超高齢化社会である。しかもiPS細胞による再生医療やガン早期発見検査法等の進歩が著しく、現在でも世界一の平均寿命は更に記録更新すると思われる。しかし、一方では社会保障費が年1兆円づつ増え、日本経済は益々苦しくなる。一億総活躍社会と叫ばれる現在、高齢者の存在意義は何だろうとはたと考え込んでしまう。
現在の日本の繁栄は高齢者の若い頃の苦労のお蔭であり、現在楽するのは当然の権利である、と言って堂々として人もいるが、一般的には何かと肩身が狭い世の中である。敢えて存在意義を見出そうとすると、社会、特に若者に対し自分の経験を伝えることに存在意義がある、とお仕着せの返事も聞こえてくる。確かに、そうかも知れないが、ほとんどの高齢者、すなわち老人は社会の足手まといであろう。
儒教においては老人を敬えとの一貫した思想がある。しかし、老人が長生き出来ず、人数的にも少なく、希少価値として役立った時代に出来た思想であろう。何しろ石を投げれば高齢者に当たる時代である。後2,30年経ち、団塊の世代がこの世から居なくなれば、社会保障費も少なくなり日本経済は安定するとの待望論も聞かれる。兎も角、高齢者は社会のお荷物になっているのだ。
老人が集まるとよく、ピンピンコロリ、略してピンコロが話題になる。生きている間は誰の世話にならず元気でおり、死ぬときはコロリと一瞬で死ぬことが理想であるとの話である。
死はいずれやってくるが、通常突然やってくることは稀である。死に至るまでの間、多かれ少なかれ、誰かの面倒になる。面倒を見られる間、生きていることを実感できればまだしも、意識が無くなり植物状態になっても、まだ面倒をかけるのは、到底本人の希望するところではないだろう。
突然死を迎えるためには、交通事故か自殺しかない。交通事故は自分で選択できない。選択できるのは自殺である。
現在日本における自殺者は年間3万人強で、そのうち1/3強が60歳以上の老人との話だ。健康上の理由が一番多く、経済・生活問題が続くそうだ。共通するのは現在の苦しみから逃れるためとか、将来を悲観しての話であろう。人間の本能は生である。その本能に打ち勝って死を選ぶとは余程の覚悟が必要であり、当人の苦しみの大きさが伺い知れる。しかし、下流老人が激増する昨今、他人事と言ってはおられない。
ピンコロと自殺が異なるのは、死を直前に知るかどうかである。死が恐怖であるか、希望となるか、誰も死んだ経験がないので断定できない。ピンコロが理想的と思われるのは、死の直前においても死を感じないことであろう。
社会保障費が破綻寸前であり姨捨山がいつ制度化されてもおかしくない。いやもう始まっているかもしれない。特養の収容人数の倍が待機人数だと言う。下流老人は姨捨山に行くしかない。
老人が住みにくくなる時代、ピンコロを実現するのは容易でない。せめてピンコロ希望者に安楽死を認める時代が来ないものだろうか。(犬賀 大好-183)
現在の日本の繁栄は高齢者の若い頃の苦労のお蔭であり、現在楽するのは当然の権利である、と言って堂々として人もいるが、一般的には何かと肩身が狭い世の中である。敢えて存在意義を見出そうとすると、社会、特に若者に対し自分の経験を伝えることに存在意義がある、とお仕着せの返事も聞こえてくる。確かに、そうかも知れないが、ほとんどの高齢者、すなわち老人は社会の足手まといであろう。
儒教においては老人を敬えとの一貫した思想がある。しかし、老人が長生き出来ず、人数的にも少なく、希少価値として役立った時代に出来た思想であろう。何しろ石を投げれば高齢者に当たる時代である。後2,30年経ち、団塊の世代がこの世から居なくなれば、社会保障費も少なくなり日本経済は安定するとの待望論も聞かれる。兎も角、高齢者は社会のお荷物になっているのだ。
老人が集まるとよく、ピンピンコロリ、略してピンコロが話題になる。生きている間は誰の世話にならず元気でおり、死ぬときはコロリと一瞬で死ぬことが理想であるとの話である。
死はいずれやってくるが、通常突然やってくることは稀である。死に至るまでの間、多かれ少なかれ、誰かの面倒になる。面倒を見られる間、生きていることを実感できればまだしも、意識が無くなり植物状態になっても、まだ面倒をかけるのは、到底本人の希望するところではないだろう。
突然死を迎えるためには、交通事故か自殺しかない。交通事故は自分で選択できない。選択できるのは自殺である。
現在日本における自殺者は年間3万人強で、そのうち1/3強が60歳以上の老人との話だ。健康上の理由が一番多く、経済・生活問題が続くそうだ。共通するのは現在の苦しみから逃れるためとか、将来を悲観しての話であろう。人間の本能は生である。その本能に打ち勝って死を選ぶとは余程の覚悟が必要であり、当人の苦しみの大きさが伺い知れる。しかし、下流老人が激増する昨今、他人事と言ってはおられない。
ピンコロと自殺が異なるのは、死を直前に知るかどうかである。死が恐怖であるか、希望となるか、誰も死んだ経験がないので断定できない。ピンコロが理想的と思われるのは、死の直前においても死を感じないことであろう。
社会保障費が破綻寸前であり姨捨山がいつ制度化されてもおかしくない。いやもう始まっているかもしれない。特養の収容人数の倍が待機人数だと言う。下流老人は姨捨山に行くしかない。
老人が住みにくくなる時代、ピンコロを実現するのは容易でない。せめてピンコロ希望者に安楽死を認める時代が来ないものだろうか。(犬賀 大好-183)
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