”要するに、日本をアメリカが欲するような理想的国家に作り直そう”
いつの時代にもどこの国でも、新進気鋭で理想に燃える若者がいて、それぞれの分野での夢を実行・実現したり挫折・失敗していった。
それが国家の建設となると、とてつもないスケールや歴史を背負っての行動となる。
昭和20年、アメリカの若い理想主義者たちが新しい日本を築こうとした。
その15年前には、日本の若い指導者たちが満州国の建国に粉骨砕身した。
日本国は新生し、満州国は消滅した。
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「語りつぐ昭和史5」 朝日新聞社 昭和52年発行
ミズーリ号から占領へ 加瀬俊一
日本の降伏
8月29日というのは日本が降伏してから2週間目ですが、この29日にアメリカからマニラにいるマッカーサー元帥に対して訓令が出ている。
これは非常に重要な文書なんです。
「降伏後における初期の対日政策」これは9月22日に公表されました。
要するに、日本をアメリカが欲するような理想的国家に作り直そうという、占領政策の指針です。
武装解除
普通、占領すると何をするかといえば、武装解除、それから領土を剥奪して賠償を取り立てるというのが、
古い型の戦勝国の常套手段だったんです。
ところが領土も取らない、賠償金も取らないというのが現代の通念になりました。
その代わり体制をごっそり変えようというわけです。
無条件降伏を彼らが主張した裏には、日本の政治、経済、社会システムを全部変えよう、そういう着眼があったのです。
大ざっぱにいうと占領政策には二つの柱があります。
一つは非軍事化。
日本の軍事力を奪って、再び日本が軍事的な脅威とならないようにしようということですね。
降伏した日に日本にはどれだけ軍隊がいたかというと、陸海空で7.000.000。そのうち 国内にいたのは2.600.000。
その武装解除は45日で完了しました。
世界の歴史に前例のない速度です。
マッカーサーは10月16日、虹のごとく気炎をあげて、
わが輩が偉いから、特攻までやった日本の勇猛なる軍隊をわずか45日で完全に武装解除した、
しかしその半面、いったいなぜあんなにうまくいったのかー。
日本国民の生活信条が、完全なる敗北によって根こそぎ崩壊したからだ、
天皇陛下が「剣を捨てよ」といわれたから降伏したんだ。
あるいはちがう立場に立つと、占領軍は実は解放軍であったという見方もあったんですね。
それは日本が太平洋戦争中、各地を占領したときにはずいぶんむごたらしいこともしました。
暴行、略奪、放火というようなこともしたんですから、日本自体が考えてる占領軍というものは恐ろしいものだと思うわけですね。
ですからアメリカが日本に軍隊を進駐させたときに、婦女子はみんな疎開させたものですね。
顔に墨を塗り、わざと破れたもんぺをはいていち早く逃げ出したという、無理からぬ、そういうパニック状況でしたよ。
それは日本人が「オレたちあれだけのことやったんだから、アメリカだってやるだろう」、
そういう恐怖心を抱いたということもあるでしょう。
ところが実際は、軍紀厳正で、むしろチョコレートくれたりタバコくれ たりした。
そこで、こわいと思った占領軍がそうではなかった。
GHQの民主化政策
もう一つは民主化です。
これが改革者の実験ですね、日本が試験管になったわけです。
それでいち早く政治犯を釈放、思想警察を廃止、言論の自由、財閥解体、農地改革、女性解放。
6年足らずの間にGHQが出した指令は2.500ぐらい、一日一つじゃ足りないわけですね。
矢継ぎ早に指令を出して、日本政府を手足に使って占領政策を強行していったわけです。
それらのなかには公職追放というのがありました。
21万人、公職から追放されたんです。
お前は軍閥と協力したとか民主主義的でなかったとか。
新憲法制定と対日理事会
それから新憲法制定があります。 これはアメリカが作ったものです。
あのときの情勢上、やむを得ないということになりましょうか。
占領政策を実行する機関としてワシントンに、戦勝十一ヵ国の代表が集まって極東委員会というものができました。
その出先が東京に設けられ、対日理事会と呼ばれました。
極東委員会で政策を練ってマッカーサーに指令する。
マッカーサーはそれを対日理事会に持っていって相談をして、彼らの助言を得ながら占領政策を実行する、そういう仕組みだったのです。
当時、アメリカの世論は、
77%が「天皇を処罰せよ」、
そのうちの36% が「天皇を拷問して餓死させよ」、
そして24%が「処刑せよ、処刑できなければ島流しにせよ」、
また、あるものは「天皇および男系皇族は去勢して無人島に流してしまえ」、こういうことまで言ってた時代です。
そういう雰囲気を背景にして極東委員会が日本に指令を出そうというんですね。
これは1946年の2月26日に第一回会合を開くということになってました。
