4月1日上陸作戦を開始した。
総兵力54万、
軍艦38隻、
補助艦艇1.139隻、
上陸用舟艇 数千
まさに雲霞の大軍であった。

これを迎え撃つは、牛島中将指揮の
陸軍7万、
海軍8.000
男女中学生徒含む県民2万5.000人が義勇隊として動員された。
日本軍はほとんど全滅に全滅に近い。
一般住民15万人が戦火にたおれた。

6月22日、牛島司令官と長勇参謀長は洞窟の中で自決し、最後の突撃が敢行され、抵抗は終わりをつげた。

・・・

米軍よりも日本軍が恐ろしかった

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

沖縄戦で正規軍の2.2倍もの住民が戦死した。
日本軍が、沖縄の人口の大多数が居住する南部に主戦地をとって立てこもったこともさることながら、戦争と民衆、軍と市民の関係という面で、現在に至るまで考えさせる問題を提起している。

端的に言えば、住民にとっての沖縄戦は、米軍と日本軍に挟撃される逃れようのない地獄図であった。
挟み撃ちにあったのは、肉体・生命だけでなく精神もそうである。
引き裂かれ傷つけられた精神は、皇軍とは?祖国とは?軍とは?戦争とは?
を問い返して今に至っている。

沖縄戦を象徴するできごとは、米軍の沖縄本島上陸以前に起こった。
慶良間列島で相次いだ住民の集団自決である。
手榴弾で死にそこなった者は
「互いに棍棒で打ち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しい者の頭を叩き割ったりした」。
軍に強いられた集団自決の後、住民は「米軍より日本軍が恐ろしくなった」と語っている。

これらの手記や報告は数多く残されている。
軍は、沖縄の人たちそのものを敵視したのである。
それは「戦場の狂気」ではすまされない。
たとえば5月5日、参謀長名で「標準語以外の使用を禁ず。沖縄語をもって談話したる者は間諜として処分す」

沖縄戦の特徴は、第一に住民が軍の指揮下におかれて戦闘に組み込まれたこと、
第二に軍と住民が混在している地域が戦場となったことである。
大多数の沖縄県民は、軍と共死共生しようとした。
しかし「共死共生」を破ったのは軍の方であった。
本土人をもって構成された軍は、沖縄住民を恐れ敵視したのである。
そこには、差別意識が強く働いていたといえよう。

 

・・・

牛島満軍司令官の最期の命令、
「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」(最後まで戦って、お国のために死ね)

海軍の大田実司令官は、
「沖縄県民かく戦えり」「県民に後世特別のご配慮を」と海軍次官へ打電し自決。

牛島司令官の命令通りすすんでいたら、沖縄県は生存者ゼロ、
大田司令官は後世への言葉が残り、いくらか救われる。

・・・

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”肉”を食う⑤羊・鴨・鯨・雀・犬・ドンガメ・・ 猿

2023年06月22日 | 食べもの

子供の頃、日本の山々は人の手が入っていたので、動物は山奥にいて姿を見ることは珍しかった。
干支で亥年の年なんか、いったいイノシシってどんな山村の、そのまた奥にいるのだろう?
と不思議に思っていたが、今の日本は、イノシシの出ない村や町が珍しくなった。

そんな訳で、少年時代に食べた肉はあまり多くはない。

 


畑仕事の帰りに父がつかまえて食べた。家族全員で分けると一切れで、味の想い出はない。

空気銃を持っている人が撃ち落とした雀を焼いて食べた。雀自体が小さくて肉は一口でおしまい。
ニワトリ
養鶏を始めて後、特によく食べた。
ドンガメ(カブトガニ)
腹が減っているので仕方なしに海辺でドンガメを焼いて食べた。
あの悪臭、グロテスクな形。ひっくり返すと何本もある手足が動く。
クジラ
とにかくよく食べた。あの、しわい肉を。
魚屋のしょうやんが売っていた。自宅で食べるだけでは無い、
当時の学校給食でもめやたらに鯨肉は多かった。

