しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年【国民精神総動員運動】が始まる

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和6年(1931)の満州事変で、戦時心理が国民に植え付けられ、
昭和12年(1937)の盧溝橋事件で、”国民精神総動員”となり、以後昭和20年まで
戦時体制がつづいていった。

 

・・・


「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 


国民精神総動員運動 

日中戦争開始後、近衛内閣が起こした戦争協力の教化運動として有名な国民精神総動員運動は、
県下では昭和12年(1937)10月13日からの第一回国民精神総動員運動週間でスタートを切った。
そして、その後さままざな強調週間が設定され、「一億の心に染めよ日章旗」などという標語を選定するなど、
多彩な行事が繰りひろげられた。
この運動は、「学校生徒児童勿論、男女青年団員、婦人会員、其他一般民衆」を対象とし、
市町村長・学校長・青年団長・婦人会長を推進者として、思想面だけでなく、
衣食住に至るまでさまざまな面から市民生活に統制を加えた。

この地方では、昭和12年10月18日に福山市で国民精神総動員県民大会が開かれ、 
翌年2月15日には沼隈郡青年団総動員大会が、2.000人を集めて松永小学校で行なわれた。
運動は人心収攬のために大きな役割を果たしたが、精神運動であっただけに、スローガン倒れに終わったり、
押し付けがましさによる反発も少なくなかった。


・・・


「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行


国民精神総動員運動

昭和12(1937)年7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。
これにともない、 岡山県(伊藤武彦知事)は、7月20日県知事諭告(第三号)を発し
「国民心を一つにし、愈忠君愛国精神を発揚し、銃後の支援を完うする」よう県民の奮起を促した。 
そうして、同年7月30日、岡山県国民精神総動員実行委員会規程を設けこれを実施することとした。
実行委員には、
官公庁職員、
市町村長、
各種団体代表、
通信報道機関代表、
教育家、
宗教家、
社会事業家、 
実業家その他民間有力者が選出されたが、
その運動実施要項の市町村に関する事項には、
実施計画の樹立実行、各種団体の動員、講演会・協議会・映画会等の開催、軍事扶助団体、勤労奉 仕団体等の活動促進が含まれていた。
これと前後して、金光町では、同年7月28日、平田良平町長のもとで緊急町会を町役場で開催、
「充員応召者ならびに鮮満部隊慰問に関する件」を可決した。

時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

昭和14年11月、岡山県は国民精神総動員運動をさらに拡大強化するため、
市町村・町内各地区・職場などを単位とする実践網組織として、
それぞれ常会を開いて各種協議を行うよう指示し、県下各地で指導者講習会を開催し、趣旨の徹底を図った。
県の指導した常会の組織要項には、
常会月例会の開催、
また常会の組織としては、市町村常会、部落(区) 常会、町内常会などがあった。
町常会は、町長の下で月一回開催、各種委員会関係者、各種団体代表、部落代表者その他指導的人物に集合が掛けられた。

当時の常会では、
特に精神作興(神社参拝、宮城遙拝ほか)、
簡素生活実践(生活の切下、各種儀式の簡素 化、節酒ほか)、
消費節約(節米、燃料節約ほか)、
物資愛護(廃品回収ほか)、その他生産力拡充、勤労増進、 体位向上、戦時貯蓄、銃後後援の徹底などが協議されたことが報告されている。
この時期の常会の慣行は、外形的には戦後の今日まで各区で続けられている。


・・・


「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行


 昭和12年「国民精神総動員運動」の展開

県実行委員会の発足
1937年(昭和12)9月24日、岡山県国民総動員実行委員会が結成され、翌日、委員70人の委嘱が県知事より行われた。
国民精神総動員運動は、日中戦争の全面化にふみきった第一次近衛内閣が国民の思想的統合と団結をはかり、
国民を自発的に戦争体制に動員しようとした思想運動であった。
すでに中央では、9月11日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、
またその後、10月12日に至って国民精神総動員中央連盟が結成されて全国的に推進されることとなった。 
県民130万人を結集し、一大精神運動をはかろうとする同会には、内務省から4574円、文部省から5127円、計9746円が支給され、
委員には
重要官公庁職員17人、
市町村長6人、
貴衆両院議員4人、
県会議員2人、
各団体代表者16人、
通信報道機関代表者5人、
教育家9人、
宗教家4人、
社会事業家4人、
実業家3人、
以上70人であって、表面的には民間人中心の運動という体裁をとっていた。


国民精神総動員週間

1937年10月13日から19日までの一週間、全国的に国民精神総動員週間が設定されて、日本精神の高揚がはかられた。
13日夜には、
岡山市公会堂で講演と映画の会が開かれ、
知事の「国民精神総動員について」 
小谷代議士の「北支軍閥の消長を語る」、
呉鎮守府海軍大佐の「今次事変と国民の覚悟」の講演
とニュース映画があり、精神総動員の趣旨が県民に対して強調された。

この強調週間には、県下各地でいろいろな団体による取り組みがなされた。 
岡山市連合青年団では、青年団・女子青年団・婦人会が中心となって2.000人の団員を総動員することに決定し、
次の事業を計画・実行した。
すなわち、
13日を「時局生活の日」として時局講演会へ参加する、
14日を「出征将兵へ感謝の日」として正午サイレンを合図に一分間黙禱する、
15日を「非常時経済の日」として金品節約による金を献金する、
16日を「銃後の守りの日」として町内・学区内の遺家族を訪問して家業を補助する、
17日を「報国勇士を讃へるの日」として奥市招魂社に参拝する、
18日を「報国の日」として町内学区内の神社・ 仏閣・街路などの美化作業をする、
19日を「非常時心身鍛錬の日」として学区別に小学校でラジオ体操をする、などの諸事業を行った。

岡山県庁では強調週間に協力するため、知事以下800人の職員が、
毎月一日神社参拝をして皇軍の武運長久を祈る、
毎月一日と十五日を「出征軍人の労苦をしのぶ日」として「日の丸弁当」を用意して生活を簡素にする、
愛国貯金を励行する、など申し合わせて実行することを誓った。


女子義勇隊

1937年11月になると、銃後の守りを強固にする新しい団体として、
女子青年団・婦女子義勇隊の編制と新しい対応人会を統制して市町村単位に女子義勇隊を編制することが行われた。 
地域によっては数斑に分け、防空・防火訓練を柱に、平時・戦時両時の構えで公共奉仕の精神と技能を体得することが行われた。
 
愛国婦人会や国防婦人会も国民精神総動員への対応をはかっていった。
愛国婦人会岡山市分会は11月7日岡山市公会堂で総会を開催し、
日本精神の高揚、非常時における国策遂行の貫徹、銃後における国力の根幹の培養に励むことを宣言し、
夜は出征軍人の慰安会を挙行した。
「非常時突破は銃後から、銃後は婦人の力から」をスローガンに結成された国防婦人会も、
1937年11月には県下に407分会・会員数18万に達し、県下3市・380余町村中で未設置町村は15町村に過ぎなくなっていた。
この間、県内の国婦活動は、
1銃後の守りを堅固にするための婦人国防、
2軍人遺家族の救護、
3傷病兵の慰問、
4出征凱旋勇士の歓送迎などの任務に励んできた。

 

・・・

 

 

 

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兵の見送りと帰還

2024年07月18日 | 昭和11年~15年

岡山県小田郡城見村の場合は、
城見小学校で村民あげて”ばんざーい”。
小学校から村境(岡山県城見村・広島県大津野村)まで祝出征の行列。
濃い親族のみ、そのまま大門駅まで送っていく。

帰還兵の時は、
出迎えもなく、儀式もなく、静かに自宅へ帰っていた。

 

・・・・


「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

日中戦争における出征歓送には専門集団が出現した
国防婦人会である。
その組織は、いわゆる“非常時の時代に軍隊支援ボランティアとしてつくられた。
日中戦争を意識したほどではないが、出征、帰還等軍隊移動の歓送迎、奉仕のために駅と港に出動することが多かった。
それは、ことさら意味が深く考えられるわけでもなく、 歓送される軍側からは、その世話を兵士が喜ぶという意味で歓迎された。
逆に主体となった主婦層からは、社会奉仕のために家から出る機会としてスムーズに受け入れられた。
やがて、日中戦争が予期される時期になると、在郷軍人会を通じて精力的に各町村に国防婦人会の結成が促された。

国防婦人会が見せた見送りパフォーマンスの威力は、この時、日本全国をゆるがせたのであった。 
こうして出征における見送りの構造が、別れの悲しさと戦争に対する国民の支持を内包しながら定着していく。 
出征見送りには戦争に出て行く者と送る者を分けた構造ができあがる。
在郷軍人は出て行く者に区分けされることになった。
たとえある日は送る側にいたとしても、いつかは出て行く戦士の本当の予備兵になったのである。
これが日中戦争における見送りの構図であった。
したがって、在郷軍人の役割も平時とはちがったものになった。
在郷軍人はもはや銃後の構成員とはいえな くなった。
逆に、国防婦人会はここで代表的な銃後構成員になった。


