しかし色彩的には、なかなか魅力深いですよ。
一口に言ってもグレー。
和的に表すなら灰色。そして、ねずみ色。
子供心に最も嫌いな色でした。
色調も色味も、そして「グレー」というどっちつかずな言葉も最も。
あいまいなのは許せなかった私の若さが。
空ならば明らかに「曇り空」で片づいてしまうのに。
子供の私にも、グレーは大人の色と思っていました。
グレーの存在する世界も大人の世界と。
まだ寛容に、あいまいさを受け入れ難いこともあり。
友が何度も「白と黒ばかりじゃ、ないのよ。」と教えてくれる。
そのつどに、すこしずつグレーを認められるようになりました。
“江戸百鼠”という言葉を、ご存知ですか?
江戸時代に“100鼠”といわれるほど鼠の付いた色名が存在したそうです。
鼠色という地味な色こそ“粋”を見出したんですって。
ちなみに茶色は「四拾八茶」。
いずれも大人の粋と色。
電線に、もしも雀が留っていたら。
見事に、ねずみと茶のコラボレーション。
そんな渋味の色彩美も、また一興。
『いのち』 ~小海 永二~
花です 虫です
からだです
鳥です 草です
こころです
それらはみんないのちです
いのちは どれも
ひとつです
いのちのふるさと
地球もひとつ
風が吹き
雲の流れる地球のうえに
要らないものなどありません
互いに支えているんです
見えない手を出し声を出し
互いに支えているんです
どれもひとつで
どれにもひとつ
全部が大事ないのちです
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『ぼくにはぼくの道がある』とともに心に深く沁み入る詩です。
今、私が一番こわいものは“癌”です。
旧友が癌の手術をしたのだと別の友人から知らされた。
知人が何度目かの再発の不安に苛まされていると聞いた。
間接的な知り合いであるが、その人が癌を患い昨日入院したと聞かされた。
もう戻っては来られないかも、と言っていたという。
母が切除したものは“ポリープ”で、
かかりつけ医も担当医も悪性ではないと言ってはいたが。
やはり“絶対”の保証は無いのであって、それは現在「病理検査」に回されている。
たぶん大丈夫とは思っているが、
あまりに周囲から癌の話を立て続けに聞かされると「もしや」との思いが浮かばないわけでもない。
命の保証と絶対という言葉は存在しないのだ、とつくづく思う。
知己にも癌を病んで治療や手術を経験した方も多くあり、
まったく自分には関係ない他人事だとは到底思えない。
家族の可能性と、もちろん自分もその中にさらされている。
定期的な検査、受診の必要性を感じる。
でも、それさえも“絶対の保証”はない。
こわがっていても、こわがりながらも生きていかなくてはならないし。
時間が来れば、お腹が空いて。時間になれば眠気が襲う。
何となく、美味しく食べられて眠れていれば大丈夫なんじゃないかと思ってみたりする。
気休めかもしれないけどね。
・・・・・・
死ぬことを考え生きることを考え、いのちを思い人生の意味を問う。
みんな、そんなこと当たり前にしているんだろうか。
それとも、そんなことに考えが及ぶのは“ヒマ”という時間がそうさせるんだろうか。
いずれ重いけれど決して暗くはない。
生きるのが、イヤになったりはしない。
死にたくなったりも、したことがない。
いつか死ぬから生きてるうちに、やれるだけのことはやっておきたいとか。
だからって真面目に前だけ向いて突っ走るんでもなく。
立ち止まって空、見上げたり。
足踏みしたり座り込んだり。後ろも振り返ったり、たまに怠けたりもして。
生きることも、ときおりうんざりとしながらも。
そんな風にしながらも、そうやって生きていられるうちは生きていく。
自分という存在は、この世にたった一つのかけがえのない“いのち”で。
それが尽きるまで自分をやっていく。
自分の人生のテーマは・・・・・・
「死ぬまで自分をやっていくこと」
また出た、あの人またこんなこと書いたりしてると笑われたりしながら。
『ぼくにはぼくの道がある』
~小海永二~
わからんちんなど
かってにせい
ぼくにはぼくの道がある
ぼくは自分を信じてる
わからんちんなど
相手にせん
ぼくはひとりで道を行く
ぼくは自分を大事にしたい
わからんちんなど
ほっておけ
わかってくれる人がいる
ぼくはそれで十分だ
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道。
この道は、どこへ続いているんだろうか。
この道は、どこまで拡がっていくんだろうか。
この道は誰かの、どこかへつながっているんだろうか。
道のはじまりは、どこだろう。
道のおわりは、どこだろう。
そんなことを考えながら道に立ち道を眺めてみる。
道に立って空を見つめてみる。
自分が、ちっぽけな自分を確認して。
また自分の道を歩いていく。
最近、“いのち”を考えることが多くなりました。
生まれるということは死ぬまでの道を歩きはじめることなんだな、と。
もう生まれてしまった自分は、いつか訪れる死を避けて通ることはできない。
近親者の死や憧れを抱いていた存在の命が消えたことを知って、
とりわけ“死”や“いのち”を他人事でなく自分のこととして受け留める。
こわいような、こわくないような。
でも、やっぱりこわいような。
そして自分の命が尽きるその時よりも。
私を支え私を取り巻く周囲の最期を、
これから幾つ見送り幾つの別れを繰り返すのだろうと考えると。
そちらの方が、ずっとずっとおそろしい。
それを、おそれていても当たり前に朝がきて夜になり朝を迎えることを繰り返す。
そうしているうちは私は私の道を信じて歩いていくしか、ないのだな。