ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ レヴィ=ストロースとサルトル

2010-01-26 23:26:39 | エッセイ
今になって、クロード・レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」、「野生の思考」を読んだ。
 山口昌男、栗本真一郎、中沢新一などを読んでいると、レヴィ=ストロースは既に結構読んでいたような気になってしまっていた。大学時代、文化人類学も、若干かすめたところもあり。
 実際のところ、「人種と歴史」一冊のみだった。
 で、問題はサルトルである。
 一応、卒論は、サルトルで、人文書院の翻訳を読んで、でっち上げた、というところ。語学の能力もないし、原典にはあたっていない。タイトルは「生におけるフィクションについて」。
 「野生の思考」の最終章は、「歴史と弁証法」、徹底的なサルトル批判である。この批判については、私もどこかで読み齧ってはいるので、ふむふむなるほど、と読み終えた。
読み終えて、しかし、どうも何かが引っかかっていた。
 私の卒論は、サルトルである。当時、サルトルも、ひとつのファッション(既に、過ぎ去ろうとする、ではあったかもしれない)であったことは間違いないが(ファッションであるということは、実は重要なことだ)、専門として、哲学・思想コースを選択し、サルトルを選んだ。
 引っかかりのなかで、ああ、と改めて気づいたことは、私が、当時、そして、その後、生き延びてくるうえで、サルトルを選んだことに、決定的な意味があったということだ。
当時の私にとって、構造主義的な決定論ではなくて、実存主義の自由と選択、そして、参加、これらなしに、社会の一員として生きていくすべがなかった。これは、実は、今でもそうなのだ。
 この紙幅のなかでは、具体的にどうこうと説明できないし、哲学的な考察は、身に余る。
これからしばらく、この対峙を引きずっていくことになるだろう。
 ただ、私の卒論は、「存在と無」までのことであり、レヴィ=ストロースの批判は、「弁証法的理性批判」の段階であるようだ。説明はつくだろうが、つけない方がいいのかもしれない。

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