・・・・


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

招集令状

動員という用語がある。
軍隊の編成や機能を平時態勢から戦時態勢に移すことである。
戦事又は事変に際し、軍要員を充足するために、在郷軍人(補充兵役者を含む)を起用するために用いたのが召集令状である。
我が国の兵役制は、必任義務制度であり、国民皆兵が義務づけられていたので、昭和初期以来の各種事変においてはもちろん、
大東亜戦争における、いわゆる「根こそぎ」動員も円滑整然と実施することができた。
したがって、召集事務に携わる者は、中央部の関係者から、連隊区司令部及び市町村の兵事係に至るまで、
事務処理の完全を期するよう全精魂を傾注したのである。
最後の段階まで召集事務が一糸乱れず厳正かつ整然と、実施できたこことは天晴というほかはない。


陸軍召集規則に定める召集の種類は次のとおりであった。
充員召集とは、動員に当たり、諸部団隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
臨時召集とは、定期的な年度の動員によることなく、臨時に編成する諸部隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
補充召集とは、充員召集実施後欠員を補充するため、在郷軍人を召集す
国民兵召集とは、国民軍を動員するため、国民兵を召集すること。
演習召集とは、演習のため在郷軍人を召集すること。
補欠召集とは、平時において臨時に兵員の補欠を要するとき、帰休兵を召集すること。
点呼とは、予備後、後備役下士官兵、帰休兵及び第一補充兵を集めて点検査閲すること。

明治23年(1890)10月30日、教育勅語が発布され、日本臣民の道徳観の基礎が確立されてから、
大東亜戦争終結まで、国民はこれを公私にわたる修養研さんの努力目標として、常住座臥忘れることはなかった。
特に「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ・・・」と明確に諭されていたことは、国民ひとしく身にしみて体得し、
兵役に服することは個人の名誉、家の誇りとして祝福し、
応召者に対しては、近隣郷党をあげて、その武運長久を氏神様に祈願し、
「祝○○君出征」の幟を先頭に村境まで見送り、万才をもって壮途を祝福した。

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(父の出征記念写真・昭和12年)
(4人兄弟のうち2名健在・令和6年)

 

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「広瀬村誌」(福山市加茂町)  広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行

昭和12年(1937) 7月盧溝橋事件に端を発した事で、 
広瀬村にも49通の召集令状が同年7月27日にきた。 
翌28日に応召者の武運長久の祈願祭を龍田神社で挙行した。 
その後、戦局の拡大に従って、度々召集令状が送達され、多数の若人が出征し、多くの戦傷者が出ることとなった。

・・・・


「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

地域婦人会の国婦化

1937年(昭和12)7月19日より開始された合同新聞社の「北支皇軍慰問資金」は、
9月7日には4万5.000円の巨額に達した。
このころになると、国婦の出征見送り、愛婦・愛国子女団の千人針の活動に刺激されて、
地域の婦人会も市内に繰り出して、いわば国婦型の活発な活動を始めた。


・・・・


「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


盧溝橋事件
兵の見送り


召集令状すなわち赤紙が本人に届けられると、まずその本人と家族に衝動と緊張が生まれる。
また、本人の 近隣の家々にもすぐに伝えられた。 
出征の宴が近隣によって行なわれるからである。

以後はその応対や村や分会で準備される祈願行事などでスケジュールが一杯になるのが普通の習わしである。 
出征行事というのは実に忙しいのである。
ちょうど、結婚式や葬儀の行事に比肩されるが、時間的にはその慣習より忙しかったかもしれない。

市町村役場は召集業務が終わると
出征する在郷軍人を見送るイベント準備とその業務にとりかからなければならない。
そのためには在郷軍人分会への連絡から新設の国防婦人会にも連絡をとらねばならない。
あるいはこれと肩を並べる愛国婦人会、青年団などもある。
また、学校への連絡も必須事項である。 
これらの諸団体が、それぞれの市町村の立地条件に応じて、神社、学校を会場に設定して武運長久祈願祭と町村民集会を兼ねるイベントを開く。

終わると、駅などの見送り地点までの行進を計画する。
在郷軍人は少数でも出征兵と同僚格で、青年学校生徒、青年団がこれを補完する。 
小学校児童がつづき、国防婦人会などの婦人団体が彩りをそえるというのが村の基本形なのである。
こうした見送りの計画、実施にあたっては連隊区司令部の指示に従わなければならない。
なぜなら、見送りには軍事動員に関する二律背反的な二つの課題があったからである。
それは秘密動員でなければならないという防諜上の要請、
それに対してできるだけ盛大な国民の支援・熱誠を盛らなければならないという相反する要請である。

結局、1937 (昭和12)年夏の動員は後者の国民の熱誠、村人の盛大な励ましが優先された。
突如始まった全国津々浦々の赤紙の祭りは、出征軍人に捧げる祈りにもなり、
国威宣揚大会になり、軍隊支援になった。
つづいて国防献金も満洲事変にも増して始まった。
銃後後援がシステムとして動きだした。
こうした激動の受益者が軍隊であったことはもちろんである。
国防婦人会の露出度がふえると軍隊支援団体も強化されたかの印象を与えた。
軍隊支援はそのまま軍部のイニシアチブの強化につながった。


後述するように、1941 (昭和16)年には、この日中戦争開始時とほぼ同じ規模で大動員が行なわれた。 
この一つの経験は、動員史の中で忘れることのできない、最初で最大の秘密動員になり、
赤紙を受けた応召者はまわりのだれにも言えず、夜になって村を出て行くみじめな出征になった。
その暗い経験はいまもなお涙ながらに語られているのである。

 

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 
帰還兵のわびしさ・帰還兵の待遇

 

祭りのように騒いで送り出した召集兵の帰還に際してやはり祭りを催して歓迎したであろうか。
日露戦争の凱旋は各市町村が飾りで凱旋門や塔を建てて迎えたのであった。

しかし、日中戦争途中の帰還兵を待っていたのはきわめて冷たい出迎えだった。
思い出してみれば、シベリア出兵の時の帰還兵の扱いも同じだった。
軍部と為政者は、戦地で社会主義の影響を受けなかったかに神経をとがらせていた。
ちょうど日本でも労働運動や小作争議が激しくなっていた時と重なっていた。
帰還兵たちには嬉しい帰国のはずが、当局から思想調査をされ、熱狂的な歓迎を受けることはなかった。

日中戦争の帰還兵にも同じような待遇が待っていようとはつゆ思わなかったにちがいない。
彼らも帰国とともに言動調査を受けている。
今回は社会主義ではなく、軍紀を基準にした言動調査で、
盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水を差すような実戦談をされては困るからである。

大本営が出動部隊の一部交替整理を発表したのが1938 (昭和13)年2月18日。
前線では兵たちがこれで帰還できるやもしれぬと希望をもったという。
だが、まだ新たな出征のつづくさなか、多くの兵たちには夢物語でもあった。
思わぬ反応に、陸軍省兵務局長は内務省警保局長にあてて「帰還兵ノ輸送間ニ於ケル歓送迎ニ関スル件」を通知し、
歓送迎は精神面だけに止め、
「形式的事項ハツトメテ之ヲ抑制」と要望した。
連隊区司令官もまた県市町村に派手な出迎えがないように指示し、
市町村では結局、
出迎えは団体代表者一名のみ、
歓迎会は廃止、
楽隊は絶対禁止
という体制に落ち着いた。
わびしい帰還になったのだ。

ある連隊では、帰還後一般国民との会話問答集を印刷して配布している。
たとえば、「支那軍のデマ宣伝」の質問があれば、
「確乎たる国策を知つている日本軍には心を動かされる様な者は居ない。
・・・・・ いざとなれば吾を忘れて突進出来る大和魂がある」という模範回答。
それでも、微発に関しては「現地で牛や鳥を取って食ひ、野菜物なんかも探して食ひます」。
物資は豊富なのですか、の問いには「広いですからね」というような回答が用意され、
現在の歴史評価には耐え得ないような模範会話もある。


軍指導者がもっとも気にかけたのは、戦場における兵たちの軍紀の乱れであった。
帰還兵だけが知っていて、国民が知らないことである。
これについては、戦後初めて見ることのできた軍の機密文書で、戦地での軍紀違反が少なくなかったことが知られる。
これらの事態に対処するために1941 (昭和16)年初め、
陸軍大臣は「戦陣訓」を布告した。 
その真の狙いは、戦陣にあってしてはならないことを短く、箇条書きにして兵たちに配布することであったという。
ところが、その作成過程で、軍人勅諭に代わるような箇条が加わってしまったらしい。
有名な「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の文言も入れられた。
当初の目的からそれて、格調の高い文章に変身した。
この戦陣訓が戦争末期の玉砕をもたらし、あまりにも多くの兵たちを報われない死に追いやったのだった。

