朝日山部屋は、大正15年まで存在した大坂(明治以降は大阪)相撲から続く長い歴史がある。昭和2年の東京相撲との合併時には大阪からいくつかの部屋も合流したが、平成まで残ったのは朝日山部屋と三保ケ関部屋のみ。既に三保ケ関部屋も昨年で消滅したため、大阪相撲から続く相撲部屋はこれですべてなくなることになったのは残念である。
東西合併時に存在した大阪相撲から合流した部屋について、まとめてみたい。
◆朝日山部屋(明和年間~平成27年1月)
前3・朝日山が明和年間に創設、寛政2年廃業。
寛政4年に中相撲の浅香川が継承、一時返上するが7年に再襲名、文政12年まで。
天保4年に大関(江戸では関脇)を務めた弟子の真鶴が襲名し、弘化2年死去。以降、弟子たちが連綿と受け継いでいく。
嘉永元年に婿養子でもある小結・真鶴が継承、文久2年死去。
文久3年に大関(江戸では小結)の平石が継承、明治10年死去。
師匠没後は陣幕所属だった前49(横番附)の陣門が継承したが、大関の真鶴も襲名して2人が併存。陣門は11年限りで消え、真鶴は18年に廃業。
明治19年に小結の御所車が継承、23年ごろ部屋を閉じて千田川に所属。
明治29年、先代弟子→千田川預りの前3・岩ケ谷が再興、大正5年死去。
大正6年、1年限定の約束で横綱・大錦が継承し、7年に一代頭取「大錦」として独立。
大正7年、大関二タ瀬川が継承して東西合併を迎える。昭和18年死去。以降、継承者が在職中に亡くなる例が定着してしまう。
昭和19年より婿養子でもある関脇・二瀬川が継承、34年死去。
昭和34年より部屋付きの北陣親方(もと関脇・高津山)が継承、38年死去。
昭和38年より大鳴戸部屋を経営していた前2・二瀬山が本家に合併して継承、50年死去。この時部屋にいたトンガ出身力士が次代の師匠に付いて行かず、廃業した事件は大問題となった。
次代は部屋付きの親方3人が継承を争ったが、先代が大鳴戸時代からの弟子だった小結・若二瀬が、昭和50年から継承。この時点では、琉王が引退後に北陣部屋として独立する約束だった。なお、継承できなかった大鳴戸親方(もと関脇・高鉄山)は直ちに独立して平成7年廃業。週刊誌に八百長告発記事を書いていたが、持病とは違う病気で記事に登場していた後援者と同日に急死。もう一人の浦風親方(前10・福ノ海)は借株のためその後も借り繋いで停年を迎えたが、3か月後に亡くなっている。
その後琉王が幕下に陥落したため、朝日山を襲名できずに廃業。若二瀬の親方は平成9年5月場所中に急死し、一門の楯山親方(もと大関・大受)が即日暫定師匠に就任。場所後、正式に継承した。27年3月場所中に停年を迎えるため、1月場所限りで部屋を閉じ、伊勢ケ濱部屋に合併することになった。これで大阪相撲から続く部屋は消滅することになる。
◆岩友部屋(宝暦13年~昭和5年)
藤嶋弟子の中相撲・岩友が宝暦13年に創設、天明6年死去。
天明7年にもと中相撲・渦川が継承、享和元年限り。
享和2年よりもと上段の渦川が継承、天保7年死去。
天保7年~13年まで「岩友」を襲名した人物が存在するが、不詳。
天保9年よりもと上段の白石が「岩友」を襲名して併存、11年に一時廃業。先代が番附から消えた後、弘化2年に復帰。安政2年廃業。
安政3年よりもと中相撲・難波鐘が継承、4年に死去。
安政4年にもと前8・岩井山が継承、明治4年に死去。
明治6年にもと中相撲・駒若が継承、7年限り。
明治9年よりもと中相撲・早渡りが継承、15年限り。
明治16年よりもと中相撲・泉灘が継承、38年死去。
明治40年より大関(東京では前4)の響矢が継承して東西合併を迎える。昭和5年に死去し、岩友部屋は消滅した。
◆押尾川部屋(大正10年~昭和9年)
時津風弟子の関脇・時の矢が大正10年に創設、昭和9年に弟子がいなくなって立浪部屋に所属。部屋は消滅した。
なお、昭和50年にもと大関・大麒麟が押尾川部屋を創設したが、大阪相撲とは関係ない。
◆小野川部屋(明和6年~昭和39年)
藤嶋弟子の前15・小野川が明和6年に創設、享和元年死去。
享和3年~文化2年まで「小野川」襲名した人物がいるが、不詳。
文化2年~4年までも同様。
文化5年に前12・一ノ浜が継承、8年限り玉之助へ弟子を譲るが、9年に再興、文政12年廃業。
文政12年より小結・楠が継承、天保4年死去。
天保4年より大関(江戸でも大関)・岩見潟が継承、6年死去。
天保7年より前15・鼓ケ滝が継承、弘化2年廃業。
弘化3年より中相撲・八陣が継承、慶応3年死去。
慶応4年よりもと前6・住の江が継承、明治8年死去。
明治8年より大関・八陣が継承、32年廃業。
明治33年よりもと大関・八陣が継承、34年「八陣」に戻って次代に譲る。
