夕方、宅食業者から食料品が届いた。
配達員が驚くほどの大量のモノがドカドカと玄関先に積み上げられる。
母曰く「頼んだ覚えがないのに届いた」らしい。
ああ。またやられた。
覚えていないのだから、母にしてみれば覚えがないものが勝手に届いたように思うのだろうが、ほぼ間違いなく、注文書には書いたのだろう。
今回が初めてではない。
母に言わせれば、注文もしないものをしょっちゅう届けてくるワルイ会社らしいが、もしもそれが事実なら、悪徳業者として、とっくに告発されているだろう。
それにしても今回はすごい量だ。
前回は、2ダースのお茶だけで済み返品したが、今回は、5キロのコメふた袋、カルピスソーダ6本、ご飯6パック、野菜ジュース1リットル、果物ジュース1ダース、缶詰3個、プリン6個入り、3連コーヒーゼリー、長持ち豆腐1ダース、冷凍うどん、冷凍パスタ、じゃこなどなど。
返品可能な常温保存だけでなく、もはや返品不可能の冷凍冷蔵ものまでもりだくさんである。
本当に欲しくて頼んだものがどれなのか、本人もわからなくなっている。
念のため、宅食サービスセンターに確認の電話をすると、どれもこれも注文書に記入があるという。
1本のつもりが1ダースだったというような、あるあるな間違えの範囲を大きく逸脱している。
うんざりした。
「なんでこんなことに巻き込まれなくてはいけないんだ」と思い切り迷惑顔でわたしは言い放つ。
母はあくまでも、「頼んだ覚えがないのよ。プリンなんて欲しいと思ったこともない」と非を認めようとしない。それがまた腹が立つ。
翌朝になってもまた同じことを主張し続ける。
「もう宅食は止めるわ」ときっぱり。
あくまでも業者をワルモノにしたいらしい。
それはいいが、その分の買い物をわたしがしなければならなくなるに決まっている。
間違ったのが業者であろうと母であろうと、わたしにとっては関係がない。
返品というわずらわしい手続きを押し付けられたという事実。
わたしにとって大事なのはそれだけだ。
さらに、返品不可能なものを、食べたくもないのに、もったいないからとせっせと食べずにはいられない性分なのである。
昔の母に戻ってほしくて、もの忘れをピシッと指摘したり、「そうじゃないでしょ!」「今日は〇曜日でしょ!」「どこにしまったの!」と、つい、きつい言い方をしてしまう自分が嫌になる。
ひとり住まいの空間は、もはやわたしにとってシェルターのようになっている。
そのシェルターに向かう日、朝も早よから起き出して、ひとつ先の駅にあるパン屋さんで朝食を食べる時の気分といったら、まるで「脱出した」かのようだ。
「今は落ち着いているからだいじょうぶよ」という母の言葉をいいことに、振り切るように「逃げ出した」のだという気持ちがつきまとう。
先日の父の診察の日、車いすを押してすっ飛ばしたわたしに対して、「疲れたでしょう」とねぎらってくれたのは、今までと変わりない母であった。
リュックサックを背負って必死にあとをついてきた彼女自身もしんどかっただろうに、こちらをねぎらってくれた。
しんどい人には、相手のしんどさがわかる。
検査や診察時間のことで頭がいっぱいだったとはいえ、もっとゆっくり歩いてあげればよかったと思う。
変わってしまった母と、普段の母とが日替わりでやってくる。
そのたびに血がのぼったり、このように反省したりと、日々不穏である。
配達員が驚くほどの大量のモノがドカドカと玄関先に積み上げられる。
母曰く「頼んだ覚えがないのに届いた」らしい。
ああ。またやられた。
覚えていないのだから、母にしてみれば覚えがないものが勝手に届いたように思うのだろうが、ほぼ間違いなく、注文書には書いたのだろう。
今回が初めてではない。
母に言わせれば、注文もしないものをしょっちゅう届けてくるワルイ会社らしいが、もしもそれが事実なら、悪徳業者として、とっくに告発されているだろう。
それにしても今回はすごい量だ。
前回は、2ダースのお茶だけで済み返品したが、今回は、5キロのコメふた袋、カルピスソーダ6本、ご飯6パック、野菜ジュース1リットル、果物ジュース1ダース、缶詰3個、プリン6個入り、3連コーヒーゼリー、長持ち豆腐1ダース、冷凍うどん、冷凍パスタ、じゃこなどなど。
返品可能な常温保存だけでなく、もはや返品不可能の冷凍冷蔵ものまでもりだくさんである。
本当に欲しくて頼んだものがどれなのか、本人もわからなくなっている。
念のため、宅食サービスセンターに確認の電話をすると、どれもこれも注文書に記入があるという。
1本のつもりが1ダースだったというような、あるあるな間違えの範囲を大きく逸脱している。
うんざりした。
「なんでこんなことに巻き込まれなくてはいけないんだ」と思い切り迷惑顔でわたしは言い放つ。
母はあくまでも、「頼んだ覚えがないのよ。プリンなんて欲しいと思ったこともない」と非を認めようとしない。それがまた腹が立つ。
翌朝になってもまた同じことを主張し続ける。
「もう宅食は止めるわ」ときっぱり。
あくまでも業者をワルモノにしたいらしい。
それはいいが、その分の買い物をわたしがしなければならなくなるに決まっている。
間違ったのが業者であろうと母であろうと、わたしにとっては関係がない。
返品というわずらわしい手続きを押し付けられたという事実。
わたしにとって大事なのはそれだけだ。
さらに、返品不可能なものを、食べたくもないのに、もったいないからとせっせと食べずにはいられない性分なのである。
昔の母に戻ってほしくて、もの忘れをピシッと指摘したり、「そうじゃないでしょ!」「今日は〇曜日でしょ!」「どこにしまったの!」と、つい、きつい言い方をしてしまう自分が嫌になる。
ひとり住まいの空間は、もはやわたしにとってシェルターのようになっている。
そのシェルターに向かう日、朝も早よから起き出して、ひとつ先の駅にあるパン屋さんで朝食を食べる時の気分といったら、まるで「脱出した」かのようだ。
「今は落ち着いているからだいじょうぶよ」という母の言葉をいいことに、振り切るように「逃げ出した」のだという気持ちがつきまとう。
先日の父の診察の日、車いすを押してすっ飛ばしたわたしに対して、「疲れたでしょう」とねぎらってくれたのは、今までと変わりない母であった。
リュックサックを背負って必死にあとをついてきた彼女自身もしんどかっただろうに、こちらをねぎらってくれた。
しんどい人には、相手のしんどさがわかる。
検査や診察時間のことで頭がいっぱいだったとはいえ、もっとゆっくり歩いてあげればよかったと思う。
変わってしまった母と、普段の母とが日替わりでやってくる。
そのたびに血がのぼったり、このように反省したりと、日々不穏である。
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