畜産で飼っていた羊が死んで、毎日・毎日・毎日・・・・・・、食べつづけた。もうええわ、というだけ食べた。





・・・・
(父の話)

犬の肉は戦後すぐの頃、食べる物がないとき食べていた。
捨て犬をつかまえとった。
捨て犬が多ぃかったんじゃ。
猫はいけん、犬はうまかった。
2000年9月10日

・・・・・



「野火」  大岡昇平  新潮文庫


「猿の肉だ、食え」と言われて、私はその肉の干物を食う。
だが、ある時、それが人間の肉だとわかる。
人間は追いつめられると何でもしてしまう。
殺人すらもだ。
そして、殺した仲間の肉を食う。
生命を生きながらえる。


「さうか。ふむ、お前何か食糧持っているか」
私は首を振った。
「何もねえ。草や山蛭(やまひる)ばかり食ってきたんだ」
「銃もねぇんだな」
「ねえ、ああ、そうだ、手榴弾があった」
「手榴弾」と、二人が同時に叫んだ。
「それがありゃ、魚ぐれぇすぐに獲れる」
「俺は今じゃ永松の銃だけが頼りさ。それで猿が獲れるから、
つまり俺たちは生きてゐられるわけさ」

「そんなに猿がゐるのかねえ、俺はまだ一匹も見たことないが」
その時遠くバーンと音がした。
一箇の人影が駆けていた。
髪を乱した、裸足の人間であった。
緑色の軍服を着た日本兵であった。
これが「猿」であった。
私はそれを予期してゐた。

 

・・・・

 

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奥村五百子

2023年06月19日 | 銅像の人

場所・佐賀県唐津市東城内

・・・

「近代日本の出発」 板野潤治 新人物文庫 2010年発行

与謝野晶子が厭戦派婦人の代表であったとすれば、
主戦論派の婦人代表は愛国婦人会の奥村五百子(おくむらいおこ)であった。
東本願寺派の僧侶の娘であった奥村は、
義和団事件にさいして東本願寺の出兵慰問使として清国におもむき、
帰国後の明治34年3月、
軍人遺族や傷病兵の救援を目的とする愛国婦人会を組織した。
皇族や華族を役員としたこの会は、日露戦争中には20万人近い会員を擁する一大婦人組織となっていた。

与謝野晶子はこの愛国婦人会の活動に批判的で、
「御者」や「馬丁」を引きつれて下手な包帯巻きをする
「立派な令夫人」たちの行動を
「あなかしこ、私などの知らぬこと、願わぬこと」
と記している。

・・・


奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を演じた映画になるほどの人だった。
創立した「愛国婦人会」は、背景に軍人や軍国主義があるため、奥村の再評価は難しいように思える。






奥村 五百子(おくむら いおこ)
(Wikipedia)

弘化2年5月3日(1845年6月7日)-明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。

経歴
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。
同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。
北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。






愛国婦人会(あいこくふじんかい)
戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。

1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月24日に創立した。

初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。

1920年、会長に下田歌子が就任。1927年、会長に本野久子が就任。1937年時点で、会員数311万人余に達し、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていた。

1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。
翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。


活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。
関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。
また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。

初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長した。
各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。





撮影日・2014年1月11日


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感動と興奮の、映画史上最大のヒット作品「明治天皇と日露大戦争」

2023年06月19日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

 

娯楽=映画、という時代があった。
町に住む人も、田舎に住む人も、映画が最大の娯楽だった。
その映画の全盛期に、空前絶後の大ヒット映画が生まれた。
それが「明治天皇と日露大戦争」。

その頃は茂平の人が町へ遊びに行く=映画を見に行く、ことだった。
だが、町(茂平の場合、町とは福山または笠岡を意味する)に行くことは滅多にない。
そこで金浦座が月に2度ほど、茂平の集会場に出張して映画を上映していた。
「明治天皇と日露大戦争」は東京や大阪で上映されてから2年ほど経って、茂平に来た。