 

 

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徐州戦争「麦と兵隊」

2024年07月15日 | 旅と文学

徐州戦争には日本軍約200.000、中国軍400.000~500.000が参加したと言われる。
従軍した日本兵は
〽行けど進めど 麦また麦の・・・の大平原を幾日も歩きつづけた。

「麦畑は何処まで行っても尽きない。
岩と岩の間をも限なく開墾して麦畑を作り。 間に高粱や芋や葫などを植えている。
山の絶頂にこちらを見ている人影がある。
望遠鏡で見ると土民である。」


作者・火野葦平は徐州戦争従軍中に、
現地で小林秀雄さんから”芥川賞”を渡されている。
その芥川賞作家でさえ、「麦と兵隊」で中国人を土民と表現している。
後世の民としてはすこしつらい。
(侵略戦争事態もそうだが)

当時少年たちに人気の「のらくろ」では、
兵隊になったのらくろが南洋に出兵し、現地人を「蛮公」「蛮人」と呼んでいる。
1930年代の日本人は、国民全体が普通に異常の様相だ。

 

・・・


五月二十日

岩山の間の麦畑を行く。 
我々の進軍は何処まで行っても麦畑から逃れることが出来ない。
丘陵もことごとく岩石で埋められている。周囲の山の肌にはっきりと地層が露出しているが、それは横にではなくて、縦にである。
斜にあるかと思うと、まっすぐにあり、恰度縞模様のようである。
北支に近づいたので、山が北らしくなってきた。
山西省の方に行くとこんな形の山が多いよ、と梅本君が云った。

土質も砂礫を交えた粘土質で、土の色も繪河を渡って徐州に近づくにつれて赤味を帯びて来たようだ。
河を渡る迄にあった部落の家はほとんど土の家ばかりであった。
しかし、繪河を渡ってから時々石を礎にだけ使った家を見かけるようになったが、此の辺では、丹念に 石を積み重ねた石ばかりの家が各所にある。
道路にも小石を敷きつめて石だたみをつくっている。
この附近の山の岩石を使うからに違いない。 
小さな部落も周囲は土壁ではなく石の城壁が囲らしてある。 

麦畑は何処まで行っても尽きない。
岩と岩の間をも限なく開墾して麦畑を作り。 間に高粱や芋や葫などを植えている。
山の絶頂にこちらを見ている人影がある。
望遠鏡で見ると土民である。
部隊が通り過ぎると、山の稜線の上ににょきにょきと幾つも黒い影が現われ、稜線を越えて土民がぞろぞろと降りて来始める。黒い山羊が麦畑の中に百匹程も団っているところがある。
クリークに青い羽の蜻蛉が飛んで居る。 
飛行機が何台もしきりに飛んで居る。

左手の山の遥か向うに繭のような気球の上って居るのが見える。
徐州に入城した荻洲部隊が気球を持っていると聞いたことがあるので、その気球のあるところが徐州に違いない。 
前方の山の向うで続けさまにすさまじい爆撃の音がする。
退却している敵に爆弾を投下しているらしい。
六台飛行機が我々の頭上に来て、 爽快な爆音を立てながら低く旋回し始めた。
山の肌に黒く飛行機の影がる。
海のような麦畑の上をすうっと黒く影を落してすぎる。
すると一台の飛行機から、ぱっぱっと白い煙の玉を吐くように幾つも落下が飛び出した。 
他の飛行機も同じように落下傘を発射しだした。 
一台のごときは続けざまに十個の落下傘を出した。
真青の絨毯の上に落した貝殻のように白く浮び、次第に落ちて来る。
数十の落下傘には黒い箱がぶち下っている。
弾を投下したのだ。
麦畑に落ちるとトラックがすぐに取りに行った。

・・・

旅の場所・(なし)
旅の日・(なし)  
書名・「麦と兵隊」 
著者・火野葦平 
発行・「現代日本文学全集48」筑摩書房 1955年発行 (初本・昭和13年雑誌「改造)

・・・

 

(父・昭和14年北支時代)

 

 

 

「岡山県郷土部隊史」

(昭和13年)
5月18日第11中隊菊池中隊は赤柴部隊と共に微山湖を渡り、微山湖西方を南下し、
5月19日岡部隊主力は運河を渡って進撃すると、敵は退却していたが陣地は堅固に構築されており、小銃弾ではどうにもならず、後方陣地との交通壕も数条つくられていた。
柳泉駅はわが荒鷲のため爆砕されていたが、工兵隊は線路を修理し、 
5月22日列車で徐州に着き、一週間滞在の上赤柴部隊に追及する。
韓荘守備期間のわが方の損害は戦死21、戦傷44。

 

微山湖を渡り施家楼に到着した我が赤柴部隊

 

5月24日徐州西方地区を南下して敗敵を追撃中の赤柴沼田の両部隊は蕭県を経て、永城南方で3千余の敵縦隊を敗走させ、
5月28日夜毫県前面の渡河を敢行して、谷口部隊は県に砲撃を加え、
歩兵は29日終日猛攻を繰り返して午後8時県域に突入。
5月30日払暁完全に占領する。 

 

 

父の徐州戦争従軍日誌(昭和13年・1938年)
 
赤柴部隊本体に到着  5月15日

遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。

しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。

戦車・装甲車の車輪の音。
自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。

本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。

自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。
各隊のものものしい警備。

顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。

 

無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。

ああ戦場の柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。

実に物騒なところだ。

流弾が地上をかすめる。
兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。

いよいよ、第一戦だなあ、でも


赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。 


言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

 

 

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南京占領

2024年07月14日 | 昭和11年~15年

昭和12年12月、上海から上陸した日本軍は首都・南京を占領した。
日本中は祝賀一色、全国各都市では旗行列・提灯行列が行われた。

この戦で、
中国江南地帯に発達しているクリークでの戦線に苦慮した日本兵は、
南京へ入城後、開放感から軍規が乱れ、多くの子女を殺害したとされる。
この情報は世界中へ流されたが、日本国民だけが知らなかった。
戦後になって知り、指揮官は東京裁判で死刑になった。

 

・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、
待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前や、大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。
しかし、南京ではその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒へとつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。


南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師たちによって世界中に伝えられていた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみにでるまでその事実を知らなかったのである。
 犠牲者の数は、いまだ明らかでないが東京裁判では
”南京占領後、二三日の間に、少なくとも1万2.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、
一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子2万が集団で殺され、さらに捕虜3万が降伏して72時間以内に殺され、避難民のうち57.000が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり殺されたりした”
とされる。
中国側では30万人とみているようである。
 馬上堂々南京入場式の栄光を背負った中支方面軍司令官松井岩根大将は、東京裁判で、また攻略戦に参加した第6師団長谷川寿夫中将も、南京法廷で、この事件の責任を問われ処刑された。

・・・

「南京城攻撃開始12月12日」(毎日新聞・一国人の昭和史)

 

・・・

 

「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

南京占領は、もうひとつ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。

 

報せをきいた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議し、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。 
また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、
「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、わるいことするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起ることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入させることにし、
軍規の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守られなかった。

松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下に在る朝香宮と柳川平助中将の二人の軍司令官、
さらに、その下の師団長たちに在る。
柳川は、もともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべて皆敵」と、はげしく戦意をかき立ててきた将軍であった。
また、師団長の中には、第十六師団長の中島今朝吾中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせていた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。

日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
と、軍規の自粛を申し入れた。
朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ十日と経たない中の出来事であった。
南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、
殺人・ 強姦・掠奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げおくれた約二十万の市民が外国人居住地区に避難。
ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。
残虐行為はこの地区の内外で起り、
これを日夜目撃した外人たちは、
その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、
各国に公表。
日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。

現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、
事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。
このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、
二月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮軍司令官はじめ80名の幕僚が召還され。


現地南京では、ようやく軍規の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。
さらに中国奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。
そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上る。
それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。


ただ、このころになって、参謀本部がにわかに和平交渉に執着を持ち出した。
もともと参謀本部内には、対ソ決戦に備えるため中国への深入りを避けようという一派があり、
この対ソ派の突き上げが 強まったためである。
陸軍は相変らず双頭の鷲であり、「二本軍」であった。
陸軍省と参謀本部の意見がちがい、
しかも参謀本部はつい最近まで条件の加重に賛成していながら、この段階になって修整をいい出す。
閑院宮参謀総長が参内し、あらためて対ソ防備の必要を言上されると、
かえって、天皇に、「そんなら初めから、中国と事を構えねばよかったのだ」と、たしなめられる始末であった。

