日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

子供の早期教育のあるべき姿

2017年08月30日 16時48分32秒 | 日々雑感
 フィギュアスケートの羽生結弦選手は4歳から、卓球の福原愛選手は3歳から、競泳の萩野公介選手は零歳より練習を始めたそうだ。このようにトップアスリートの中には、ごく幼い頃に競技生活の第一歩を踏み出した人が少なくないようであり、逆にトップに立つためには幼くして始めなければならないようにも感ずる。

 スポーツ選手に限らず、バイオリンやピアノの音楽家も幼い頃より、練習を始めたとの話もよく耳にする。幼児期,もしくは学童期に優れた才能と素質をもった児童に対してその才能を伸ばすための特別な教育をほどこすことが、英才教育であり、才能教育であろう。

 スポーツ選手同士の結婚や音楽家同志の結婚の場合、子供も同じ遺伝子を有するので当然その道に通ずる筈だとの判断であろうが、その子供の才能を伸ばし同じ道を歩ませようとして幼い頃より練習させる。これも親の愛情表現の一つと思えなくも無いが、子供の人生を親が決める親のエゴのような気がする。

 スポーツや芸術ばかりでなく、我が子に幼児期より色々教え込むことは一般家庭でも広く行われているようである。所謂お受験対策もその典型であろう。良い大学に入るためには、良い高校へと、どんどん低年齢化し、ついには良い幼稚園に入る必要があると、幼稚園に入るための予備校がある位だ。お受験後の幼児がどのような大人に成長したか、是非知りたいが、調べた人はいないだろうか。

 英才教育の是非については、随分前から各国で検証されていたようである。例えば、1970年代にドイツ政府が、“お勉強中心”の幼稚園と “遊び中心”の幼稚園の子ども達を、長期にわたって比較した調査があるそうだ。

 その調査では、“お勉強中心”の幼稚園の子ども達は、最終的には “遊び中心”の幼稚園の子ども達より読書や算数で劣り、しかも、社会性や感情面でも周りとうまくやっていくことができないということが明らかになったそうだ。このことから、ドイツ政府は、幼稚園に“遊び”を多く取り入れる方針に回帰したそうだ。

 我が孫の遊びを見ていると、何でこんなことが面白いのか不思議に思うことが多々ある。電車の玩具にしても、市販の高価な物より、手作りされたダンボールの直方体に自分で僅かに色を塗っただけでこれが小田急のロマンスカーだと言って喜ぶ。子供は遊びの天才と言われるが、遊びとは子供なりの創意工夫だと理解すると、幼児期の遊びは自主性を育てるのに役立っていると思える。

 学習に対しては、本人のやる気が一番効果的であると確信するが、この点、幼児への知識の押しつけは、一時的には効果があったように思えるかも知れないが、いずれ限界が来ることが予想でき、先のドイツの調査結果も納得できる。

 また、米国における別の調査では、15歳では、“知識中心”のグループが不正行為を行う確率が、そうでないグループの2倍、さらに驚くべきことに、23歳では、犯罪者になる確率が、他の二つのグループの13.5%に対して39%、約3倍も多かったとのことだ。

 盲導犬の育成過程の一つにパピーウォーカーというのがある。盲導犬や介助犬の候補となる子犬を生後50日から約1年間、家族の一員として、節度ある愛情を持って子犬を飼育して、人間への信頼感を芽生えてさせ、人間社会で生活するためのルールを教えることである。これを経験すると、その後の厳しい訓練も、人間との信頼関係を崩すことなく乗り越えることが出来る。これは、少なくとも人間社会の中で暮らしていくためには、対人関係の構築が生半可な知識より重要であることを示唆している。

 幼児への知識の押しつけは弊害が多いのは間違いないだろうが、逆に放任しておけば良いといったものではないだろう。盲導犬においては節度ある愛情を持って飼育、が重要なポイントであろうが、人間の場合も然りであろう。しかし、人間の場合犬よりはるかに複雑である。育てる人、育てられる人それぞれに個性があり、何等かの指導書のひとつで解決する問題ではないだろう。

 親としては子供に色々な経験をさせ、その経験の中から自分で将来の方向を決めさせるのが、親の役目と思う。それぞれ個人の立場で工夫して育てるしかない。2017.08.30(犬賀 大好-368)