さて、その年玉の行方が気になるM嬢である。
私からMに上げた一番安いの一枚だけが、
M嬢の小遣いに算入された。
他の全ては私が巻き上げ、もとい私預かりとなった。
ふとM嬢が、こんなことを呟いた。
「お年玉は、・・・ どうなるの?」
そのM嬢の一言に猛烈な反応を見せたのが母R子である。
猛烈な反応というか教育的指導というのか。
元々、我が家では”お年玉”のほぼ全ては大人の手に渡る。
例えば本人(=子供)が手渡された場合でも、
それは仏壇を経由して(頂戴した報告を仏様にする慣わしなのだ)大人の手に入る。
おしまい。
もし、こんなことを言おうものなら大変なことになる。
⇒「自分が貰ったのだから自分のお金だもん!」
そんな理屈は我が家では通る道理が無い。
「テメェの食い扶持も自分で稼げねぇクソガキが、
ナマ言ってるんじゃないよ!このドアホ!」
くらいの勢いで叱咤される。
結果、自分の食い扶持を自分で稼げる頃になったら。なったで。
今度は貰う側から上げる側になるのだから、
こんな理不尽なこと無いぞと思うのだ。
思うのだが。
そもそも”お年玉”を貰うということは、
それに見合ったもしくはそれ以上のお金(や品物)が大人間で動いている理屈なのだ。
我が家の大人が、かつてお年玉を上げていたのだったりとか。
立場が逆になっただけ、ということもある。
他の場合もあるが、
とにかく何かしらの交際費が動いている証拠のようなものだ。
お年玉のからくり。
それを大人になって知れば、
なぜ我が家の大人が直で子供にお金を渡さなかったのか。
その理由も知ることになる、
なので代が代われば、また自分も同じ理屈を通す。
ということが脈々と伝わっているのが我が家なのだ。
子供にとって「自分のお金」なるものは存在しない。
自分が貰ったお金であっても、イコール自分のお金ではないのだ。
ここを間違ってもらっちゃ困る。困るのだよ、そこの君。
自分で汗水、鼻水流して労働してから言ってくれたまえ。
ところで。
昨晩、我々が”もももんじゃ”などをたらふく食いまくって家に戻り。
テレビを点けると、
そこでは情勢不安定な外の国での人々の苦しい生活が映し出された。
住まいを失い職を失い命からがら逃げ延びた先、
食うに困る日々を送る人たち。
雨露をしのぐ屋根も持たない路上生活。
家族5人に与えられた毛布は、たった3枚だけ。
そんな生活を送っている人々もいる、
それくらいは知っていたつもりだったが。
充分過ぎる以上にお腹を膨らましてきた自分たちの恵まれた現実、
何だか気が引けた。
それが気になって仕方なかった今朝、
仏壇に上がる”お年玉”の包みが目に入り。こう思った。
頂いた分の幾ばくかでも何かの役に立ててもらおう、と。
そこで娘M嬢を仏壇前に呼んで、
その提案を聞かせた。
「ユニセフね♪」
何度か母R子や私が募金をしているのを知っていて、
そのユニセフラベル(募金者の住所氏名入り)が欲しいと思ったようだ。
「Mの名前で送ってあげるよ」「うん!」
さっき郵便振替の用紙を送ってもらう手続きをした。
(※私が募金する時はカード決済しているのだが)
近々、用紙が届いたら本人を伴って局へ出向くとしよう。
『募金』なんて偽善だ、という人も多いし。
使途不明だからしない、という意見もそうかもしれないと思うこともある。
あるけれど。
それでも、ささやかだけど自分たちにできる小さな善意だ。
ちゃんと役立てておくれよ、と思う。
そして救われてほしいと思う。託したからね!
頼みましたよ。
私からMに上げた一番安いの一枚だけが、
M嬢の小遣いに算入された。
他の全ては私が巻き上げ、もとい私預かりとなった。
ふとM嬢が、こんなことを呟いた。
「お年玉は、・・・ どうなるの?」
そのM嬢の一言に猛烈な反応を見せたのが母R子である。
猛烈な反応というか教育的指導というのか。
元々、我が家では”お年玉”のほぼ全ては大人の手に渡る。
例えば本人(=子供)が手渡された場合でも、
それは仏壇を経由して(頂戴した報告を仏様にする慣わしなのだ)大人の手に入る。
おしまい。
もし、こんなことを言おうものなら大変なことになる。
⇒「自分が貰ったのだから自分のお金だもん!」
そんな理屈は我が家では通る道理が無い。
「テメェの食い扶持も自分で稼げねぇクソガキが、
ナマ言ってるんじゃないよ!このドアホ!」
くらいの勢いで叱咤される。
結果、自分の食い扶持を自分で稼げる頃になったら。なったで。
今度は貰う側から上げる側になるのだから、
こんな理不尽なこと無いぞと思うのだ。
思うのだが。
そもそも”お年玉”を貰うということは、
それに見合ったもしくはそれ以上のお金(や品物)が大人間で動いている理屈なのだ。
我が家の大人が、かつてお年玉を上げていたのだったりとか。
立場が逆になっただけ、ということもある。
他の場合もあるが、
とにかく何かしらの交際費が動いている証拠のようなものだ。
お年玉のからくり。
それを大人になって知れば、
なぜ我が家の大人が直で子供にお金を渡さなかったのか。
その理由も知ることになる、
なので代が代われば、また自分も同じ理屈を通す。
ということが脈々と伝わっているのが我が家なのだ。
子供にとって「自分のお金」なるものは存在しない。
自分が貰ったお金であっても、イコール自分のお金ではないのだ。
ここを間違ってもらっちゃ困る。困るのだよ、そこの君。
自分で汗水、鼻水流して労働してから言ってくれたまえ。
ところで。
昨晩、我々が”もももんじゃ”などをたらふく食いまくって家に戻り。
テレビを点けると、
そこでは情勢不安定な外の国での人々の苦しい生活が映し出された。
住まいを失い職を失い命からがら逃げ延びた先、
食うに困る日々を送る人たち。
雨露をしのぐ屋根も持たない路上生活。
家族5人に与えられた毛布は、たった3枚だけ。
そんな生活を送っている人々もいる、
それくらいは知っていたつもりだったが。
充分過ぎる以上にお腹を膨らましてきた自分たちの恵まれた現実、
何だか気が引けた。
それが気になって仕方なかった今朝、
仏壇に上がる”お年玉”の包みが目に入り。こう思った。
頂いた分の幾ばくかでも何かの役に立ててもらおう、と。
そこで娘M嬢を仏壇前に呼んで、
その提案を聞かせた。
「ユニセフね♪」
何度か母R子や私が募金をしているのを知っていて、
そのユニセフラベル(募金者の住所氏名入り)が欲しいと思ったようだ。
「Mの名前で送ってあげるよ」「うん!」
さっき郵便振替の用紙を送ってもらう手続きをした。
(※私が募金する時はカード決済しているのだが)
近々、用紙が届いたら本人を伴って局へ出向くとしよう。
『募金』なんて偽善だ、という人も多いし。
使途不明だからしない、という意見もそうかもしれないと思うこともある。
あるけれど。
それでも、ささやかだけど自分たちにできる小さな善意だ。
ちゃんと役立てておくれよ、と思う。
そして救われてほしいと思う。託したからね!
頼みましたよ。