こうして、16日には、「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」という政府声明が発表された。 
外務省においては、「否認」とか「国交断絶」とかのはっきりした形をとらず、当座は無視するという意味で
「相手にせず」という言葉を選んだのだが、
しかし、時の勢いの中で、近衛はこれを「否認よりも強い断手とした決意を示す」という説明をした。
和平交渉の望みは消えた。

陸軍は、「万歳」の声をあげながら、南は広東めざし、また奥地の漢口めがけて、進撃を続けて行く。
止めようもない大日本帝国の落日のはじまりである。

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


南京大虐殺事件


戦火は華北から上海に飛んだ。 
8月15日、海軍の渡洋爆撃隊は台湾の基地から長駆南京をおそい、
23日、松井石根大将指揮下の上海派遣軍の二個師団が上海に上陸した。
上海上陸戦は、はげしい抵抗とクリークにはばまれ、戦闘は9,10月の2ヶ月にわたった。
そして11月5日杭州湾に上陸させて上海の中国軍戦線の背後を突き、ついに11日上海全市を占領した。
それ以後、南京にむかって日本軍は一気に 進撃し、12月10日南京を占領した。
南京入城にあたって、日本軍は捕虜はもとより、一般市民数万人を虐殺し、略奪暴行の限りをつくした。
虐殺された中国兵・市民の数は5万に及んだ。 
その惨状は、アメリカの新聞記者 エドガー・スノーによって、次のようにしるされている。
「日本軍は12月12日、南京に入った。
その時なお中国軍や市民は唯一つ残された城門を抜けて揚子江の北岸に退こうとしていた。
極度の混乱の光景が続いた。
数百万人の人々が川を渡ろうとしている時、日本軍飛行機の機銃掃射を受けたり、溺死したりした。
また数百人の人々は下関の城門に通ずる陸路で捕えられ死屍累々として四呎も積み重ねられた。
・・・ ·南京虐殺の血なまぐさい物語は今や世界にあまねく知れ渡っている。
日本軍は南京だけで4万3千人以上の市民を殺した。
しかもその大部分は婦人子供であった。
上海、南京の進撃中に30万人の非戦闘員が日本軍に殺されたと見積られている。
それは中国軍隊が蒙った損害とほとんど同数のものであった。
 ・・・約5万のこの城内の軍隊は、近世にどこにも見られなかったほどの 強姦、虐殺、略奪、
その他あらゆる淫乱の1ヶ月余を過したのである。


1万2.000戸の商店と家屋は、あらゆる商品と家具類を略奪された後、放火された。
市民はすべて財産を奪われ、日本の兵士と将校は、それぞれ自動車や黄包車、その他の運搬用具を盗み、
これで彼らの略奪物を上海へ運んだ。
外国の外交官たちの家々も侵入され、使用人は殺害された。 
兵士たちは、彼らの欲するままに行動した。 
将校たちは、自分も参加するか、あるいはかかる部下の行動を、被征服民として中国人は”特別の考慮”を受ける権利はないとの弁明をもって許した」。

この事件は世界に大々的に報道された。 
しかし、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件はまったく知らされることはなかった。
南京陥落の日、東京はじめ各都市ではバンザイ、バンザイの声が叫ばれ、
一晩じゅう提灯行列の火がえんえんとつづいていた。

 

・・・・

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生きている兵隊②  「生きている兵隊」事件  

2024年07月08日 | 旅と文学

昭和13年著作の、石川達三の「生きてゐる兵隊」は、
軍の検閲にかかるのは氏も確信していたことだろう。
それでも書いたのは、それは作家として氏の矜持であったように思える。

大きな権力の前に、自己の保身を微塵だに感じさせない作品。
”東洋平和のために戦う正義の皇軍”と、国内が統一世論の時代に発表された稀有な本。

・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

戦場の軍紀

戦場における徴発
その時食糧の補給が続かない時に日本軍はえてして末端の小部隊、時には分隊単位に食糧の調達をさせていたことが知られる。その時の調達は「微発」という用語で語られ、伝えられた。
そしてほとんどは強制を伴った行為であった。
この行為を軍紀違反にしたかどうかの確固とした事例が見出せない。
これは軍上層部でも十分に意識されていないようである。
ここで無名の兵の記録を示すことはやめよう。
たとえば、当時のベストセラーになった日中戦争のルポルタージュ、火野葦平の『麦と兵隊』(改造社、1938年)をみると、
兵たちが行軍中の小休止で、鶏や豚や羊をとったり、芋や野菜をとり、分隊で調理して昼食をとる場面がある。 
火野自身の述懐もあるが、原稿は軍の厳重なチェックを経ているのである。
しかし軍の検閲ではこうした一種の略奪行為はむしろほほえましいエピソードとして描かれる。
軍紀に厳密なはずの軍が、このようなケースは違反事項と考えていないことがわかる。
南京の事件をルポルタージュした石川達三の「生きてゐる兵隊」(『中央公論』1938年3月号)は検閲にひっかかっているのである。
軍の徴発行為は許していた、あるいは基準がきわめて甘いことがわかる。


・・・

 


「語りつぐ昭和史(4)」 朝日新聞社 昭和51年発行

「生きている兵隊」事件

青地晨(あおちしん)

 

「生きている兵隊」事件

私は十三年に中央公論社に入社。
当時の「中央公論」というのは、今の「中央公論」よりも権威があったと思います。
「改造」と 肩を並べて日本の代表的な二つの総合雑誌というふうに、一般にみなされていた。
今でも「中央公 論」は立派な雑誌ではありますが、当時は今よりもなお権威があったというふうに思います。

入社そうそういきなり「生きている兵隊」事件にぶつかった。
その当時、私は切り取られた「生きている兵隊」をそっと読ませてもらったんですが、軍の忌諱にふれた部分は、次のような一節だったというふうに聞いております。
日中戦争の初期のころ、上海で戦線が膠着した。 
その間に起こった悲惨な状況を石川さんが書いているわけです。
ちょうど両軍が対峙している戦線の真ん中に、砲弾か爆弾かでつくられた大きな穴があいている。 
そこに逃げ遅れた中国の若い嫁さんが、乳飲み子を連れて逃げ込んだ。
その若い奥さんは負傷しているが、むろん飲み水も食料もそこにはない。
しかも両軍対峙の真ん中だから、逃げ場はないわけです。
深夜になると砲声がいくらか静かになる。
すると乳飲み子の泣き声が聞こえてくる。
母親は食べる物も飲む物もないから、だんだん身体が弱りお乳も出なくなる。
腹をすかせて赤ん坊が火がついたように泣く。
その泣き声が日が経つにつれ、だんだん弱くなって命の灯が消えてゆくのが兵隊たちにもわかる。
赤ん坊の泣き声はなんとも物悲しく、陰惨に塹壕のなかの兵隊たちの耳に届く。 
そのころ上海戦線には、予備や後備の中年の兵隊が駆り出されていた。
この連中は、当然妻子を国に残している。
そういう老兵たちが赤ん坊の泣き声を聞くたびに、故郷を思い妻子を思い出してくる。
そういうような情景がありまして、私は非常に印象が深かった。
いかにも石川さんらしい人道主義といいますか、そういう場面があったわけです。


つまり石川さんは、戦う兵隊ではなく、ひとりの人間、生きている兵隊としての人間を書いている。
あのころ軍部は、兵隊というものは忠君愛国にこりかたまっているべきで、血も涙もある人間、つまり人間らしい人間であってはいけないという考え方なんです。
だから「生きている兵隊」は、軍の忌諱に触れたということだろうと思うんです。

そういうことで、中央公論社に入ってしょっぱなにそういう目に遭ったんです。
日中事変が昭和12年に起こってますから、ちょうど私が入社したころ、ずいぶん召集があって、駅々では「天にかわりて不義を撃つ」という軍歌を歌いながら出征兵士を見送る情景が、至るところで見られた時 代だったわけです。


内閣情報局と軍人情報官

昭和15年12月に、内閣情報局というものができました。
600人もの人々を集め、いわば日本の言論統制、弾圧の総本山という意味をもっていた。
そこに情報官という役人がいっぱいいたわけですが、その役人たちの重要ポストのほとんどは、陸海軍の現役将校によって占められていた。
情報官のなかで羽振りがいいのはみな軍人、ことに新聞、雑誌の直接の統制に当たる人たちは陸軍の少佐、中佐というクラスが大部分でした。
この人たちが内閣情報局を支配し、本当の力を持っていたといえると思います。


