日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

集団主義的な体質から自主性は生まれない

2018年11月24日 09時06分54秒 | 日々雑感
 日本人のイメージは集団主義的人種である。集団主義とは集団の目標や利害を自分のものよりも優先させていくという集団中心の考え方であろう。多くの人の幸せの為に自分を犠牲にすると理解すれば道徳的美的行為となろうが、単に自分の信念が無く大勢に盲従するとなると弊害も大きい。

 日本人の集団主義はムラ社会が生みの親である。ムラ社会では、人は田植や収穫等の農耕作業において共同で働くことが原則であり、また祭り等の季節的行事も協力し合わねばならない。

 東京大学大学院人文社会系研究科の高野陽太郎教授は、日本人は集団主義的だとの通説が事実なのかどうかを確認するために、心理学、言語学、経済学、教育学などにおける実証的な研究を調べ、日本人は欧米人より集団主義的だとは言えないと結論付けている。

 教授は、個人主義的である事象に関する実証的な研究を調査し、その数の多さで上記のように判断している。しかし日本人が集団主義的でることが当然視される中にあって、敢えて集団主義的である事象を研究する人は元々少なく、論文数も少ないであろう。その点で教授の論理の展開には違和感を感ずる。

 また、教授は日本人が欧米人に比較し集団主義的でないと言っているだけで、個人主義的とまでは言っていない。

 しかし、日本人に特有な、義理・人情、本音と建前、滅私奉公、村八分、出る杭は打たれる、長いものにはまかれろは、日本ムラ社会の特徴を言い表したことわざであり、集団主義的社会の落とし子と理解するのが妥当であろう。

 個人主義における自立した人間とは、経済的にも精神的にも自立している自主性のある人間のことである。集団主義的社会においても大勢の意見を纏めるためには議論が必要になるが、日本人にとって議論は喧嘩であり、最後はオサが纏め、個人の意見は二の次だ。そこにおいては自分の意見を主張するより、大勢に従った方が楽であるとの背景もある。

 集団主義的な日本の家族ではなかなか親離れ出来ないが、社会に出ても親離れできない子供は、親の代わりを求める。それが時には上司や権力者となり、彼らに従順に従う者になる。この脇役が権力者の回りを固め、権力者を増長させる例が特にスポーツ界や政界に見られる。

 体操の宮川選手に塚原夫婦の意に従うように電話したのは塚原強化本部長の付き人からとのことである。また日本ボクシング連盟の助成金の不正流用問題等においても、当事者の成松選手に不正流用を自らの判断でやったことにしてくれと電話したのは、側近の理事だったようだ。

 更に日大のアメリカンフットボールでは、内田前監督に対する井上前コーチの存在がある。彼ら脇役が権力者の意向を忖度して独自に行動したのか、直接の命令でしたのか不明であるが、兎も角く虎の威を借りる狐の役目を果たす迷脇役である。

 しかし彼らの行為は決して周りから突出していたわけでは無く、日本人であれば多かれ少なかれ持つ特徴であろう。

 自主性の無い者は、強い者に従う。権力者の意見に従っておれば、自分も偉くなった気分で下の者に命令できる。しかもいざという場合には権力者の責任に転嫁出来、我が身は安泰であるからだ。

 この典型が第二次世界大戦中の大多数の軍人であろう。天皇の名前を借りて好きなようにやった。敗戦と分かれば、首を引っ込めて嵐の過ぎるのをじっと待っている。

 現在日本の政治は、安倍一強政治と言われる。この体制が出来上がった理由は様々に解説される。しかし、二世議員の多さに関しては余り触れられていない。二世議員は親から看板・鞄・地盤を引き継いでいる。そこにおいてはムラ社会の一員であり、ムラを存続させることが最優先であろう。二世議員は、先述のスポーツ界における独裁者を支える迷脇役と同じであると感ずる。2018.11.24(犬賀 大好-497)