マッカーサーのほうは、それを開かれちゃたいへんだというわけですね。
開かれる前に日本に平和憲法を作らせなきゃいけない、極東委員会が容喙したらどうなるかわからない。
そして天皇を戦犯にせず、東京裁判に天皇を証人として喚問することをも彼は阻止しようとしたわけですから、
そのためにはいち早く平和憲法を作って天皇は象徴天皇にしてしまう、
それから武力を放棄する、そういう平和憲法ができてれば既成事実として、極東委員会が干渉したくても、その余地はないだろう、
こういうことなんですよ。
それで急いだわけです。
そこでマッカーサーが、日本側でもいろいろな案を作りましたけれども、いわゆるマッカーサー憲法草案を日本側に提示したのが2月13日。
極東委員会が26日に初会合する、その13日前に突きつけたわけです。
それでまあ、一瀉千里の勢いで進駐軍の作成した案が今の憲法になったわけです。
それはまたマッカーサー自身が行おうとする政策に介入を許さないという、彼の自負もあったということでしょう。
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冷戦の始まり
1948年6月にはソ連がベルリン封鎖をいたしました。
あわや全面衝突にいくかと思われるほど切迫した情勢を生みました。
その年の12月には、中国では共産軍が北平を占領。
そうすると日本に対して、いつまでも懲罰政策を続けていてはダメなんだ、早く
日本を復興させてアメリカの協力者にしなければいけないということで政策を転換します。
1948年12月にケーディスが旗を巻いて帰国するんです。
アメリカの対日基本政策が変わってきたんですね。
翌1949年4月には、アメリカを中心とする北大西洋条約、NATOが締結されました。
ソ連を敵とする同盟です。
翌1950年5月にはマッカーサーが反共声明をする。
正面きって共産主義反対の声明をしたのです。
その年6月朝鮮動乱が突発しました。
これでアメリカの対日政策は180度以上の転換ですね。
日本にいた占領軍は全部出払って朝鮮で戦う、そうすると日本は空き巣になって危ない
というので警察予備隊75.000人を作れという指令を出す、マッカーサーの独断の措置でした。
アメリカの対日政策は初期の政策から全く変質して、日本を懲罰する政策から日本を擁護する、
少なくとも日本をできるだけ速かに経済的に復興させてアメリカの協力者にする、
そのためには占領はやめて日本に早期に適切な講和を与えねばならん、という政策に転換しました。
つまり、朝鮮動乱がきっかけになってこの講和促進の気運が盛りあがるわけです。
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グルー前駐日大使の尽力
最後にひとつ天皇のことに話を移します。
天皇をどうするかということは、アメリカは戦争中から非常に研究していました。
天皇制を存続させろという議論と、
いやあれが侵略政策の根源なんだからこの際、息の根を止めて廃止させろという両論があって、
ちょうどシーソーゲーム、一方が強 くなったり他方が弱くなったりしながら論争が続いていたのです。
戦争が始まったときに、ジョセフ・グルーが日本大使をしておりました。
このくらい日本の友人を多く持った外交官はない。
そのグルー大使が帰国して国務次官になって、天皇制維持のために孤軍奮闘したんです。
「天皇制をやめれば日本はどうなるかわからん。
天皇制を温存する方が、連合国としても占領政策がやりいいし、日本国民にとっても心理的安定要素になるんだ」
としきりに説いたのです。
実はパンを与えた征服者は、歴史にもあまりないんですよね。
それは、やっぱりマッカーサーの占領には、善政の面がかなり大きかったということでしょうね。
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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
戦争と敗北は、日本を物質的にも社会的にも、また精神的にも崩壊させたが、
そのことがかえって新しい門出をする地ならしとなっていた。
日本は、新しい感化を素直に受け入れようとした。
アメリカ人はアメリカ人で、それこそ自信満々、先を争って目の前の真空を埋めにかかった。
アメリカ人は、まるで洪水のように、新しい考え方や制度をたてつづけにもちこんだ。
それはちょうど、西欧が19世紀半ばにこの国にもたらした衝撃的な影響にも似ていたが、
今回のほうが与えた影響ははるかに急で、また広範囲にわたった。
マッカーサー元帥が連合国最高司令官、略称SCAPに任命された。
「スキャップ」という呼び名は、やがて占領軍全体を指すようになった。
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