呼びつけられて、毎月、雑誌出版懇談会が開かれた。
大きなホールに雑誌、出版関係の編者が集まり、軍人情報官が壇上に上がり、大声を張りあげて今月号の雑誌についてこれから講評をおこう」というんです。
その上で「今月の『中央公論』は国策非協力である。
○○の論文はけしからん、××の小説は個人の恋愛とか情とかを書いていて国策にそわない」
というようなことを言うわけです。

「非国民だ」ということばは、もう耳にタコができるほど再三再四、「中央公論」や「改造」の連中は言われ続けてきた。
それだけならいいんですけれど、非常に不愉快だったのは、そこに列席している出版雑誌社の人たち、
講談社のMという人だったかが、「中央公論」は国策非協力だ、非国民だといわれてる最中、急に立ち上がってわれわれのほうを指さして「おい、お前たち非国民は出ていけ! 同席するのが恥ずかしい」とどなり、
それに乗っかって軍人が「腹を切れ」ということを言った。
そういうふうに、内部から足を引っ張る編集者がいたわけです。

 

軍人情報官の腐敗
同時に腐敗の面をいいますと、情報局のほかに大本営陸軍報道部、大本営海軍報道部というものがあって、
そこにも報道関係の将校がいる。
これらの将校は、情報官を兼務している者が多かった。 そういう軍人に、むやみやたらと原稿を頼む。
そして夜の接待をする。 原稿料は普通の二倍、三倍を支払う。
厳密にいえば用紙割り当てにからむ賄賂みたいなものだと思うんです。

 

・・・

 

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生きている兵隊   (中国・無錫市)

2024年07月08日 | 旅と文学

日中戦争に参加派遣された作家は多い。
応召兵として実戦参加の火野葦平。
中央公論の派遣記者、石川達三。
内閣の「ペン部隊」だった、菊池寛・吉川英治・尾崎士郎ほか20人。
なかでも林芙美子は、「漢口(武漢市)一番乗り」で有名。

火野葦平の「麦と兵隊」は、父の体験談とほぼ同じ。読みながら父を思う。
石川達三は、その時見たこと聞いたことを小説にしていて、現実のように思わす。
林芙美子さんはあおったり、美化した。戦後批判されたが、それは当然だろう。

 

 

・・・

旅の場所・ 中国・無錫  
旅の日・2016年3月11日  
書名・「生きている兵隊」 
著者・石川達三 
発行・日本現代文学全集35 講談社 昭和44年発行(初本は昭和13年)

・・・

 

 

・・


その夜のうちに友軍は、三方の城門を突破して城内になだれ込んだ。
城門の上に立てられた日章旗は雨にぬれてびたびたと鳴った。 
翌朝は未明から城内の掃蕩が開始され正午に至つてひとまづ占領は完成した。
兵は到るところで火を焚いて服を乾かし、火のまはりにごろごろ と横になって眠った。

蘇州、常熟を放棄した敵はすべて西に走って無錫の堅陣に據つた。
人口二十萬の城市、農産物と生繭との集散地、大運河と京滬鐵道とによる交通の要地、
そして南京攻略戦の重要な防禦地點でもある。
二十日、海軍の航空は友軍の頭上を通過して無錫の敵陣地に痛烈な爆撃を加へた。
地上部隊の攻撃は二十一日から開始された。
蘇州から追撃してきた友軍は望亭から長靡して京滬沿線を進み、常熟から進んだ西澤聯隊その他はクリーク地帯をわたつて東から迫った。

敵陣はコンクリートのトーチカと掩蔽壕とによつて堅固な守りをかためてゐた。 
古家中隊の戦闘は午後からはじめられて塹壕の第一線を奪った が、
小銃と機銃とを敵に向けたまで戰線は黄昏れてきた。
敵の守りは堅くなかなか突撃にうつるまでの態勢ができなかった。
そして暗くなりはじめるにつれて両方の銃火はまばらになり、戦局は一段落のかたちになって行った。

稲を刈ったあとの何も生えてない畠が平につづき、民家がその間に點々と低い屋根を置いてゐた。
家々の裏手には必らず掘割りがあつてクリークの水がそこまで流れこんでゐた。
遠くに無錫の低い城壁がまつくろく連なってその上の空が廣重の版畫のやうに靑かつた。
ふりかへつて見ると過ぎてきた職場では看護兵の姿が、横たはつてゐる戦死者を探してはその場に佇み手を合はせて冥福を祈ってゐる片山従軍僧のずんぐり肥った姿もそれと見分けられた。

 

 

 

・・・

倉田少尉と平尾、近藤一等兵と機銃分隊の笠原伍長とが鐵兜をならべて煙草を喫つてゐる壕のそばに一軒の平たい農家があった。 
屋根は砲弾に打ちぬかれ扉は土間に倒れ裏の菜園はふみ荒されて、この家の中から女の泣き聲がしてゐた。
銃聲の止んだあとになってその聲は急に兵士の耳につきはじめた。
「何だ、女が泣いとるぜえ」と女好きな笠原伍長が言った。 
「姑娘だぞ!」
「可哀相にな」
「母親がな、彈丸を喰ってまゐつてるんだよ。十七八のクーニだ」
「いい娘かい?」と一人の兵が言った。
「まだ泣いてやがる」 
平尾一等兵は小さなで呟いた。
「うるせえっ!」
「あいつ、殺すんだ!」
平尾一等兵はさう言ひすてて銃剣を抱いたま低くなって駆けだした。
「えい、えい、えいっ!」
まるで気が狂ったやうな甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもつて女の胸のあたりを三たび突き貫いた。
他の兵も各短剣をもつて頭といはず腹といはず突きまくった。
ほとんど十秒と女は生きては居なかった。

笠原伍長は壕の底の方に胡坐をかいて煙草を喫ひながら笑ひを含んだ聲で呟いた。
「勿体ねえことをしやがるなあ、ほんとに!」

・・

 

さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもつひに城門をぬくまでには至らなかった。 
西澤聯隊はこの日聯隊旗手を失った。
弾丸は彼の左胸部をつらぬき、擔架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
戦闘は夜を徹して行はれ、翌廿六日の朝になつてやうやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。 
永い戦ひに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。
友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向ひ、西澤聯隊は無錫にとどまつて三日間の休養をとつた。

生き残ってゐる兵が最も女を欲しがるのはかういふ場合であつた。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまはり、兎を追ふ犬のやうになって女をさがし廻った。 
この無軌道な行爲は北の戦線にあつては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼等の行動を束縛することは困難であつた。
彼等は一人一人が帝王のやうに暴君のやうに誇らかな我儘な氣持になつてゐた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。
そのあたりにはまだ敗残兵がかくれてたり土民が武器を持つてゐたりする危険は充分にあったが、
しかも兵たちは何の逡巡も躊躇も感じはしなかった。
自分よりも強いものは世界中に居ないやうな氣持であつた。 

 


聯隊の大行李はまだ上陸してゐない、漸く上海に近づいたくらゐの頃であった。
従って前線の部隊は後方の輸送をあてにすることはできず、
物資はすべて現地で微して間に合はせるより仕方がなかつた。
米や野菜には比較的こまらなかったが、一番ひどく缺乏したのは調味料であつた。
最も缺乏のはなはだしかったのが無錫滞在のあひだであった。

聯隊本部の炊事當番は茶碗に一杯ほどの白砂糖の使ひ残りを大事に持つてゐた。
武井は腰の短剣を引きぬくと一瞬の躊躇もなしに背から彼の胸板を突き貫いた。
青年は呻きながら池の中に倒れ、波紋は五間ばかり向の近藤が米をといでゐる岸にばさばさと波をうつた。
「何をやったですか」
「ふてえ野郎だ、聯隊長殿にな、やつととつてあった砂糖を盗んでなめやがったんだ」
「はあ」 
近藤は飯盒をぶら下げたま水に浮いてゐる背中を眺めてゐた。
上等兵は足どりも荒々しく帰って行った。
それにしても一塊の砂糖は一人の生命と引きかへられるのである、と。
またしても生命とは何ぞやであった。

 

 

 

無錫を出する朝、兵士たちは自分等が宿した民家に火をはなつた。 
といふよりも火を消さないであとから燃え上ることを期待して出したものが多かった。
それは二度とこの町へ来ないといふ覚悟を自分に示するでもあったし、 
敗残兵が再びこに入ることを防ぐ意味もなくはなかった。
更に、この市街を焼きはらふことによって占領が最も確実にされるやうな気もしたのである。

 

ふり向いて見ると無錫の空は黒煙が渦巻き立つていた。
燃えあがる炎は吹きすぎる風のやうな音をたてて遠くまで聞こえて来るのであった。
人口二十萬の都市無錫は、大部隊が出発して行つたあとには極く小人数の警備兵が残つてゐるばかりで
殆んど住民の影も見らず、炎は燃えあがるまに辻から辻、町から町へとひろがり
そして自然に消えて行くのであった。