明治35年より横綱・八陣(東京では前11・滝ノ音)が継承、大正10年廃業。
大正11年、もと大関・八陣改メ加古川が継承し、東西合併を迎える。昭和9年陣幕部屋に合併するが、その陣幕部屋の力士を引き継いで14年に再興。17年まで。
昭和17年より前11・加古川が継承、18年に弟子がいなくなって自身は出羽ノ海へ。
昭和22年より先々代弟子のもと前2・錦華山の高崎親方が、陣幕部屋の力士を引き継いで22年に再興。部屋別総当たりを控え、39年に出羽海部屋へ合併した。
◆陣幕部屋(大正6年~昭和29年)
小野川弟子の大関・大門改メ陣幕が大正6年に創設、東西合併を迎える。昭和13年死去、弟子は小野川部屋へ。
先代弟子の前4・青葉山が昭和17年に再興、21年限り高崎親方に弟子を譲って、小野川部屋が再興。27年に陣幕部屋を再興するが、29年出羽海部屋へ譲って消滅。
◆高田川部屋(明治40年~昭和19年)
侠客の橋本政吉が明治40年に創設、大正6年死去。
大正7年より関脇・早瀬川が継承して東西合併を迎える。昭和6年に横綱・宮城山の白玉親方に弟子を譲りいったん消滅。その宮城山(白玉→芝田山部屋に改称)が亡くなったため、19年に再興したが直後に死去。弟子は高砂部屋に預けられて消滅。
なお、現在の高田川部屋とのつながりはない。
◆時津風部屋(享和3年~昭和16年)
小野川弟子の力士享和3年に創設したとされるが、前歴不明。文政8年廃業。
文政12年に弟子が継承するが、不詳。天保2年まで。
天保7年よりもと中相撲・唐錦が継承、14年まで。
天保15年より中相撲・鬼勝が継承、明治13年死去。
明治14年、もと中相撲・雅廉が継承、16年まで。
明治17年よりもと前1・象ケ関が継承、27年まで。
明治28年よりもと前4・猪シが継承、37年まで。
明治37年よりもと幕下二段目・時津野が継承、41年廃業。
明治42年より前10・唐錦が継承、大正8年死去。
大正10年にもと小結・九紋竜が継承して東西合併を迎える。昭和10年粂川部屋に弟子を預けるが、13年に再興して16年廃業。弟子は立浪部屋に移籍して消滅。
なお、「時津風」は双葉山が取得して現在の時津風部屋を創設するが、大阪相撲とのつながりはない。
◆中村部屋(明治30年~昭和36年)
世話人・小松山だった侠客・坂口松次郎が明治30年に「中村」を襲名して創設。なお、「中村」はもともと侠客の本名から。大正11年廃業。
大正11年より前1・若嶋が継承、13年廃業。
西岩部屋を経営していたもと十枚目9・葭ノ浦が大正14年より本家を継承して東西合併を迎える。昭和18年廃業。
昭和18年より前1・楯甲が継承、36年部屋を閉じて二所ノ関部屋へ。大阪相撲の中村部屋はここで消滅。
なお、昭和61年~平成24年まで高砂一門に中村部屋が存在したが、大阪相撲とのつながりはない。
◆湊部屋(寛政11年~昭和2年)
小野川弟子の力士が寛政11年に創設するが前歴不明。文政7年死去。
文政8年より小野川弟子の大関・の立神が継承、12年死去。
文政13年より小野川弟子の前4・高根山が継承、天保5年死去。
天保6年に湊弟子の前18・錦川が継承、7年死去。
天保7年より前18・白峰が継承、15年まで。
天保13年より前4・益鏡も「湊」を襲名して併存、嘉永2年まで。
弘化3年より大関・不知火が継承、嘉永7年死去。
安政2年より関脇・雲早山が継承、明治8年死去。
明治9年より中相撲・小天狗が継承、27年廃業。
明治28年より小野川弟子の小結・黒柳が継承、43年死去。
明治44年より横綱・大木戸が継承、大正5年廃業。
大正6年よりもと呼出し・瀧藏の世話人・陣立が継承、14年死去。
大正15年より小結・日ノ出山が継承して東西合併を迎えたが、直後の昭和2年3月限り高砂部屋に弟子を預けで消滅。
なお、現在の湊部屋は時津風部屋の分家だが、大阪相撲とのつながりはない。
◆三保ケ関部屋(明和年間~平成25年)
明和年間に上取・三保ケ関が創設、安永4年死去。
天明4年より先代→陣幕弟子の中相撲・桜嶋が再興、文化元年死去。
文化2年より先々代→小野川弟子の小町川が文化2年より継承、天保9年死去。
天保11年のみ別の小町川が継承。
天保13年より小結・朝の戸が再興、安政2年まで。
安政3年より前14・諭鶴羽が継承、明治16年死去。
明治17年より大関・八尾ケ関が継承、42年死去。
明治44年より十枚目4・滝ノ海が継承して東西合併を迎える。昭和21年死去し、弟子は出羽海部屋へ預けられて一時消滅。
昭和25年より大関・増位山が再興、59年停年退職。
昭和59年より長男の小野川親方(もと大関・増位山)が継承した。小結・濱ノ嶋の尾上親方が後継者に内定したが、諸事情で独立したため継承者がなく、平成25年の停年を前に長い歴史を閉じた。