茂平の会場は超満員だった。
父は、
「やっぱし勝つ映画はええのう」
というような事を言っていた。
当時の日本は、戦争=敗戦の意識が強かった。

公開後2年も経った映画でも、観客ほぼ全員が面白さで興奮したような記憶がある。
上映中、フィルムが切れて中断が20回ぐらいあったのがご愛嬌だった。


・・・

文藝春秋社の池島信平氏は、
都会人として映画の論評を遺している。

・・・

「歴史好き」  池島信平 中公文庫  昭和58年発行

「国民皆泣き」

「明治天皇と日露大戦争」という映画を見た。
見ているうちに、涙が出て困った。
ハンケチが間に合わない。
まわりの人も、注意して見ていると、みんな泣いている。
「国民皆泣き」の映画である。
いい年をして、なんでこんなに涙が出て・・・と恥ずかしくなった。
涙腺がひろがりっぱなしである。
このへんで、
ひとつ泣かせてやろう、
という製作者の計略が、手にとるように分かるものであるが、
だらしなく涙が出てくるのである。
三笠艦上の東郷大将、
水師営の乃木大将、
そして、日本の奉天入城
----みんな子供の時に絵や写真で見た通りが、
天然色で出てくるので、見ていて、何か心が安心なのである。
その間に、御製の朗読や詩吟や、小学唱歌が出てくるのだから、
タマラない。

見終わって、すっかりくたびれてしまった。
しかし、いい気持であった。
そして、次に何かバカバカしい気持ちと、
一杯やられたような、ふしぎな気持ちがしてきた。
頭がよくて、商売のうまい人が、映画会にはいるものである!!
しかし、
こんなことは、一回でいい。
二度はご勘弁ねがいたい。
--そのことを強く申し上げておく。

・・・

 

新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」

明治天皇

 

出兵

 

 

「すぎの~ぉ! 杉野は何処!!」

 

 

激戦「203高地」

 

 

皇国の興廃この一戦にあり「日本海海戦」

 

♪庭に一本(ひともと) 棗の木 ・・「水師営の会見」

 


・・・

池島先生の「ご勘弁」は無視され、
新東宝は二匹目、三匹目のどじょうを狙った。
二作目は多少注目されたが、さすがに三作目はまったく無視され
まもなく新東宝映画は倒産していった。

 

・・・

 

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味噌

2023年06月19日 | 食べもの

味噌は、母が作る味噌しか知らなかった。

味噌汁はおかずも兼ねていた。

修学旅行に行って初めて、味噌や味噌汁が家のものとは違うのを知った。

 

・・・

「成羽町史民俗編」  成羽町 平成3年発行


調味料
味噌
味噌は自家製で、昔はなめ味噌であった。
味噌は、他人にやらぬものといわれ、それぞれの家庭でその家の特技により作られていた。
大豆、麦で作り「三年味噌」が一番良いとされ、樽に封じて三年経って食べていたが、
今では特別の家庭以外は一年位で食べるようになった。
赤味噌・白味噌の二通りで麦麹・米麹によって異なる。

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

味噌

米味噌と麦味噌があったが、戦後は米味噌中心になった。
味噌作りは冬の仕事であった。
庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には小米を使うことが多かった。
まず米を蒸し、
麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
炬燵にいれたり、風呂の蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。
また刈りとった青草の上に筵を敷き、蒸した米をひろげて上に筵をかけて家の中の風が当たらないところに置き、青草の発酵熱を利用して麹を作ったこともあるという。

次に大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
三年味噌と言って三年経ったものから食べていったが、
三ヶ月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。
高度経済成長以後、各家での味噌作りはだんだんと廃れていった。

 