この日部隊は道に沿うて行軍した。
南京へ、南京へ!
南京は敵の首都である。
兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗つとることは決定的な勝利を意味する。 
彼等は退屈しなかつた。

 

 

・・・

つづく

「生きている兵隊」事件  

 

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日中戦争 「弱いシナ」と「暴支膺懲」

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。
なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。
開戦理由を強いて言えば、
”日本軍の面目”と、
”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。
どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、
今からみると、歴史上の日本の汚点。

亡き父は、
「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」
と言っていたが、その言葉からも悪いことをしていた意識はあったようだ。
父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、
もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。
道路は持って日本には帰れない。

 

・・・

 

「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

日中戦争と郷土部隊

盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、
いわば偶発的事件であった。
といっても、日本軍を弁護しようというのではない。
日本軍による満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、
中国は、いつ何時でも、日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。
ここでは、この偶発的事件を、あの泥沼の日中全面戦争へと展開させたものは何であったのかを、問おうというのである。

たしかに日本資本の華北における市場と資源を独占しようとする要求と、 
他方における中国の抗日民族闘争の高揚が、その基礎にあったことは間違いない。

だが、それに加えて、
「要するに日本軍の面目さえ立てばよいので、かれらに日本軍に戦闘意識がないとか、叩かれても平気でいるとかいわれたくないので、軍の威信上奮起した」(大隊長・一木清直少佐)、
あるいは「我軍の威武を冒するも甚だしい」ということで、「全部隊に戦闘開始の命令を下した」(連隊長・牟田口廉也 大佐)というのである。
現地指揮官は、日本軍の「面目」や「威信」のために戦闘を開始したのであって、実際に損害を受け危険が迫っていたとか、戦略・戦術上必要であったからというのでは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情が、そしてそれは裏返して言えば、中国人に対するこれまた非合理な侮蔑意識が、
日中全面戦争の起点にあったのである。

同じ日、軍中央では、
「三個師団か四個師団を現地に出して一撃を食わして手を挙げさせる、そうしてばっと犬を収めて[中略]一部の兵力を北支に留めて置けば大体北支から内蒙は我が思うようになる」という拡大派が、
対ソ戦準備を第一義とする不拡大派を押さえて大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもとに、華北への派兵を決定、
事件拡大に大きく踏み出してしまっていたのである。

中国における抗日民族統一戦線結成への大きな展開を、何ら客観的に認識することなく、全く根拠のない
非合理的な優越意識が、軍中央ならびに政府をもとらえていく。
近衛内閣が、8月15日に発表した政府声明は、
「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」 という、極めて道徳的で感情的な戦争目的をしか揚げることが出来ず、
ついに客観的で具体的な戦争目的は提示し得なかったのである。

ところで、以上に見てきた近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、
万世一系の天皇を頂点とする日本国家=国体こそが「真善美の価値内容の独占的決定者」であるという意識である。
そこでの軍事的な優越感は、客観的な軍事そのものに即しての比較 からというよりは、
倫理的道徳的な優越感として意識されている。
下の者に侮辱された、あるいは下の者を懲らしめるというイメージで語られているのである。
南京攻略作戦の中支那方面軍司令官松井石根大将の次の言は、盧溝橋事件に始まる日中戦争についての、
こうした認識の構造をよく示している。

抑も日華両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして......恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても
猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく其の之を悪むが為にあらず可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念にして

ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の果敢な抵抗で大打撃を被った上海戦の後、
行き当たりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は
「可愛いさ余って憎さ百倍」の狂気の結果であった。

 

 

・・・

「語り継ぐ昭和史(1)」  朝日新聞社 昭和50年発行

松本重治

四十年前の日本人の中国観――「弱いシナ」

みなさんに、まず、四十年前の事情を思い出していただきたいのです。

その事情の一つとして、当時の日本人の中国観という、特別のものがあったわけです。
それは簡単にいうと、 シナは弱い、中国は弱いという考え方です。
そういう中国観に基づいて、日本人には中国人を蔑視するという態度があったわけです。
弱い中国を強くして、中国を助けてやれ、という人も日本人のうちには一部はあった。
けれども、大体の日本人は、中国に対しては、料理はこっちがやるんだ、なんでもやっていいんだという考え方、
つまり「弱いシナ」というのが当時の日本人のだいたいの中国観でありました。
この「弱いシナ」という中国観には、いろいろの理由が考えられます。
それには西欧先進国による中国の植民地化、日清戦争における清国の敗戦、その他がありますが、
日中戦争と関連しての中国観というものには、当時、中央政権の支配範囲が事実上非常に限られていたことと、
日本の関東軍や支那駐屯軍が接触した「雑軍」が存在していたことを忘れてはいけないと思います。
今日から約40年前に、「弱いシナ」という考え方を日本で特に強く持っていたのは、陸軍でありました。
ことに、それは関東軍であり、天津にいた支那駐屯軍でありました。


関東軍と支那駐屯軍とは多少任務が違うので、関東軍のほうは、「満州国」を防衛し、間接的に日本をソ連から防衛するということが任務でありまして、数個師団から成っていた。
天津にいた支那駐屯軍のほうは、昭和11年ごろまでは2.000人ぐらいしかいなかったのですから、その実力は関東軍のそれに比べると、 全然もう話にならんぐらいでした。
ものの本などには関東軍と支那駐屯軍と並んで書いてありますけれども、
片方は数個師団、片方は約二連隊、のちに増強されても、せいぜい一旅団あるかないかというような小さなものでした。
この現地陸軍をはじめ、当時の日本人全体に、「弱いシナ」という考え方が徹底的にこびりついていたことが、日中が全面的に衝突した最大の原因であったと私は思うのです。
これにはまた歴史があるんです。
その当時からさらに50年ほど前の日清戦争日清戦争というのは、みなさんが生まれる前だったんじゃないですかね。
ぼく自身も生まれていなかったんですから(笑い)。その日清戦争で日本が勝ったために、日本人は中国人のことを、「チャンコロ」とかまた「チャンチャン坊主」とかといい、全く馬鹿にしていた時代があったんです。 
日清戦争のころは、相手は清朝が支配していた清国です。 
清朝というのは、ご承知のとおり、満州民族が建てた封建的な政権でありました。
漢民族は、大体、当時通称の「支那本部」にいて、満州民族と蒙古族の一部とが満州にいたわけです。
その満州人が北京にやってきて天下に号令したのが清国なのです。 
初期には康熙乾隆の二帝のごとき明君が出て、国威を高めましたが、その後は暗君が相次いで 帝位につき、国力も弱まって行き、清国は、日清戦争で負けたくらい弱い国となっていました。
し かし清朝の朝廷では、すばらしく格式が高く、また漢民族の優秀な人々をも登用したが、近代国家 として清国をもり立てるには、すでにあまりにも弱かった。
「弱いシナ」というのは、第三国にも ずーっと認められていた。第三国の外交官が清朝の政府との話し合いのときは、おまえのところは 弱いなんていわないんで、やはり、あなたのお国もけっこうですというわけで、いちおう対等には やっておったんです。 
けれども、内心はみんな、「弱いシナ」「眠れる獅子」「老大国」というよう なことを思っていたわけです。

 

国民革命の運動と第一次国共合作

この弱い清国を強くして、なんとかして民主主義的な近代国家をつくらなきゃならん、ひとつ漢民族の青年が運動をやろうじゃないかというので、
革命を考えた先覚者の一人が、ホノルルで医学勉強していた孫文でありました。
けれども、いくら革命的行動をやってみても、失敗ばかり続く。
この孫文を終始助けたのが、民間の頭山満だとか、宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟、萱野長知、犬養毅とかいう人たちでした。 
しかし残念ながら、それは日本のごく一部の人にすぎなかった。

当時の日本人全体としては、なんとでも料理のできる「弱いシナ」というような固定観念があったのであります。
中国では、清朝を打倒して、弱い中国を強くしようという漢民族の青年のグループは、孫文だけでなく、方々にあったわけです。
漢口へんにもいました。
みなさんもご承知だと思いますが、黄興という人が湖南にいた。
孫文も黄興も、同じように革命青年を指導した人でありますが、この二人、初め仲があまりよくなかった。
二人を東京に招いて握手させたのは、さっき申しました少数日本人の一人、宮崎滔天なんです。
二人が握手してつくったのが、普通、「同盟会」ということばでいわれている国民革命同盟会(のちに中国国民党と改称)で、
これは1905年(明治38年)に東京で組織されたわけです。
それから孫文は広東に帰り、また、南方の華僑にアピールして金を集めたり、世界じゅうの華僑にアピールしたりしたわけです。
日清戦争で清国が負けると、清朝ではだめだと自分たちも考えて、なんとか革命を起こして国を 興さなきゃならんと考えたグループのほとんどは、日本への留学生でありました。

