日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

高速増殖炉 ”もんじゅ” の運命

2016年07月20日 09時14分29秒 | 日々雑感
 原子力規制委員会の勧告を受けて、文部科学省は高速増殖原型炉 ”もんじゅ”の在り方を検討してきた。その結果、日本原子力研究開発機構内のもんじゅ運転管理部門を本体から分離し、3百数十人程度の新法人を作る案を固めたとのことである(7月2日報道)。

 かって、”もんじゅ” は夢の原子炉ともてはやされたことがあった。核燃料を燃やして発電し、燃やした以上の核燃料を生み出すと期待されたからである。このためには、現在主流の原子炉に比較して格段に難しい技術的な問題を解決する必要がある。その一つが、通常の原子炉では水を冷却水とするが、そこでは液体ナトリウムを使用することである。高速増殖炉では放出された中性子を減速させないようにするためである。金属ナトリウムは融点が98℃で容易に液体化できる利点はあるが、水と反応すると激しく燃える厄介な物質である。

 “もんじゅ”は1995年にナトリウム漏れ事故を起こし、2010年には燃料交換装置の落下事故を起こした。それ以降も機器の点検漏れなどの不祥事が相次いだことを受け、原子力規制委員会は原子力機構には安全に運転する資質が無いと結論つけ、廃炉を含めた今後の対策を立案するように迫っていた。

 そこで文科省は四苦八苦して改善策をまとめたのだ。それによれば、保守点検などの技術面には原子炉のプラントメーカや電力会社からの出向者をあて、経営面では民間企業で組織運営の経験が豊富な人材を活用するとの方針を示した。原子炉の中でも高速増殖炉は極めて特殊な技術であり、熟知した技術者はそう多くはいないであろう。新法人の設立にあたり、これまで従事してきた人々の処遇は不明であるが、これまでと同様に活用せざるを得ないのではなかろうか。
 
 ”もんじゅ”は、例え廃炉にするにしても相当な規模の組織は必要であろう。現在、燃料交換装置が故障中で燃料棒の交換もままならないらしい。前に進むにも、後に退くのも問題山積みであるが、現状維持だけでも、年間500億の費用を使う「お荷物」状態のようだ。このような状況下では、どんな組織を作ろうが、担当者の士気が上がる筈は無い。先の点検漏れなどの不祥事は、士気の低下の典型例であろう。

 更に、技術的な困難さや採算性の悪さから、海外で作られている高速増殖炉はフランス以外殆ど撤退を決定しており、技術者の一層のやる気をそいでいることだろう。そもそも、福島第一原発の廃炉も先が見えない。廃炉で生じたごみも処分法が未だ決まっていない。これまでの発電で生じた使用済み核燃料も各発電所で行き場が無く、近い将来満杯になる。八方ふさがり状態である。

 ”もんじゅ” は核燃料サイクルにおける必要不可欠な要素でもある。各発電所に保管されている使用済み核燃料も六ヶ所再処理工場で再処理される筈であったが、2016年7月現在稼働していない。原子力政策は既に行き詰っているのだ。文科省としても、厄介者の”もんじゅ”をお払い箱にしたいであろうが、それは核燃料サイクルの破たんを決定付けることでもある。

 日本では一旦始めた国の事業はまず止められない。官僚組織には定期的な人事移動があり、自分の任期の間は前例に従って無事にこなせば、次のポストが約束される。方向転換への主張は窓際族入りだ。ここに、問題先送り体質の根源があり、問題が明らかになっても誰も責任を取らない。”もんじゅ”の廃炉の決定は政治家が命令すべきであろうが、原子炉政策全体を見渡せる人材はおらず、官僚の言いなりにならざるを得ない。

 ”もんじゅ” 問題が無くても原子炉政策は破綻状態である。原子力発電は当面の春を謳歌するだけで、問題先送りのデパートである。先進国では原子力発電は自然エネルギーにシフトし始めている。

 未来に対する明るい希望が無いところに、人材は集まらない。大学において原子力関係に進学を希望する学生の推移はどうなっているか分からないが、多分じり貧状態ではなかろうか。これまで、原子力発電を支えてきた人材が定年退職する前に、廃炉事業を積極的に進めるべきではないだろうか。

 文科省も ”もんじゅ” 問題は、組織の問題より、将来に対する夢の有無の問題であることを心すべきである。
2016.07.20(犬賀 大好ー252)