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

日常のおかず
調味料

味噌
かつては味噌で味付けをすることが多く、
また、おかずでもあった。
重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。
台のうえに筵を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。
タネといって麹菌を加え混ぜる。
上へ筵をかけてねかせる。
大豆を釜で煮て、からうすでついてつぶす。
これに裸麦の麹をまぜる。
両手でもみほぐしながらまぜ、味噌樽に仕込む。
一年に一回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。

・・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。

・・・

 

味噌

原料は大豆、米の麹、塩である。

味噌をつく時期は節季で、麹はこたつでねかせたという。
割合は大豆一斗、米の麹五升が四斗樽一本ぶんで、毎年一本づつつく。
三樽ほど所有していて、三年味噌といって、三年経った味噌が味が良い。

 

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

・・・

 

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旧五月五日 西浜(ようすな)オシグランゴ

2023年06月18日 | 令和元年~

場所・岡山県笠岡市金浦
開催日・旧暦5月5日(再開後は近い日曜日)

 

「おしぐらんご」は、
廃止前に一度見に行ったことがある。

再開後の「おしぐらんごは」、
10回くらいあるかな。

その差(廃止前と再開)は、とても比較にならない。

廃止前のおしぐらんごは、
本気で櫓こぎ合戦をしていた。
たとえ汚い手をつかおうと、何をしようと、
とにかく”勝つ”、
”負けられん”
それが「おしぐらんご」だった。

そういう元気や迫力は、漁師町ようすなの猟師や町民だけでなく、
見物に訪れる人にも伝わり、
競漕とお祭りが一体となった初夏の、一大イベントだった。

 

 


漁師町西浜(ようすな)は、おしぐらんご廃止後は
ころがるように町も人も、元気と活気を失っていった。

高度経済成長期、
密集した市街地を形成していた金浦は時代に取り残された。
漁師町・金浦であったが、
漁業は消滅し、漁師はいなくなった。

今は「保存会」の皆さんたちの努力で再開し、
伝統文化財として毎年開催されている。
何事もつづけることに意義がある。
がんばれ、”ようすな”のオシグランゴ。

 

・・・

「岡山県史・民俗編Ⅱ」 岡山県  昭和58年発行

旧五月五日 西浜(ようすな)オシグランゴ

旧五月五日に笠岡市金浦の西浜(ようすな)では
オシグランゴという漁船の競漕が行われていた。
その年に新造された四丁櫓の船を紅白の二つに分け、一艘に
漕ぎて四人、
舵取り一人、
旗振り一人、
の六人が乗り込み、
金崎の沖から港までの約一キロメートルを、
大勢の見物人の見守る中で競争するという威勢のよいものであった。
オシグランゴと同様な競漕は倉敷市児島田ノ浦や牛窓町でも行われ、
その他の漁村でも行われていたらしいが、
いずれも今はなくなっている。

 

 

・・・

「写真集・笠岡」 田中舜治 国書刊行会 昭和56年発行

ひったかとおしぐらんご

ひったかとは火を高くかかげることを意味し、
おしぐらんごとは、
櫓漕競争のことである。
いずれも毎年旧歴の五月五日に行われる。
おしぐらんごは昭和36年を最後に廃止され、
ひったかのみ今も残り、
毎年笠岡市金浦の夜空をいろどっている。
昭和54年文化庁から保存すべき民俗行事として調書が作られている。

 

・・・

 

撮影日・2023.6.18

 

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ダイコン(大根)

2023年06月18日 | 食べもの

中学校か高校の修学旅行の宿の朝食時、
宿の人が「たくあんは、・・・、おみおつけは、・・・」と食事の説明をしたが、
自分の膳に、たくあんも、おみおつけもなかった。
話の内容で、どうも、
「たくあん」とは「コーコ」のことで、「おみおつけ」とは「味噌汁」のことを意味しているようだった。
家では汁かけが主流だったが、そういう食べ方はしてはいけないことも感じた(知った)。

 

・・・

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
ダイコン(大根)