・・・

 

 

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昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。
ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、
西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、
1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。

・・・

 


「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


第二次世界大戦

第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。
日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、
近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、
何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

・・・


「太平洋戦争」  世界文化社  昭和42年発行

 
昭和12年(1937)7月7日、日本の支邦駐屯軍(天津)のある中隊が、盧溝橋付近で宋哲元の率いる一部隊と衝突した。
事変の口火は諸説あって、今日もなお謎に包まれている。

当時陸軍中央部では、ふしぎなことにまだ中国に対する作戦方針が一定していなかった。 
部内の積極派の連中は、中国は一撃を加えればすぐに屈伏すると考え、それに必要な兵力は7個師団ぐらいで十分だとみていた。
それに対し事変不拡大派は、昭和16年(1941) までを目標に、対ソ戦の準備のために満蒙資源の利用を含む軍需工業の五か年計画を推進中であり、
長期消耗戦になる可能性を多分にもち、少なくとも15個師団を必要とするであろう中国との戦いには絶対反対だった。
まして昭和10.11年にかけて、急速に極東軍備を充実させたソ連の動きをみては、それはなおさらのことだった。
一方、このときの近衛文麿内閣は、この際禍根の根源を将来に残さないように徹底的な解決を行なうべきで、姑息な妥協は極力排撃すべきだとして、意外に強硬だった。

昭和12年の末には、逐次投入”という拙劣な方法で中国大陸に運ばれた兵力は16個師団、約70万を数えた。
そしていちおう戦術的な勝利を繰返していたものの、占領地域は平津(北平=北京と天津) 地方と揚子江下流を中心に、 
大都市間をつなぐ鉄道沿線の点と線に限定され、
しかもその連絡線はいつも中国側のゲリラ攻撃の脅威にさらされていた。
一方、ソ満国境では 5個師団基幹の関東軍が、4倍以上の兵力をもつソビエト極東軍とにらみあっているというのに、
中国との戦いを短期決戦で終結させる望みはなく、まさに泥沼に足をつっこんだような状態であった。

 

・・・


「大陸の戦火」  研秀出版社  平成7年発行

 
盧溝橋の銃声

昭和12年7月、盧溝橋にひびいた十数発の銃声は、中国侵略の野望をむき出しにした日本に対する、中国の抵抗ののろしだった。
日清、日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを得た日本は、西欧列強の中国侵略競争の一員に加わった。
列国の帝国主義的侵略に対する中国人民の最初の反抗が義和団の蜂起だった。
しかし、英仏日など八か国の連合軍は、北京を包囲し 義和団をした。
2万の大軍を出兵した日本は、賠償金のほかに、清国から北京公使館護衛の名で軍隊の駐屯権を獲得した。
これが、 36年後に、盧溝橋事件の主役を演じた日本の支那駐軍の出発点である。

中国の革命運動家や知識人は、日本を明治維新によって近代化をなしとげたアジアの先覚者と評価し、
日本が、中国を植民地化している欧米の勢力駆逐に手をかしてくれるものと期待していた。
しかし、日本は侵略者として中国にのぞんだ。
裏切られた中国の怒りは反日、 抗日の大きなうねりとなった。
21条要求、山東出兵、満蒙独占の野望の下に傀儡国家満州国でっちあげ、更に内家から華北へと、日本の中国侵略は露骨となっていった。
中国では、共産党の抗日救国のアピールが民族の共感を呼び、日本の侵略に抵抗する統一戦線が軌道にのってきていた。
こうした状況のもとで、盧溝橋の銃声がなりひびいたのである。
誰が最初の一発を撃ったかはもはや問題ではなく、遅かれ早かれ、日中いずれかが発砲する状況にあったのである。
事件は一時現地解決なるかと思われたが、7月11日、近衛内閣は拡大を決議 北支事変と称し、 
28日、日本軍は総攻撃に移って北京、天津地区を制圧した。 
8年という長期戦がこれからつづくのである。

 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
全国民は今か今かと吉報に胸を躍らせ全神経を「陥落」の二字に集中している。
この異常の緊張裡にさんさんたる 日の出を迎えた7日、
市内の各官庁、銀行会社につとめる人達は、いつもより皆早目に出勤、「号外」と共にいつでも旗行列、提灯行列に出勤できるよう待機・・・ ・
神田や銀座の「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい......(12.8付東京日日新聞)と伝え、
さらに同日夕刊は、 
待ちきれなくなった帝都市民は一足先に陥落を決めてしまい、7日夜は銀座も浅草も新宿も興奮のるつぼと化し、
ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
祝杯はこちらでといわぬばかりにカフェー街はここを先途の満艦飾オール銀座は大勝と皇軍への感謝に陶酔〟
という具合であった。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、
東京ではそれから3日3晩、旗行列や提灯行列が宮城前や大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。

しかし、南京ではまさにその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒とつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。

 

南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。 
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師達によって世界中に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみに出るまでその事実を知らなかったのである。
犠牲者の数は、いまだに確かでないが、東京裁判では、南京占領後、2~3日の間に、
少なくとも12.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子二万が集団 で殺され、さらに捕虜三万が降伏して七二時間内に殺されまた、避難民のうち57.000人が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり、殺されたりした"とされた。
これは、当時南京大学教授で、東京裁判に証人として出廷したベーツ博士の証言にほぼ近い数字だが、 
実際にはもっと多くの犠牲者があったとされ、現在中国側では30万人と見ているようである。

 
・・・

もう一つの部隊
從軍慰安婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍には正規軍のほかにもう一つ、従軍慰安婦という“女性部隊”がいた。
彼女たちは銃こそとらなかったものの、戦闘で疲れ、すさんだ兵士たちの心を”慰安”するという、哀れにもまたけなげな "使命”をおっていた。
軍が従軍慰安婦制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦を重ねるのを押さえ、
また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、
軍首脳は軍の厳しい管理下に“慰安所"を設けることとした。

11月中旬、軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。 
「前渡し金1.000円、これを全額返済終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に配属された。 


・・・・・
 

「福山市史・下」  福山市史編纂会  昭和58年発行

日中戦争と四十一連隊 


昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日、第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊も応召することになり、 
7月31日夕刻福山駅から出発していった。
第五師団の先頭部隊であった 四十一連隊は、朝鮮を経由して8月11日に天津に入ったが、
この後の転職状況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。


山田部隊3.000人はただちに臨戦体制に入り、
8月の長城戦、 
9月の○○城戦(←○○は字が読めない・管理人)戦死120名、
11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.200人武器など多数押収)を与え(死傷者16人)
12月13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊は、そのその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

昭和13年、
南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」部隊は、
1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
4月7日にはいわゆる徐州、
徐州会戦は歌に歌われ小説にも描かれてているように、なかなかの苦戦であったが、
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
 
・・・

こののち日中戦争は文字どおり泥沼化したが、
食糧難、武器不足、病気、 中国軍のゲリラに悩まされながら、軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ころまで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。 
福山では41連隊勝利の報がもたらされるたびに、小・中学生を中心とする旗行列が盛大に行なわれた。
夜に入ると大人たちによって提燈行列が行なわれた。
このころから、戦死者の扱い方に大きな変化がみられたことが注目される。

 

すなわち、戦死者は
「男子の本懐 聖戦の死」、
「護国の人柱」、
「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、 
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、
「肩身が広い」、
「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。
したがって戦傷者は「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、 戦病死はごく小さい扱いしかされなくなった。
右のことは、満州事変に比し戦死者が格段に増加したことも一因であるが、
むしろ二・二六事件以後総動員運動が進展していくなかで、ファシズム軍国主義が新たな段階に入ったことの表現でもあった。

 

・・・・

「鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行

盧溝橋事件

1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、
日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。
これ以後、現地では停戦協定も結ばれたが、誕生したばかりの近衛文麿内閣は、
戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

「鴨方町報」に次のような伊藤岡山県知事の訓示を掲載している。
時局ニ対スル伊藤岡山県知事訓示

今回の事変の変勃に関しては、御承知の如く7月7日夜、我支那駐屯軍の一部隊が蘆溝橋附近にて演習中、
第二十九軍の理不盡なり不法射撃に端を発しまして、
我方よりの事実の承認及謝罪其の他正当なる要求応ぜざるをのみならず、逐次其の兵力を増加して、
我部隊に不法なる攻撃を加へ来る等挑戦的行動を敢て為し、
或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行不信行為続発し、
我和平的解決を全面的に拒否至りまして...(以下省略) 

これによれば中国国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、
日本および日本軍の戦線拡大が当然であるかのごとく表わしている。
事実は、日本軍の買収に応じた中国人が関東軍の指図に従って発砲したのであり、 戦線拡大を目論んでいた日本軍の仕掛けた事件であった。


・・・・

 

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花と龍  (福岡県若松港)

2024年07月04日 | 旅と文学

著者・火野葦平は、本名・玉井勝則さんで、
この本に「勝則」として登場する。
父の名は玉井金五郎氏で、本名で登場し、小説の主人公。

小説には人も会社も、ほぼ実名で書かれていて、若松港の生の歴史を見るようだ。
洞海湾は製鉄、石炭が集約する日本を代表する繁栄地だった。
主人公の金五郎は沖仲士の労働条件向上に義侠心をもって闘った。

そんな父のことを火野葦平は書き残し、伝えたかったのだろう。
小説には親族で、アフガニスタンで亡くなられた故・中村哲氏家族も登場している。
中村さんにも洞海湾の金五郎と同じ血が流れているのだろう。

 

 

 

・・・

旅の場所・福岡県北九州市若松区 
旅の日・ 2015年2月20日  
書名・花と龍
著者・火野葦平
発行・岩波文庫 2006年発行

・・・

 

 


その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。

その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。これまで、どんな事態に対処しても、
熟慮して判断を下せば、強い意志力と、なにものにも屈しない実践力とで、すべてのことを解
決して来た。それなのに、 今度の問題は、金五郎を当惑させる。昏迷させる。
(おれは、馬鹿じゃ)
と、自信を喪失する気持にさえなるのだった。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。
この文字は、一年間以上も、前の日記に、いたるところ、散見している。
前年四月、上京したときには、三菱本店を訪問した。
四度も行ったのに、四度とも玄関払いを食わされた。

この 問題は、年が改まってから、にわかに表面化した。
「洞海湾における数千の石炭仲仕は、石炭荷役をすることによって、僅かに、生きている。 
然るに、次々に、荷役は機械化されて、仲仕の仕事は減少した。
仲仕の生活は、貧窮の底に叩き落された。
このうえ、またも、三菱炭積機が建設されるということは、そのまま、仲仕の飢 餓と死とを意味する」

この明瞭な道理によって、反対運動が起されたのである。
それが、うまく運ばない。
立ちふさがる暗黒の壁の中に、金五郎は、この親分の鋼鉄の顔を見るのであった。
(友田喜造と、いよいよ、最後の対決をせねばならんときが来た)

四月七日小頭組合総会。
この日に、三菱問題は、まったく新しい展開をしたのであった。
金五郎は、組合長として、悲痛な宣言をした。
「昨今のような状勢では、もはや、現在数の仲仕や、小頭は、必要ありません。餓死を脱んとしますなれば、大部分の者は、長年馴れ親しんだ仕事に訣別して、転業するの一途です。 
すべては機械のためです。
しかし、それは今度の三菱機だけのためではありませんから、荷主全体、つまり、石炭商組合から、救って貰う外はありません」
このため、小頭組合として、三菱、三井、麻生、住友、貝島、その他を含む「若松石炭商同業組合」に対して、
転業救済資金、二十五万円を要求する決議がされたのであった。
沖仲仕労働組合も、全面的に、これに同調した。
歎願書が作製された。
ところが、その役目を引きつけたのは、友田喜造であった。

 

 

洞海湾の水の色が、梅雨に濡れた後、やがて、夏雲を映すようになった。
戸畑側の新川岸壁には、三菱炭積機が、着々と、工事を進められた。
港には、なにごともないように、日夜、船舶が出入した。
聯合組の隣りに、「若松港汽船積小頭組合」の事務所がある。
その看板とならんで、三倍も大きな、「争議本部」の新しい板札がかかげられた、小頭組合の裏にある「玉井組詰所」の二階に、「若松港沖仲仕労働組合」の看板がかかっている。赤地に、スコップ、雁爪、櫂を組 みあわせて図案化した組合旗が、ひるがえっている。明治建築の名残りをとどめている「石炭商組合」の事務所は、そこから、一町とは離れていない。
これらの建築の間を、このごろは、 連日、あわただしげに、多くの人々が右往左往し、殺気に似たものがただよっていた。 

「この争議はどうなるとじゃ?」
「石炭商が強硬で、てんで、話にならんらしいわい」
「資本家は、おれたちゴンゾが乾干しになろうが、のたれ死にしようが、なんとも思わんのよ。痛うも、痒うもねえとじゃ」
「人間と思うちょらん」

 

 


翌朝、いつもと同じように、機嫌よく、子供たちと、朝食をした。
「お父さんの作夜の「ゴンゾ踊り」、面白かったわ。また、見せてね」
御飯を食べながら、女学生の繁子がいった。 
里美も同意見とみえて、姉といっしょに、父の顔を見た。
金五郎は、にこにこと、踊ってみせる。
「勝則」
金五郎は、息子を呼んだ。
「はい」
「今日は、十時から、争議本部で、小頭組合の評議員会をすることになっとる。お前も行っといてくれ。
無論、おれも行くが、もし、行かなんだら、万事、お前 が処理をしてくれ。ええな?」
「承知しました」
八時すこし前、金五郎は、「小頭組合」の半纏を着て、家を出た。
今日も暑そうな上天気らしい。
すでに、入道雲が純白の頭だけを、高塔山の背後にのぞかせている。
安養寺に寄った。
墓地に行った。
「玉井家累代之墓」と彫られた、花崗岩の墓標の前に立った。合掌した。

 

 

・・・

 

 

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新札発行 2024.7.3

2024年07月03日 | 令和元年~

生活費(固定費)は、ほぼ銀行の自動引き落としで払っている。
ネット通販は、ビザカードで銀行引き落としで払っている。

問題は、町で買い物や食事をする時。
現金とペイペイとICOCAの三つを使い分けている。
これがめんどくさい。
できればペイペイ(またはスマホ)一本で済ませたい。
財布を持つて歩くのもめんどくさい。

 

今日から新札が流通する。
新札が出ると、あっという間に旧札は見なくなるので、
あるうちに写真で写して記録しておこう。


・・・

旧札(204.7.2まで発行)

(管理人手持ちのお札)


上の写真は、↑
1.000円札、5.000円札、10.000円札を重ねた写真で、
縦は同じ、横は1.000円札より5.000円札が長く、5.000円札より1.000円札が長い)

 

 

 

裏面

 

・・・

新札(2024.7.3から新規発行)

(政府広報オンラインのお札)

 

・・・・

 

【日本経済新聞社】の社説  2024.7.3

デジタル時代の新貨幣が問う現金の役割

新しい紙幣(日本銀行券)が3日、発行される。
デジタル時代のなか、現金の役割が問われる局面での登場だ。
デフレからインフレへ潮目の変化も重なる。
お金の流通や決済の仕組みの望ましいあり方を考える好機としたい。

改刷は偽造防止が主目的だ。
肖像画が立体的に見える3Dホログラムなど最先端技術を採用した。
1万円札の顔は日本の資本主義の父と称される渋沢栄一になる。 
5千円札は女子教育の先駆者津田梅子、
千円札は細菌学者の北里柴三郎にそれぞれ変わる。

旧紙幣も今まで通り使える。
「無効になるので交換を」などと持ちかける詐欺に注意が必要だ。
一方で、使えるとはいえ、明確な目的なく自宅などで保有する「タンス預金」については有効活 用を考える契機になりうる。
紙幣の発行残高約120兆円のうち、半分の約6兆円がタンス預金と推計される。
消費などに回れば経済活動が刺激されるが、使わない間に物価が上昇すれば現金の実質価値は目減りする。

日銀は3月、17年ぶりの利上げに踏み切った。
今年から少額投資非課税制度(NISA)も拡充された。
投資を選択肢として検討するのもよいだろう。

 

デジタル時代に対応したキャッシュレス化は待ったなしだ。 
現金決済のインフラの維持コストは重く、経済産業省の試算で2・8 兆円に上る。
日本のキャッシュレス比率は約4割と中国、韓国の8~9割超に比べて見劣りする。 
新紙幣にはATMや券売機の改修が必要になる。
コスト高に苦しむ飲食店などでは対応済みは半分程度にとどまる。
政府はこの機に 抜本的な省人化、キャッシュレス 化への投資を促す施策を打つべきだ。
キャッシュレス比率8割という目標の早期達成にも資する。 
海外では、法定通貨を電子空間で流通させる「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」の導入への検討が進む。
日銀も「デジタル円」の将来の実用化を視野にパイロット実験を2023年に始めた。
デジタル円は、乱立ぎみの民間デジタルマネーをつなぎ、オンライン決済をより便利で安全にする可能性を秘める。
新たな金融テクノロジーを使ったビジネスのきっかけにもなる。
それでも紙幣が完全に無くなる日は見通せない。 
共存しつつ未来を模索したい。


・・・・

 

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