日本の冬野菜の代表各。
「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。
ダイコンの葉には栄養が豊富です。
もっとも多いのが「青首ダイコン」で、
生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。
全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

たくあんを作る
 
①ダイコンは洗い、そのまま並べて乾かす。
②③④葉がついたまま2本つづ束ね、風通しがよく、雨がかからない場所に干す。
10日~2週間が目安。
⑤手で曲げて「く」「つ」の字くらいがよい。
⑥柿、ミカン、リンゴの皮をよく乾燥させておく。
⑦ダイコンの葉を切り落とす。
⑧ダイコンを俎板の上でころがし、芯をやわらかくする。
⑨炒りぬか、塩、果実の皮、昆布、トウガラシを器に入れ合わせておく。
⑩容器に⑨を振り、ダイコンを入れる。
隙間なく詰め、中央にはダイコンの葉を入れる。
⑪繰り返す。
最後は残ったダイコンの葉をのせ、中ブタを入れて重石をして冷暗所へ。
重石はダイコンの2倍が目安。
⑫約1ヶ月で漬け上がる。

 

・・

・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

大根
秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。

 

・・・

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。

大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。

提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。


カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。

沢庵漬
笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。

四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。

漬菜
白菜が多くなっているが、白菜が日本に入ってきたのは新しい。
栽培が普及したのは大正初めである。
笠岡市吉田では一斗樽程度のものに漬け、なくなればまた漬けるというふうに追加していく。

・・・

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

漬物

沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。

 

・・・

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

大阪のゴーストップ事件の2ヶ月前のこと。
福山で暴行事件があり、男を拘留した。
ところが、その男は福山聯隊の陸軍将校だった。
結局、警察が軍に謝罪し、事件は終わった。

 

・・・

「福山市史・下」  福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

異境で苦労しているであろう兵士への感謝の念と、
「暴支膺懲」の宣伝とが市民内部で相乗的に増幅して、
戦争支持が世論となり、批判の材料が与えられないまま無謀な戦争に引き込まれていったのである。
このようななかで、
昭和8年(1933)4月14日、
軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。
市内のカフェーで福山聯隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、これを取り押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は、
「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」
と逆ねじをくわせ、
第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」
と迫った。

結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。
非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、
結局聯隊側の言い分に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件であるといえる。
聯隊長は地方都市では「小大名的存在」であっただけに、
時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

(福山歩兵41聯隊跡)

 

撮影日・2023.3.28

 

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。
それが道路横断の信号機を見た初めてだった。
前を見ると赤、横を見ると青。
道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、
何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。
結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。

知られているように、
「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、
戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、
人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。

警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、
戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。

警官が戦前偉ぶっていた時代、
商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、
道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。
ところが、捕まえた男は兵隊だった。

 

・・・

陸軍は”皇軍の威信”にかかわると逆上。ついには天皇の耳にまで届いた。

・・・・

実録・天六交差点の対決(昭和8年)

「NHK歴史への招待23」 鈴木健二  NHK出版 昭和57年発行

 

(中村一等兵)

 

昭和8年6月17日、北大阪の通称天六交差点で小さな事件がおこった。
信号を無視しして渡ろうとした男に、巡査が注意した。
男は「憲兵以外の言うことはきかぬ」とけんかとなった。

男は陸軍第八聯隊の一等兵だった。
軍は、
「皇軍の威信に関する重大問題である」と警察に陳謝を求めた。

警察は、予期せぬ軍の強硬姿勢にがぜん緊張し、軍の発表から二時間半後に
「兵隊が私人で通行している時は、一市民として従ってもらいたい」と発表した。

こうして軍と警察は真っ向から対立することになった。
事件から9日後、
大阪府知事と第四師団参謀長が会談、一度、二度・・・決別。
一兵士と一警察官の争いは、第四師団と大阪府の対立に発展し、
「ゴーストップ事件」と呼ばれた。

 

(戸田巡査)

 

・・・・


当時国際連盟脱退などを通じて軍は、勢力を急速に台頭させ、
横暴ぶりを露骨に現わし始めていた。

一方、警察は特高を中心として、戦争に反対の共産党員を検挙するという実績をあげ、その力を国民に示していた。


・・・・


泥試合になっていった。

大阪憲兵は、巡査の尾行をつけ、身辺調査を始めた。
戸籍と名が違う、「府は無責任だ」。

警察は一等兵の過去を徹底調査、
「計7回の交通違反をしている」、
しかし馬糞の処理を怠ったとかいうささいなものばかり。

・・・

 

事件から一ヶ月後、ついに訴訟となった。
師団は憲兵隊へ告訴。瀆職(とくしょく)、傷害、名誉棄損などの罪。
市民の関心の高まりは、時代を反映してか、軍を応援するものが圧倒的に多く、
警察側には批判的な声が相次いだ。

・・・


事件から三ヶ月後、
大阪地方裁判所から第四師団および大阪府警に意見書が出された。
互いに刑事責任があり、喧嘩両成敗の判断を示した。
しかし、軍は激しく反発。謝罪の要求を崩さなかった。
暗礁に乗り上げた。

 

・・

10月半ばすぎ、
陸軍特別大演習が福井県で始まった。
天皇は荒木陸相に、
「大阪にゴーストップ事件なるものがあるそうだが、
あれはどうなったか?」
と下問があった。
陸相はただちに動き、急転直下、円満解決を見るに至ったのである。
第四師団参謀長と、
大阪府警察部長が、
互いに挨拶を交し合ってすべて水に流そうというものである。
そして、お互いに抱き合って終わった。

 

(和解する県警部長と師団参謀長)

 

(何も知らされず握手する、戸田巡査と中村一等兵)

・・・


それ以来、
警察の軍人に対する態度は消極的となった。
軍人や軍隊に手をつけることは我が身が危ないと身をもって知ったのである。

 

・・・


陸軍大演習がらみで解決(?)は、煙突男も知られている。

煙突男

川崎市の紡績工場の煙突に男が登った。
煙突の上で5日間過ごし、群集・見物の1万人が見上げ騒いでいた。
その時期に、
昭和5年陸軍特別大演習(福山市、浅口市ほか)があり、岡山に向かう天皇に汽車の窓から騒ぎを見られたくない関係者は、
男の要求をのんで、天皇が通る前に煙突からおろした。
男は2年後、山下公園で遺体で発見された。警察は「事故死」、世間では「拷問による虐殺」と伝えられる。

・・・

 

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2023年06月17日 | 食べもの

小学校六年生になると、
♪菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し ・・の、
「朧月夜」を習っていた。
自分も早く六年生になって「朧月夜」を歌いたい、と思っていた。

先生の説明では、菜の花は「菜種油」にするという話だった。
茂平では一部の田んぼに菜の花を植えていた。
田んぼの裏作で麦はなく、半年寝かす田が多かった。
菜の花とレンゲが咲く田んぼは、子ども心にも田舎の田園風景を彩っていた。
今思うと、菜の花はレンゲと同じように肥料にしていたのだろう。

家の料理に油を使ったものは珍しくはなかったが、
それはキンピラゴボウのように、油を使うというよりも垂らす、
程度の使用量だった。
田舎の農家では、自給自作が基本なので、
お金を出して買う物は、少しずつ、もったいなく、使っていたのだろう。

 

・・・

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


普段はめったに使うことはなかった。
祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入していた。

 

・・・

「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

食用油

菜種は自給用に栽培し、油屋で絞ってもらった。
ゴマ油は購入したり、ゴマと交換した。

・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。

・・

 「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

菜種
明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し昭和50年ごろ消滅した。
笠岡市尾坂道万の水車集落は、備中ソウメンの一産地であるが、水車を利用して菜種の搾油をしているものもあった。
菜種油をとった糟(かす)は肥料にしたり飼料にもなった。

 

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